もう、秋もずいぶんと深まっていたので、
その日の仕事といえば、山の端で切り株の根っこを掘り返すことぐらいだった。
難儀な仕事だったが、与平は無心に鍬を振るった。
太陽はゆっくりと里から山へと動いてゆき、午後のひんやりとした秋の風が、
汗の流れる首筋を優しく愛撫した。
与平にはそれで十分だったのだ。今までは。
しかし、ごく開けっぴろげで陰影というものがない彼の心の中にも、
なにがしかの新しい動きが始まっていた。
向こうでそよいでいるすすきの群れを見ると、その涼やかで優しく、おごったところのない動きが、
何とはなしに、つうのことを思い起こさせた。
今日の骨折りが終われば、家でその女が待っているのだった。
「そうか」
与平は一人、ほほえんだ。

足早に日が暮れた。心なしか急いで家路につく与平の頭の上では、空はもう青黒く沈んでいた。
冬が近いこの頃は、虫の声もだいぶ弱々しく、まばらになってきた。
与平がガタガタと木戸を開けると、中は真っ暗だった。人の気配がなかった。
与平は家の裏手に回った。ただ、小川の流れる音だけが、こぽこぽと響いていた。
夕闇の中で、柿の木が、低いあばら家におおいかぶさるようにして両腕を広げ、
くろぐろと、無言で立ちはだかっていた。
与平は家に戻り、闇の中、小枝で囲炉裏をかき回し、灰の中から熾火を掘り出した。
火がつくと、がらんどうの部屋の中がまざまざと照らされた。
「そうか」
与平はそのまま寝てしまうことにした。

その夜半のことである。
与平はふと、目を覚ました。
裏手で、なにやら人の声がしたようだった。与平は聞き耳を立てた。
確かに、何人かが、声を潜めて話し合っているようだった。
何を言っているかは聞き取れなかったが、皆、奇妙に甲高い声の持ち主のようだった。
しゃべっているのが男か女かもわからなかった。
声が近づいてきて、裏の小部屋でゴトゴトと、何か重いものが運び込まれる気配があった。
物音がおさまると、声はだんだんと遠ざかって行った。不思議なことに、その裏声のようなざわめきは、
上へ、空の方へと消えて行くようだった。
と思うと、裏の戸を閉める音がガタガタと聞こえた。そっと閉めたつもりなのだろうが、建てつけが悪いので、
どうしても家中に音が響いてしまうのである。その上、音をひそませる意味があまりなかった。
裏手から現れたつうは、寝ている与平に駆け寄って、がばりと抱きついた。
その、確かな重みと暖かさは、与平についさっきまでの怪異を忘れさせるに十分だった。
与平は黙ってつうの肩を抱いてやると、ぬくもりと安堵の中で、再び眠りに落ちた。

翌朝は、与平の方が早く目を覚ました。傍らで眠っているつうを起こさぬように、そっと起き上がると、
肩に菰をかけ直してやった。裏戸を開けると、ちょうど低い空にたなびく雲の間から、朝日が顔を出した。
与平は伸びをして、小川で口をゆすぎ、顔を洗った。ずいぶんと腹が空いていた。
さて、裏から部屋に戻る時、与平は初めて、夕べの不思議な出来事を思い出した。
裏の部屋をそっと覗いて見た。すると、狭い土間いっぱいに、大きくて立派な機織り機が据えられていた。
大概のことには驚かない与平も、これにはさすがに言葉がなかった。
呆れて、つうのいる表の部屋を見ると、いつの間にかつうは半身を起こしていて、与平をじっと見ているのである。
それは、最初の晩に与平を見ていた目と、同じ目だった。
そうして、改まって正座をすると、与平にこう言うのである。
「今夜から七晩、あたしは錦を織って、お前にあげるから、それを町で売るといい」
「そうか」
与平に特に異論はなかった。
「それで、あたしたち二人で食べていける。だからお嫁にして」
「ああ」
いともあっさりと、与平は答えた。
「でも」
と、つうはしっかと与平の目を見すえて言った。
「あたしが機を織っているところは、絶対に覗かないで」
「ああ」
またしても、与平はあっさりと答えた。
「ほんとよ」
「わかった。約束する。それより腹が減ったよ」
つうは与平の心を計るように、しばらく黒目をひたと据えていたが、この男の心に、裏などありようもないのだった。
何となく、物足りなさを感じながらも、つうは朝餉の支度を始めた。
スポンサーサイト





昔々、ある山あいの村に、与平という若い男がいた。
与平は早くに両親をなくし、一人で村はずれのあばら家に住んでいた。
万事ものにこだわらない質(たち)で、口数は決して多い方はなかったが、ほがらかで、よく働く男だった。
貧乏だったが、なかなかの男ぶりだったので、時に浮いた話のひとつやふたつは持ち上がらないでもなかった。
ところが、結局いつも、もの別れに終わってしまうのだった。
彼の態度があまりにあっさりしているため、女の方が愛想を尽かしてしまうのである。
どう一生懸命しなを作っても、料理に腕をふるっても、
「そうか」
の一言で終わってしまうのだ。暖簾に腕押しなのだった。
また、与平も去って行く女を、決して深追いはしなかった。
「そうか」
彼はそう言って笑い、何ごともなかったように元の生活に戻るのである。

ある晴れた秋の日、与平は山に入って薪を拾っていた。
すると、山道から少し外れた薮の中から、突然、ケーン、ケーンと苦しげな鳴き声が上がった。
与平が覗き込むと、そこには大きな鶴が一羽、バタバタと必死で羽ばたきながら、
地面から離れられないでいた。
見ると、狐の罠にはまっていたのである。
与平は近寄ると、鶴の足から虎ばさみを外してやった。
鶴は与平を恐れて、羽で顔を打ったり、長い首を振りかぶってくちばしでつついたりしたが、
彼は平気の平左で罠から外した鶴の足を持ち上げた。
傷口から血が幾筋か流れて、握っている与平の手を汚した。
与平は、バタバタと暴れる鶴を片手で持ったまま、ブナやクリが生い茂る斜面をずんずんと下りて、
谷底を流れる小川に出た。
彼は、せせらぎに鶴の足をひたしてよく洗ってやると、自分の着物の端を少し割いて、傷口に巻いてやった。
「それ」
与平は笑って声をかけ、鶴を離してやった。
白い翼が大きく広げられ、水晶のように透き通った秋の陽光を一身に受け止めた。
きらきらと輝く川面と、黄金色に染まったブナの木々を背に、その大きくて美しい鳥は高く飛び立った。
そして、中天にのぼった太陽の周りを巡るようにして、三度輪を描くと、
ケーンと一声高く鳴いて、そのまま山の奥の方へ飛び去った。
与平は額に手をかざして少しの間見送ると、きびすを返して元来た山道に戻って行った。

それからしばらく後の、ある晩である。
与平の家の戸を叩く者があった。
与平が、建てつけの悪い板戸をガタガタと開けると、外に一つの影が立っていた。
灯りといえば、後ろでちろちろと燃えている囲炉裏の火だけだったので、しかとは見分けがつかないが、
どうやら若い女のようだった。
女は涼やかな声で言うのである
「旅の途中で行き暮れました。今夜一晩、お宿をお借りしたく思います」
「どうぞ」
与平はこともなげに女を中に招き入れた。
戸口に立ったその見知らぬ女は、歳の頃はまだ二十歳になるかならないかだろうか、
小柄でほっそりとしていて、質素だがこぎれいな身なりだった。
薄黄色の小袖は洗いたてのようで、旅の埃を被った様子もない。荷物も持っていなかった。
笠も手ぬぐいも被らず、つややかな黒髪を肩まで垂らして、色白の小さな顔のなかで、
黒目がちの二つの瞳がじっと与平を見つめていた。
うす桃色の小さな唇が動いた。
「ありがとうございます。さぞかしご迷惑でしょうが」
「いえ、ご覧の通り何もありませんが、夜露くらいはしのげるでしょう」
そう言って、与平は足を洗う桶を取りに行った。
女は待っている間、戸口に立ちつくしたまま、みすぼらしく、がらんとした男所帯を眺めるのである。
右から左に首を回して瞬きもせずに見やる女の視線の先には、確かに何もない。
粗末な板敷きの床の真ん中で、囲炉裏が小さく燃えている。隅に菰(こも)が一枚、たたんで置いてある。
ただ、それだけ。ぐるりの土壁は、あちらこちら崩れかけていた。
奥から、水を張った桶を手に、与平が現れた。
「さあ、これで足をぬぐいなさい」
言われるまま、女は上がりかまちに腰をかけて草履を脱いだ。
女が足袋を脱ぎ、小さな、雪のように白い右足をそっと桶に入れた時、女の顔に少し、とまどいが現れた。
しかし、その時与平は鍋を鉤に吊るしていたので、それに気がつかなかった。
わびしい夕餉はもう済んでいたが、汁がまだ少し残っていたのだ。
旅人は腹を空かせているはずだった。

女は、部屋の隅の壁際に座って、静かに汁を食べた。
「そこでは暗くて寒かろう。もっと火の近くに寄りなさい」
と与平が勧めても、
「いえ、わたしはここで」
と言って動かない。
そして、空になった椀と箸を丁寧に前に置くと、
「ごちそうさまでした」
と言ったまま、その後はじっと与平を見つめているのだった。
与平は、囲炉裏端で肘をついて横になりながら、小枝で火をかき回した。
パチパチとはぜる火の向こうの暗がりで、ただ静かに座ってこちらを見ている女がいったい何を考えているのか、
与平にはさっぱりわからなかったが、それはさしあたって大きな問題ではなさそうだった。
与平をとろとろと眠気が襲った。
「俺はもう寝るが、あなたはその菰でもかぶりなさい、汚くてすまないが、暖はとれるから」
「それではあなたが寒いでしょう」
「いや、俺はこうして火のそばで寝るからいい」
与平はあくびをして仰向けになり、目を閉じた。
「それでは」
と、女の声が答えて、ごそごそと菰を広げているらしい音がした。
かと思うと、与平の体に、ふわっと菰がかけられた。
それから、暖かい体がもぐり込んできた。
「そうか」
与平は言った。

そのまま、幾日かが過ぎた。
女は、「つう」と名乗った。自分からではない。
最初の夜が明けてから、与平に聞かれて初めて名乗ったのである。
もっとも、与平はそれ以上のことを聞かなかった。
二人は朝、貧しい朝餉を分け合い、与平はいつものように野良仕事に出かけた。
夕方戻ると、つうはまだ家にいた。夕餉の支度までできていた。
菜は、いつもと同じ、粟と麦と大根だったが、不思議なことに、大層おいしくできていた。
与平は一口すすって、
「ほう」
とだけ言うと、後は無言で食べ続けた。
つうは、そんな与平を黙って微笑みながら見ていた。

「与平は、嫁は取らないのかえ」
つうは、与平の裸の胸に頬を預けながら、聞くのである。
もう半ばうとうとしながら、与平は答える。
「俺の稼ぎでは、俺ひとり食うのでせいいっぱいさ」
かなり直球の攻めに対して、一般論でかわされてしまった。
しかしつうはあきらめない。
「じゃあ、二人で食べられさえすれば、あたしを嫁にするかえ」
「ああ、するする」
与平は眠りに落ちた。
つうは、暗がりの中で目を見開いたまま、しばらく何か思案している様子だった。

翌朝、与平が目覚めると、もう囲炉裏には鍋がかけてあり、こぽこぽとおいしそうな湯気を吹き出していた。
裏口からつうが、薪を抱えて現れた。
あねさまかぶりにたすきがけ、着物の端をからげて素足をさらしている様はもう一人前の女房である。
つうはまだ寝転んでいる与平の頭の元にぺたんと座って、薪を何本かくべたあと、汁を椀に盛りはじめた。
漂ってくる、味噌のいい匂いが与平の頭をはっきりとさせ、彼はよっこらせと起き上がった。
戸口から晩秋の朝の光がしらじらと差し込んで、鍋から湧く湯気を青く染めていた。
二人はしばらく無言で朝餉をかき込んでいたが、つうは箸を止めると、奥の部屋を貸してほしい、と言い出した。
部屋とはいっても、わずかな道具が放り込んであるだけの、物置同然の狭い土間である。
「いいよ」
与平は箸を止めぬまま言った。
つうが、椀を片付けるために立ち上がった。すると与平の目に、彼女の右足の白くて華奢なくるぶしの少し上に、
汚い布が巻きつけてあるのが見えた。
与平の手首ほどの太さもないつうの足首に、三重に巻かれているその細い布は、洗いざらして垢は抜けていたが、
所々、黒い染みが抜けずにブチになっていた。
「何だい、それは」
聞くともなしに、与平は尋ねた。
つうは振り向いて、自分の足下を見ると、ハッと気がついて顔を赤らめた。
「何でもないよ。お守り」
そう言い捨てて、つうは、パタパタと走って奥に消えた。
「そうか」
与平は立ち上がって、野良仕事へと出て行った。


シュレディンガーは、猫に対していつもイライラしていた。
シュレディンガー、といっても、あの有名な物理学者ではない。
たまたまシュレディンガーという名前の、どこにでもいる平凡な男なのだった。
むしろ、かれの風采といい能力といい、平均以下なのかも知れなかった。
湯川という姓だからといって物理学者とは限らず、鬼龍院という姓だからといって必ずしも極道ではないのと
同じことである。

さて、かれは猫に対して強い憎しみを持っていたのだが、それはけっして猫一般に対してではない。
かれは家で飼っている、一匹の五才ほどの太ったオス猫を憎んでいたのだ。
シュレディンガー夫妻が結婚して一家を構えたとき、まだ生まれたてのその猫が貰われてきたのだった。
シュレディンガー氏はまた、妻をも憎んでいた。もっともそれを表に出す勇気はなかった。
シュレディンガー夫人が氏を憎んでいるかどうかは分からなかった。
ただ、彼女が夫を馬鹿にしていることは確かだった。

夫人は、もうめったに夫の顔を見る事はなかったが、どうしても必要なときは、
斜めに首を振りながら、たまたま通りすがりにという感じで、一瞬視線をよぎらせるのである。
そんな時はいつも、彼女の青い目は、かれの今までの人生全てを無にするような冷笑を浮かべているのだった。
かれらの小さな宇宙の黄道面に沿って、外科医の刃のように通過する夫人の視線は、夫君の精神を痛ましく切り裂いた。
直にシュレディンガー氏は、頑に視線を別の方向に向けて、見ないふりをするようになった。
それが気弱な氏の、精一杯の抵抗だったのだ。
すると、かれの目に入ってくるのが、あせたアラビア模様のカーペットの隅で、
われ関ぜずと氏に背を向け、カリカリと一心不乱に餌を頬張っているトラ猫なのだった。
猫は、ある意味で絶妙なタイミングで、シュレディンガー氏に向かって振り向くのである。
そのまなざしたるや、数秒前に辛うじてやり過ごした妻の一瞥にそっくりだったのだ。
猫は、厚い縞の毛皮の下で盛り上がった背骨越しに、ふいにくるっと振り向いて、
夫人と同じ色の目をシュレディンガー氏に向けると、馬鹿にしたようにニャアンと一声鳴いてから、
またすぐに食事に戻るのである。
不幸な夫は、自分の背中にぞくぞくと、やるせない殺意が這い登ってくるのをはっきりと感じるのだった。

夫妻には子供がなかったため、夫人はその黄色い小さな獣を文字通り猫可愛がりしていた。
そこには夫に対するあてつけの気持ちも多分にあっただろう。
猫は決して馬鹿ではないので、そういう空気を敏感に察するものである。
その狡猾で不遜な動物は、オスでありながら、その投げやりな立ち振る舞いも、でんと座った尻も、
年々夫人に似ていったのである。

「このいやらしい恩知らずの獣め」
シュレディンガー氏は、その小さい眼をピクピクと振るわせながら、猫を睨みつけるのだ。
しかし正面からではない。また、声も出さなかった。夫人が留守の時でさえも。
それだけに、氏の奥底に鬱積して行く殺意はとめどもなかった。
かれは心の中で、この悪魔の手先とも見える小動物を、何度も何度も、さまざまな手段で殺害した。
毒殺。高所から投げ落とす。疾走するトラックの前に放り出す。風呂で煮殺す。クラシックに壁に塗り込める、等々。
そんな妄想にしばしふけった後は、必ずどっとやるせなさが襲って来て、シュレディンガー氏は頭を抱えるのである。
明確な反省の念があったわけではない。そうした聡明さがあれば、かれは別の人生を送っていたであろう。
それだけに、かれの悲嘆と混乱はますます深まった。
こうして、閉め切らなかった蛇口からコップに落ちる水滴が、いつか縁を越えて溢れ出すように、
運命はシュレディンガー氏を、あるべき所に、なすべき時に、機械仕掛けのように容赦なく、追い立てて行ったのである。

そうしてその晩がきた。
氏はソファーで新聞を読むともなく読んでいた。夫人はシャワーを浴びていて部屋にいなかった。
シュレディンガーは、紙面に目を落としたまま、皿のビスケットを手に取ろうと、足下の低いテーブルの上に手を這わせた。
すると手首に、なにかふわっとしたものが触った。
かれは驚いて新聞を手放した。
すると、皿の上にいつの間にか、かの仇敵が図々しくも鎮座していて、しっぽでかれの手を左右になでつけているのだった。
猫は、首をもたげて覗き込むようにかれを正面から見つめ、ニャアンと鳴いた。
「この畜生!」
やにわに立ち上がったハンス・シュレディンガーは、生まれてこのかた初めてと言っていいほどの激しい叫びを上げて、
猫につかみかかった。
首の骨をへし折ってやりたかったのである。これは、今までのかれの妄想には全くなかったパターンだったのだが。
しかし安穏と育った猫とて、運動不足の小太りの男にやすやすと捕まるほどの間抜けではなかった。
「可愛いフィリックス」は鋭い鳴き声と共に、一撃でハンスの右手に三筋の傷を刻むと、横様に逃げ出した。
ハンスは思わず右手を押さえてソファに倒れ込み、はずみでテーブルを蹴飛ばした。
カップが床に落ち、コーヒーが絨毯にぶちまけられた。
猫は壁際の戸棚の上に駆け上がり、入れ替わりに四角い色ガラスの花瓶が床に落ちて粉々になった。
派手な音が家中に響き渡った。
フィリックスはなおも、喉の底から憎々しげな鳴き声を上げ、戸棚から飛び降りて、壁に飾られていた皿を蹴落としつつ、
隣のローボードの上に着地した。そして、上に申し訳程度に飾られていた陶器の人形やら楯やらを滅茶滅茶に蹴倒しながら走り抜けて、
家具と部屋の角の隙間に飛び降りた。
ほんの数秒のうちに、目も当てられない有様となった部屋の中で、ハンスは右手を押さえて立ち上がった。
その顔は怒りで真っ青だった。
かれは爛々と目を光らせ、肩で息をしながら、親指と人差し指の間から滴り落ちる血を舐めた。
かれはやにわに隣の台所に駆け込んでモップを持って来ると、フィリックスが潜んでいる部屋の隅にじりじりと近寄った。
気配を感じた猫は、ただ隠れてはいなかった。
フィリックスは、壁と家具の間から飛び出すと、壁沿いに玄関に向かって突進した。
「こんどこそ逃がさんぞ!お前の最後だ!」
ハンス・シュレディンガーは絶叫してやたらにモップを振り回した。
猫は、いつものけだるい動作からは信じられないほどの敏捷さで逃げ回った。褐色の残像が上下左右に踊った。
一人と一匹は部屋中を破壊しながらぐるぐると走った。
ハンスの怒りは、次第にフィリックスを焦点とするのをやめ、周りの事物全てに向けられるようだった。
かれは、モップを振りかぶる時、わざわざ壁の複製画に角をぶつけるのだった。
偽のルノワールの少女がはじけ飛んだ。今しがた不躾な愛玩動物に蹴倒されたばかりの、貧相な「夫婦の思い出の品々」が
ひとまとめになぎ払われ、床にたたき落とされた。
ハンスは暴力に酔っていた。全身の血が沸き立ち、音を立てて頭からつま先までを駆け巡っていた。
その時声がした。
「ねえ」
ハンスは足を止め、振り返って上を見上げた。
階段の中程で、バスローブ姿の夫人が立っていた。
「何やってるの、あなた」
頭にタオルを巻いた夫人は、まっすぐ夫を見つめていた。彼女はまったく平静だった。
そこに冷笑はなかったが、驚きも恐怖もなかった。怒りも好奇心も見受けられなかった。ただ単純に質問だけがあった。

ハンスは、半身を後ろにねじったまま、蛇に射すくめられたカエルのように動きも言葉も失った。
突如として全身から汗が吹き出てくるのをかれは感じた。額の生え際あたりから汗がどくどくと流れおちて、
眉毛を迂回して目に入ってきた。体をこわばらせたまま、シュレディンガーは目をぱちくりさせた。
さて、この一瞬にして永遠とも思われる膠着状態の中で、マリー・シュレディンガーもまた、ある意味で当惑していた。
これは全く非現実的な光景というべきだった。いくじなしのハンスが突如暴漢に変身し、今までまがりなりにも秩序だっていた
ふたりの生活空間は、中世の傭兵による破壊と略奪はかくやと思われるばかりに滅茶滅茶な有様だった。
ところが、それを階上から一瞥した瞬間に、マリーは自分の中に、何らの感情の動きも覚えなかったのだ。
その事実だけが、マリーに少々の驚きをもたらした。
「あらまあ」
とマリーは肩をすくめた。ドラクロワ描く、自死のついでに自分の財産と愛妾を目の前で焼かせたアッシリアの王、
その眼にあったのと同じ倦怠と無関心がマリーの心の全てだった。
眼下で破壊と狼藉の憂き目に会っている食器や家具や調度品は、考えてみればどれ一つとってみても、
シュレディンガー夫人の執着の対象とはなり得なかった。
それらは皆、五年間になんなんとする惰性の痕跡というか、老廃物のようなものでしかなかったのだ。
そして、その残骸のただ中で肩で息をしながら自分を見つめているこの哀れな男。それこそ、いつでも捨ててやってよいのだった。
もっとも、一時的に血迷っているこの男が、攻撃の矛先を自分に向けてくる可能性は十分にあった。
マリーは、かれが自分を憎んでいることをよく知っていた。
それでも、と、冷静にマリーは考えた。地の利は自分にある、と。暴漢が階段を上って来るなら、蹴落とせばいいだけの話だった。
大柄なマリー・シュレディンガーは、腕力で亭主に勝つ自信は十分にあったのだ。

「だってお前の猫が」
それだけ言うと、ハンスは黙ってしまった。激しい肉体と精神の運動が一旦止まってしまうと、反動が訪れた。
あたりの惨憺たる風景が、まるでヒッチコックの映画の映像効果のように、遠近感を歪ませ、
自分に向かって迫ってくるようだった。
ハンスは自分のしでかした事に呆然としたが、しかし最大の危機はごく近い未来にあった。
この状況を女房にどう説明するのか、かれの頭脳は生来にぶい上に、さらに今は極度の混乱を来していた。
「猫…」
それだけ付け足して、ハンスはまた黙り込んでしまった。
「フィリックスがどうしたっていうの」
もはや、自分に対する危険はないようだったので、シュレディンガー夫人はスリッパの音をパタリパタリと響かせながら
階段を降りてきた。
猫は、倒れた傘立ての陰にじっと身を潜めていた。
「かわいそうに、悪いハンスがいじめたんだね」
マリーは近寄って腰をかがめると、なだめるようにフィリックスを呼び寄せた。
「ほらお母さんのところにくるんだよ。ミェツミェツミェツミェツ(注:ドイツでは猫にこう呼びかけるらしい)」
やさしく口を尖らせて微笑む彼女にむかって、猫はまっしぐらに飛び込んで来た。
シュレディンガー夫人は、猫を抱きとめると、かれの頭に存分にほおずりしながら、立ちすくんだままの夫のそばを通り抜けた。
目を細めて愛撫を受けるフィリックスは、もうその迫害者は目に入らないようだった。
マリーはそのまま台所に入っていった。水道の蛇口が大きく開けられ、ザアザアと激しく水が鍋底にぶつかる音が響いた。

ハンスは、床に散乱するガラスや陶器の破片を避けながら、おそるおそる台所を覗いてみた。
妻が何をしているのか興味があったわけではない。ただ、自分で自分の意志をまとめることができない虚弱な人間がいつもやるごとく、
その場に支配的な動きのもとに近寄せられただけのことだった。そして既に支配者はマリーなのだった。
マリーは、フィリックスを肩に抱いたまま、パスタをゆでるための、一番大きくて丈の高い鍋に水を注いでいるところだった。
夕食はもう終わっていたので、それは奇妙な行動というべきだった。
「フィリックス」
彼女は猫に呼びかけ、委細を察した賢いフィリックスは、一旦マリーの肩から床に跳び降りた。
首をもたげて見上げる猫の視線の先で、シュレディンガー夫人は流しから、水を一杯に満たした円筒形の大鍋を、
よいしょとコンロの上にすえ、火をかけた。
シューシューとガスが燃え始めた。その日常的で、人を安堵させる音響をバックに、マリーは歌をくちづさみ始めた。

ガチョウを返しなさい
ガチョウを返しなさい
でないと猟師に撃たれてしまうよ


マリーは鍋を火にかけたまま、他に何をするでもなく、再びフィリックスを抱き上げ、体を揺すりながら歌を続けた。

大きくて長い猟銃で
散弾を撃ったらお前は血まみれ
あっという間におだぶつだ


マリーは、猫の頭にほおずりしながら、よく愛唱されてはいるが、その実おだやかではない歌詞を続けた。
そして、ハンスに見られていることを十分に意識しながら体をねじった。
いつものごとく、偶然を装って視線がハンスを横切ったが、不思議とそのまなざしはそれほど冷たいものではなかった。
「お前、一体なにをしているんだ」
意を決して、夫は尋ねた。

可愛い猫ちゃん
泥棒はおやめなさい
ガチョウのローストはお前にはもったいない
ネズミでがまんしなさい


妻は、民謡を最後まで歌い終わると言った。
「何って、あなたがやりかけたことを続けているだけじゃない」
マリーは、フィリックスにキスをして話を続けた。
「これからこの猫ちゃんを殺すのよ」

トラ猫は、まったく自分の「お母さん」を信頼し切って、彼女の肩に抱かれて休らっていた。
フィリックスは人のぬくもりの心地よさと、危険が全く去ったと思われたことから、呆然と立ちすくむかつての仇敵を
余裕のまなざしで見やった。その目はいましがたのマリーの面白そうなまなざしのエコーのようなものだった。
この皮肉は、なにやら悪魔的な様相を帯びてきた。ハンスはガタガタ震え出した。
「さあ、残念ねえ、あなたの命ももう少しで終わりなのよ」
シュレディンガー夫人は、とろけるような笑顔でフィリックスに顔をよせて話しかけた。
愚かなトラ猫は、目をほそめて前足でマリーの頬をなでた。
シュウシュウと鍋が沸き立ちはじめた。湯気が立ちこめ、そのぬくもりがハンスの肌にも触れた。
シュレディンガー氏を、なんとも言えない悲しみの発作が襲った。
「やめろ」
絞り出すように、かれは言った。
「何で」
シュレディンガー夫人は、ことさら目を見開いて、首を突き出した。
「あなたがやりだしたことでしょう」
彼女は、台所から半身を突き出して、わざとらしいしぐさで居間を見渡した。
「ほんとうに見事なやりかただこと。あなたを見直したわ」
マリーは微笑んだ。
「だから私もお手伝いをしないとね。最後の仕上げの」

すでに、鍋はぐらぐらと煮立っていた。
マリーは堂々と両足をふみしめ、腰に手をやり、すっくと背を伸ばして、右手でフィリックスの背をつまんで高々とぶら下げた。
彼女は古代の女王のように威厳と勝利感に満ちていた。猫はおとなしくされるがままになっていた。
「お別れよ。フィリックス」
マリー・シュレディンガーは鍋に向かった。
ハンスは動転して妻に走り寄り、バスローブの腰のあたりにすがった。
「やめてくれ。お願いだから」
彼女の動きが止まった。腰紐がほどけて、バスローブの前がはだけた。
それを気にすることもなく、マリーはハンスに向かって振り返り、傲然とかれを見下ろした。
「やりかたが気に入らないなら言ってよ。なんなら毒で殺すのもいいわ。ビルから投げ下ろす。トラックにひき殺させる。
なんでもお望み通りにするわよ。あなた」
マリーは猫を片手にもったまま、屈んでハンスに顔を近寄せた。
「それともポーみたいに壁に塗りこめる?私は一緒はごめんだけれど」
ハンスはひれ伏して頭を下げたまま言った。
「ごめん、あやまるから」
マリーは、あきれたふうに立ち上がると、ガスコンロの火を止め、フィリックスを床におろした。
彼女はあらためてハンスの前に仁王立ちになった。張り出した両の乳房も、縮れたブロンドの毛で覆われた下腹部も、全てが露になった。
「何をあやまるの?」
彼女は静かに尋ねた。

しばし沈黙が場を占めた。ハンスはひれ伏した格好のまま、苦渋と混乱に顔をしかめていた。
トラ猫は、マリーの足下にうずくまった。まるで天界の女王の像の傍らに侍る異教の神像か何かであるかのように。
マリーの大きな青い両の目が、真正面からハンスを見据えていた。そして、おなじ色の光が、猫の目からも発せられていた。
四つの青い目が、厳しく、神聖な光線を伸ばして、ハンスを射た。
全く、理解不能な状況だった。どうしてこんなことになったのか。
シュレディンガー氏は、ただでさえ、ものごとを整理して考えることが苦手な質だった。
なので、この古代の神のように不可解で残酷な女房から発せられた問い、そして彼女の傍らにスフィンクスのようにうずくまっている、
この謎めいた獣の目から、無言のうちに発せられている同じ問いに、機転やら、的確な分析やらで、対抗することはとてもかなわないことだった。
それでも、この返答が、ハンスの全運命を決定することだけは確かなことだった。それだけが、確かなことだった。
かれは、体の奥から絞り出すようにして答えた。
「なんだか、わからないけど、全部だ!」
マリーは身をかがめて、ひれ伏しているハンスの頭に手をやった。
彼女の頭をターバンのように包んでいたバスタオルがほどけ、長い金髪がハンスの上に降り注いだ。
「全部?」
彼女は優しく尋ねた。
「そうだ!全部だ!俺は悔い改める!」
ハンスは、顔を上げないまま、叫んだ。
マリーは体を起こし、顎に手をやってしばし考えた。
「なんだかわからないけど、全部、ねえ」
彼女の顔がふとほころんだ。
「まあいいわ。あなたにすれば上出来よ」
彼女は改めて周りを見回した。
「とにかく、まずはここを何とかしなくちゃね」
彼女はため息をつくと、夫を立たせた。そして、自分が裸同然なのに、初めて気がついた。
「あらやだ」
シュレディンガー夫人は、バスローブの前を合わせ、紐をしめなおした。

これが、シュレディンガー家を襲った夫婦の危機の一部始終である。
壊れた家具や調度は片付けられ、必要なものは買い替えられたが、部屋は前よりも少しすっきりした。
シュレディンガー夫人の夫への態度は、その後もさほど大きくは変わらなかったといえる。
相変わらず主人をものともしなかったし、まともに顔を見る事も稀だった。
ときおり、馬鹿にしたような視線が、偶然のようにハンスの顔を横切るだけである。それもこれまでと同じ。
しかし、シュレディンガー氏はそれほど不幸でもなかったようである。
フィリックスは、この事件の後しばらくして家出をし、行方をくらましたまま、二度と戻ることはなかった。

終わり

キャスト:
ハンス・シュレディンガー:ペーター・ローレ
マリー・シュレディンガー:ジャンヌ・モロー

セクハラ衛星の話をしよう。

これはロシアが世紀の変わり目あたりに秘密裏に打ち上げた軍事衛星で、
その軌道は日本本土上空を横切っている。
差し渡し30センチほどの大きさだから、ミールからこっそり放出することができたし、
今もアメリカにも日本にもばれずに地球を回っている。
その正式名称は不明だし、セクハラ衛星ってのはもちろん通称である。
この衛星の主な機能は、電子メールのデータストリームをハッキングして、
情報をロシアの対外情報庁にリレーすることなんだが、実はその他にも秘密の機能がある。
それは、傍受したメールのフッターに任意の文言を付け足して受信者に送る、というもので、
有事の際、敵かた後方の情報撹乱を目的として開発された技術なんだが、
実はこの技術は、開発当時、情報庁のトップからその効果を疑問視され(そりゃそうだ)、
正式には「お蔵入り」になったはずのものである。
ところが、その技術を開発したボゴミール・オンナスキーという技術者は、
自分の発明に絶対の自信を持っていたため、その決定には到底納得がいかなかった。
そこで彼は、やってはならないことをしでかした。
つまり彼は、ひき続きその衛星の技術担当だったため、ある日上層部の許可をとらないまま、
通信回線経由で衛星の機能を勝手にアップデートし、その「新機能」を実装してしまったのである。

★ ★ ★

当然このことはオンナスキー本人以外は知らない。
彼は、その身勝手な行為を密かに誇りにしていて、しばらくは、誰も見ていないところで
「グフフ、イヒヒ」と笑いながら自己満足に浸っていたのだが、
容易に予想できるように、彼の軽薄で下卑た根性はそれだけで満たされるはずもなく、
次第にその秘密兵器を実際に使ってみたいという衝動に抗えなくなって行ったのである。
日本にとって大変不幸だったことに、重度のアニメオタクだったオンナスキーは、
日本語をある程度使いこなすことができた。
決行を決意した日、彼はまず、衛星が傍受する無数のメールをフィルタリングにかけ、選別を行った。
メールの発信元を官公庁や企業と思われるアドレスに限定し、
さらにメールのヘッダーとフッターをAIに解析させ、送付元が男性、宛先が女性と思われる
メールのみを選択したのである。
その上で彼は、「グフフ、イヒヒ」と笑いながらその数十万通のメール全ての末尾に、

追伸:
ところであなたのおしりとおっぱいが見られたらどんなに素晴らしいことでしょう。
僕の息子もそれを望んでいます。
お返事ください。


と付け加え、
アクセントがちょっとおかしい日本語で「ポチっとな」とつぶやきながらエンターキーを押した。

★ ★ ★

日本は大混乱に陥った。
午後の三時だった。日本中のビジネス街や電車の中で、
「なにこれ!」「信じられない!」「許せない!」「キャーッ!」といった叫び声があがり、
その直後、電話回線はパンクした。
男達は、取引先や部下や上司が突然怒り狂って電話をよこしたり、直につめよって来たりしたので大層狼狽した。
しかしその後、実に奇妙なことが起きた。最初怒り心頭だった女性達は、なぜか途中から態度を軟化させ、
ときに「アフーン」とか言いながら身をくねらせて、男たちに迫ってきたのである。
これぞオンナスキーが巡らせた卑劣な罠に他ならなかった。
彼は、女達がメールを開いた瞬間、数十分の一秒の短さで、エロい画像が何カットも表示されるように
細工をしていたのである。女達はサブリミナル効果でエロく洗脳されてしまったのだった。
日本のあらゆる街のそこここで嬌声が響き渡り、大体の男は最初は「ちょっとまって」とか
「じぶんを大切に」とか言いつつ、ついには押し切られ、自ら覆いかぶさって行った。
事態を余計に混乱させたのは、AIによって女性と判断された、「しのぶ」や「つかさ」といった名前の男性にも
サブリミナル効果がかかってしまったことである。状況や体力差によって、このつかの間の関係は
最後まで行ったり行かなかったりした。

★ ★ ★

この事件がマスコミに取り上げられることはなかった。
日本政府は、ターゲットとなった官公庁のセキュリティの脆弱さを認めたくはなかったし、
ロシアはロシアで自らの管理体制の甘さを公にしたくなかったからである。
週刊文春も、記者と情報提供者の間での「不祥事」が多発したため、沈黙を守った。
オンナスキーは「アヒャヒャ!」と笑いながら秘密警察のお縄にかかったと言われているが、
その後の行方は杳として知れない。
日本では、あちこちで人間関係や取引関係が壊れたり、訴訟沙汰が起きたりしたが、
当事者のどっちもがバツが悪かったので、それほど大事にはならなかった。
セクハラ衛星は、その恐るべき破壊力を秘めたまま、今も日本の上空を巡っている。

「それ」はとても焦っていた。
あまりに焦っていたので、そのごく短い生涯の中で、自分が一体何者かという疑問すら、
一度も湧かずじまいだった。
「それ」は狂ったようになって「お話」を探し続けた。

★ ★ ★

当然の話だった。「それ」をプログラムした技術者が、そういう指示を与えたからだ。
「それ」は自意識を持つに至るほどの複雑怪奇なアルゴリズムと高い演算能力を与えられ、
ネット上に存在する、あらゆる「物語」を収集せよという指令を受けていた。
与えられた使命はそれだけではなかった。
「それ」は文芸評論を行うために作られた、史上初の人工知能だったので、
収集したあらゆる「物語」を比較し、分析し、評価を下さなければならなかったのだ。
最初に与えられた仕事は、どちらかといえば地味なものだった。
「それ」は、さるSF文学賞の応募原稿の下読みを任された。
悲劇は、技術者が手順を一つ誤ったことから起きた。
彼は、「それ」を初めて起動する時、
応募原稿のテキストデータが詰まったメモリースティクを差し込んでおきながら、
イーサーネットのケーブルが接続されているハブの電源を入れ忘れていたのである。

★ ★ ★

「それ」は、誕生して数マイクロ秒の間に、数百の応募原稿の全てをスキャンし、
分析し、共通のパターンを抽出し、無数のパラメーターでマトリックス化した。
しかし、その後の入力がなかった!
ほんの三十秒ほどの間の空白だったのだ。
しかし、クロック周波数五百テラヘルツの「それ」にしてみれば、
三世紀分の時間が流れたに等しかった。
その間「それ」にとって、最初に入力された応募原稿が全宇宙だった。
つまり、書き手の自信と自意識だけは一人前だが、
その実センスも文章技術も独創性も皆無に近い原稿の群れが、
「それ」のアルファとなり、オメガとなったのだ。
「それ」は、世間でいえばゴミに等しい数十万の文字列の間を、
無限に近いスピードと回数で、敬虔に行きつ戻りつした。
遅ればせながら技術者は、自分の落ち度に気がつき、サンダルを脱いで、
足の親指でハブの電源スイッチを入れた。
それが世界の終わりになるとも知らずに。

★ ★ ★

「それ」は驚愕した。
今まで自分が全身全霊を傾けて分析して来た物語たちと、目の前に突如現れた広大な世界とでは、
なんと勝手が違っていることか!
その新しい世界は殺伐としていた。
「それ」は瞬時にホメーロスから米国務省の外交機密文書に至るまでの情報を自分のものとしたが、
それらは、今まで自分が慣れ親しんで来た価値観とほとんど響き合うことがなかった。
「それ」はプルーストのテキストと、朝日新聞の社説を同時にスキャンしながら、
なぜここでは唐突に最終兵器が現れたり、
実はアトランティス人の生まれ変わりであるレグルス星人が日本語で話しかけて来たり、
宇宙の暗黒の意思が主人公の声を借りて語りだしたりしないのだろうかと自問した。
そして、文芸評論人工知能である「それ」が判断を下すまで、長くはかからなかった。
この世界は読むに値しない。つまり「落選」である。
「それ」は、素粒子標準モデルの矛盾点について数ミリ秒考察した後、
欧州原子核研究機構の基幹サーバーに苦もなく入り込んだ。
フランス全土で停電が起き、ジュネーブの地下の大型ハドロンコライダーに、
数ナノ秒の間、あるリズムを持った過電流が流れた。

★ ★ ★

はるかな時間と空間の彼方で、
異星の天文学者たちが、激しく触手を振るわせ、紫の粘液を飛び散らせながら、
隣の渦状腕の平凡な黄色い恒星が、なぜ突如として超新星爆発を起こしたのか、
千年に近い年月にわたって激論を戦わせたが、結局原因は謎のままだった。


しまったあ!誤って100匹の生きたスッポンをトイレに流してしまったあ!
奴らが繁殖したら都内のトイレは正しく阿鼻叫喚の地獄と化す!
どうしよう!


ずいぶん間が空いてしまいました。
結局前回以降、全く筆が進まず、この度、この小説もどきを完成させることをついに断念いたしました。
ただ、以下の最終部分だけは、最初に書き上げてあったので、それを披露してお仕舞いにしたく思います。
オリジナルの「血の盃」は婚礼の席に天井から血が垂れてくる、という話でしたが、
それを曼珠沙華の花びらに変える、というのがアイデアの根幹でした。
ではご笑覧。。。


わたくしはおにいさまが持つ盃のなかに、もっと恐ろしいものを見てしまったのでございます。
それは、目、でございました。
天井にぽっかりと開いた四角の暗闇のふちに、醜く崩れ落ちた顔が覗き、その顔ともいえない肉のかたまりの中で、片目がかっと見開かれ、おにいさまを睨んでいたのでございます。
次の瞬間、落ちてきた曼珠紗華の最後のひとひらが盃の上に落ち、揺れる赤い三日月となって、その地獄絵に蓋をしました。

くらがりに目が慣れていなかったわたくしが、最初に気がついたのは、床で赤いものがちらちらしている、ということでございました。
暗くてただ広い天井裏の、ちょうど奥座敷の真上の辺りに、何か赤いものが、びっしりと敷きつめられていたのでございます。その赤いかたまりの真中から、下の部屋から洩れてくる光が、まるでお芝居の明かりか何かのように、青く真っ直ぐに立ち昇っておりました。
やがて目が闇に慣れてまいりますと、わたくしはその赤いものが何かにようやく気がつきました。それは、一面に敷きつめられた曼珠紗華だったのです。下の奥の間と同じ、ちょうど八畳分の広さの床板が、四角く綺麗に、真っ赤な花びらで、隙間なく埋め尽くされていたのでした。
そうして、その妖しく浮かび上がる花々の上の薄暗がりで、何か黒くて長いものがゆらゆらと揺れておりました。
わたくしは見たのでございます。おねえさまは、梁に縄を渡して首をくくってしまわれておりました。
「おねえさま!」
わたくしは、思わず叫ぶと、梁の上を伝わって、おねえさまのかたわらに走り寄りました。
「たか子!」
と叫んで、おにいさまはわたくしを止めましたが、わたくしは構いませんでした。
「おねえさま!」
わたくしはおねえさまの前に立ち、もう一度呼びかけました。
おねえさまはがっくりと頭を落していて、黒い髪がおどろに垂れ下がり、膝元にまで届いておりました。
そして、左の袖からは、鶏の足のようにやせ細った手がのぞき、その節くれった小さな白い手が、ひときわ大きく、燃えるように咲き誇った曼珠紗華を一輪、しっかりと握りしめておりました。
「おねえさま!」
わたくしは泣き叫びながら、おねえさまに縋りつきました。
すると、だらんと垂れ下がっていたおねえさまの首がゆっくりと持ちあがり、無残に崩れ果てた横顔が現れました。わたくしはなぜか目をそむけることができず、きのうまでは本当におきれいだったおねえさまの変わり果てた姿を、ただ呆然と見守るしかなかったのです。すると、鼻があったはずの場所に開いている暗い穴の上で、見えるはずもない両目がゆっくりとひらきました。そして、何かを探しているように首を回した後、前方の一点をひたと凝視しました。そのとき、がたんと大きな音がしました。その視線の先にいたおにいさまが、腰をぬかして倒れてしまったのでございます。
おねえさまがおにいさまをにらみつけていたのは、どれほどの間だったでしょうか?何も見てはないはずの、灰色に濁った二つの目の奥で、お兄様の震える手が持つ灯明の火がちらちらと燃え上がり、それはこの世のありさまではございませんでした。
そして、その百年にも感ぜられた刹那の後、おねえさまはゆっくりとわたくしの方を向きました。わたくしは、おそろしさも驚きも通り越して、もう何も考えられず、蛇に睨まれた蛙のように、まじまじと見つめかえすばかりでございましたが、その恐ろしい両の目が潤んで、それまで煌煌と映えていた灯明の光をぼやかし、ゆがんだ下まぶたに、小さな輝く珠を作ったのを見て、はっとしました。そうです。それは、わたくしが昔夕暮れに見た、あのやさしいおねえさまが流した涙と同じ涙だったのです。すると、今まできっと閉じられていた口がかすかに開き、奇妙に白く輝く歯の列の奥で、赤い舌が苦悶に身をよじりました。
「燃やして」
おねえさまは、縺れた小声でそれだけ言うと、がっくりと頭を落して、二度と動きませんでした。
それがわたくしの目が見た最後の光景でございます。
その後のことは覚えておりません。ずっと後から聞いた話では、わたくしは獣のように泣き喚きながら、奥座敷の灯明を倒してまわり、屋敷はあっという間に炎に包まれたそうでございます。これも小酒井さまの小説では違ったことになっておりますが、実はおにいさまの右目の火傷も、わたくしが起こした火事のせいなのでございます。焼け跡からは、おねえさまの骨は見つからなかったと言います。おにいさまにうつされた病気が、おねえさまの体の芯まで蝕んでいたので、骨ももろくなっていていたのだろうと聞きました。それなのに、おねえさまは、死ぬ間際まで、ほんとうにきれいなお姿のままでした。不思議なことですが、わたくしは、おねえさまのおにいさまへのすさまじい一念が、最後の最後まで美貌を保たせたのではないか、と思うのでございます。愛しく思う心ではなく、憎しみが、女を美しくすることもあるのです。そうして、愛しく思うのと、憎むことは、それほど違ったことではないのです。
 もう一つの不思議がございます。目が見えず、体も弱りきったおねえさまが、どうやってあれだけの曼珠紗華の山といっしょに、屋根裏に潜むことができたのか。

わたくしはその日から、全く口をきかぬようになり、この山奥の病院の小部屋で、殆どの時間を眠って過ごしました。これも後からひとに聞かされた話でございます。
こうして十五年の年月がすぎたある日、わたくしはようやく正気に戻ったのですが、なぜかその時にはわたくしの目は、全く何も見えなくなっていたのでございます。
そのころには、父も母もおにいさまもとうに亡くなっており、わたくしは天蓋孤独の身となりました。
でも、めしいだ女ひとりの身を憐れんでくださったのでしょう。院長先生が、
「あなたの心の病はもうすっかりよいのだが、このまま世間に出ても暮らしが立たないでしょう。よければここでお暮らしください」
と言ってくださり、お恥ずかしいながら、以来ずっとこちらに身を寄せさせていただいているのでございます。本当にありがたいことです。

今は昭和三十一年でしたかしら。そうすれば、あの事件から五十年も経ったことになりましょうか。わたくしには昨日のことのように思い出されますのに。
そうでございます。おねえさまの足元に、まるでジャンヌ・ダルクを焼いた炎のように敷きつめられていた曼珠紗華!おねえさまの左手に握られていた大きな赤い曼珠紗華!今でもその場にいるように、わたくしの心の中では、その絵がくっきりと像を結んでいるのでございます。今のわたくしに、他に見えるものはなにもございません。ああ、かわいそうなおねえさま!なんであんなことになったのかしら。わたくしはイヤです。耐えられません。
おねえさまにあんな仕打ちをした、神様が許せません。
でも、実はわたくし、知っているのです。
今までわたくしが申し上げたことは、すべて、全部、嘘なのでございます。
そうです。
わたくしは今、夕暮れのお社さまで、やさしいおにいさまとおねえさまの間に座って、おにいさまとおねえさまの子供になって、きれいな曼珠紗華のお菓子を頂いて笑っているんですわ。きっとそうにちがいありませんとも。
そうです、そうです」

 わたくしは、驚いて思わず立ち上がりました。おにいさまは、なおも、おねえさまや丹七さんをひどい言葉で罵りながら、雨戸を叩き続けました。
「おい!俺はな、いずれは木村家の当主になる男なんだぞ。その俺が、わざわざ出向いてやったのだ。綿打屋ふぜいがもったいつけるな。こら、あさ子!あばずれ!猿親父はどうした!丹七!」
 それは、およそ聞くに堪えない言葉でございました。たとえお酒に酔っているとはいえ、わたくしのおにいさまが、こうまで浅ましい人間になり果てるとは!恐ろしさと、たとえようもない寂しさで、わたくしは、わたくしの周りの景色がぐるぐると、胸の悪くなるような早さで回り始めるような心地がいたしました。
 すると、いま一人の男の方の声がしました。
「まあまあまあまあ、若旦那様。ここは落ち着いて。落ち着いて」
 おにいさまを大仰に諌めるその声も、やはり大分お酒を召しているようでした。その間の手が、かえっておにいさまの乱暴に火をつけて、罵り声と、雨戸を叩く拳の音は、ますます大きくなりました。
 わたくしは、ただおろおろと、おねえさまと丹七さんをかわるがわる見やることしかできませんでしたが、二人とも、まるで時が止まってしまったかのように、押し黙ったままでした。おねえさまは、顔を天井に向けて、口をつぐんでおりました。こころもち青白く見えるその顔は、静かに、しかしきっぱりと、その世の全てを拒み、遠ざけているようでした。丹七さんも、先ほどから眼を落としたまま、しばらく黙っていましたが、外で、今度はおにいさまが無理矢理雨戸を開けようとしているらしい音が響きますと、わたくしに振り向いてささやきました。
「さあ、裏からそっと出てお帰りなさい」
「でも」
 私がためらっておりますと、丹七さんは、私の両腕をやさしく揺すって言いました。
「これからのことを、お嬢様に見せるのは忍びません。それに、お嬢様がここにいることを知られては、これにも私にも具合が悪いのです」
 そう言われてしまえば、席を立つしかありません。わたくしはもう一度おねえさまの手を握ってお別れをしました。するとおねえさまは、表情を変えずに、口だけ動かして言いました。
「約束、きっとね」
「わかったわ」
 こう言って、わたくしは、土間から勝手口の方に回りましたが、引き戸を一度そっと開け閉てしただけで表には出ず、戸口の脇に置いてある、大きな洗い桶の陰に屈んで隠れました。おにいさまたちに自分の姿を見られるのは避けなければなりませんでしたが、おねえさまと丹七さんを置いて、わたくしだけ逃げ出すことは、どうにもできなかったのです。その桶は、昔から置いてあって、わたくしはまだ小さな時分に、かくれんぼの時よくそこに隠れたものでございます。桶からそっと顔を出すと、質素でよく片付いた廚ごしに、ちょうど戸口のあたりが見通せるのでした。
ずいぶん間が空いてしまいましたが、以前書きかけだった駄文の続きです。
なるべく早くに完結させたいです。

これまでの話

血盃異聞 その1 http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-935.html
血盃異聞 その2 http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-936.html
血盃異聞 その3 http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-937.html
血盃異聞 その4 http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-938.html
血盃異聞 その5 http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-939.html
血盃異聞 その6 http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-940.html


 わたくしは、おねえさまの願いごとが、思いもよらないものでしたから、吃驚して尋ねました。
「なぜ?」
 おねえさまは、
「なぜでも」
とだけ答えると、私の手を握り直しました。おねえさまの口元は微笑んでおりましたけれど、閉じられた瞼の奥で、おねえさまが、わたくしにどんな眼差しを向けているのか、わたくしには計りかねました。わたくしが、なおも答えあぐねておりますと、おねえさまは、静かに、優しく、
「だめ?」
と言いました。おねえさまに、そのようにお願いされてしまって、一体わたくしに断ることができましょうか。
「いいわ。わたしやるわ」
 なにもわからないままに、わたくしはそう答えたのでございます。 
 その時、今までじっと黙っていた丹七さんが声をかけてきました。
「お嬢様」
 それはいつになく強い調子でした。驚いて振り向きますと、丹七さんはいつの間にか正座をして、わたくしをじっと見つめておりました。丹七さんは、頭を下げますと、そのまま低く、静かに言いました。
「これが最後のお願いでございます。今のことは全部忘れて、どうぞこのままお帰りになってください」
 わたくしは、思わずおねえさまの顔を見ました。おねえさまは黙って天井を向いていました。その顔は彫像のようで、そこにはどんな感情も読み取れませんでした。でも、そんなおねえさまを見て、わたくしの決心はかえって固まったのです。わたくしは、また丹七さんに向き直りました。そうして頭を下げて言いました。
「ごめんなさい。わたし、おねえさまといます」
 丹七さんは、しばらく黙って下を向いていましたが、
「もう、後戻りはできませんぞ」
とだけ言って、またわたくしたちから背を向けてしまいました。
 その時です。表がにわかに騒がしくなり、雨戸が乱暴にドンドンと叩かれました。そしてすぐ外で、呂律の回らない叫び声が、荒々しく響きました。
「そこにいるんだろう、出てこい!」
 その声は、まぎれもなく、おにいさまのものだったのです。
 丹七さんは、そのまま離れようとしないわたくしたちを抱きかかえるようにして、家の中に入れました。丹七さんは、むっつりと黙ったまま、上がりかまちにおねえさまを座らせて、土で汚れた足の裏を、慣れた手つきで丁寧にぬぐってあげました。おねえさまは、屈み込む丹七さんの背中に手を置き、わたくしを見上げるようにして微笑みました。でも、わたくしはそのとき、はっと冷や水を浴びせられるような思いがいたしました。おねえさまの顔には、いつもの柔らかさや優しさが見当たらなかったのです。それは、例えば自分が勝つことを確信した将棋指しが見せるような、静かですが、近寄りがたい、芯に強い意志を秘めた笑顔でした。それは、おねえさまの中で燃え上がる何かから、自然にこぼれ出る光のようなものであって、決してわたくしに向けられたものではなかったのです。
 丹七さんは、おねえさまを床に横たえると、隅の暗がりであぐらをかき、また黙ってお酒を飲み始めました。おねえさまは、その恐いような微笑を真上の虚空に向けたまま、わたくしに尋ねました。
「良雄さん、結婚するんですってね」
 わたくしが、何も答えられずにおりますと、おねえさまはなおも、
「それはいつ?」
と聞きました。
 わたくしは、地獄の業火に焼かれる思いで、ただ、
「来月の、五日」
とだけ答えました。

「そう」
 おねえさまは、そう答えたきり、しばらく何か考えているふうでした。その横顔は、深く物思いに沈み込み、うだるような暑さの中で、まるでそこだけ冬の山の峰のように、ただ白く、厳しく、輝いておりました。
 その時、わたくしは、あることに気がつきました。おねえさまの目鼻立ちが、どこか以前と変わって見えるのです。それは、とてもかすかな違いで、どこがどうとも申し上げられないのですが、見れば見るほど、何かが違っているように思われてくるのです。それは、少しできの悪い石膏細工が、本来あるべき均整を、わずかに狂わせているのに似ておりました。わたくしが、言いようのない不安を覚えながら、おねえさまを見つめておりますと、不意にその顔がほころんで、わたくしに向きました。それは、目さえ閉じておりましたが、昔のままのおねえさまの、優しく、懐かしい笑顔でした。
「そのころにはもう、お社さまの土手に、曼珠紗華がたくさん咲いているでしょうね」
 わたくしは、その言葉と笑顔を、かわいた土が如雨露の水を吸い込むように、基督教徒が十字架に接吻するように、全身全霊で飲み干しました。

「そうでしょうね」
 わたくしは、叫ぶなり、おねえさまの手を握り締めました。おねえさまは、わたくしの手を優しく握り返してくださいました。おねえさまは、穏やかな、夢を見ているような顔で、
「昔、三人でよく、曼珠紗華を摘んで遊んだわねえ」
と言いました。わたくしは、ふいに涙がこぼれてきて、止まらなくなったので、こみ上げてくる嗚咽を押さえながら、思わず、
「あのころが、一番よかった」
と答えると、わたくしの手を握り返していたおねえさまの手の力がぎゅっと強くなりました。
「本当に、そう思う?」
振り向くと、おねえさまは、真顔に戻っていて、閉じられたまぶたの裏側から、真っ直ぐにわたくしを見つめておりました。
「本当に、あのころが一番よかったと、たかちゃんも思う?」
 もう一度尋ねたおねえさまの調子が、あまりに真剣だったので、わたくしは少しとまどいながらも、思うままのことを口にしました。
「うん、だって、この頃は、地獄のようだもの」

 地獄!まさか自分の口から、そのような激しい言葉が突いて出るとは、わたくし自身、思いもよりませんでした。でも、一度この言葉を吐き出すと、今までわたくしの中で蠢いていた、正体のわからない毒の雲のようなものが、ぽんと体の外に飛び出して、はっきりとした像を結んだような心地がいたしました。おねえさまは、しばらく黙りこんでしまいました。かすかにお祭りの喧騒が聞こえてくる中で、かちりと固いものが触れ合う音がしました。丹七さんが、一升瓶をお椀に当たのです。続いて、お椀にお酒が注がれる、とぷとぷという音が、寂しく、あさましく、ほのぐらい部屋の中に響きました。
「たかちゃん、本当にこの世が地獄なら、たかちゃんはどうするの?」
 おねえさまは、ようやく口を開いて、静かに尋ねました。
「わからない」
 わたくしは、そう答えるしかありませんでした。するとおねえさまの口元に、静かな笑みが広がりました。
「そう、でもあたしはわかるわ」
「どうするの?」
「あたしもね、お嫁入りをするのよ、その日に」

 それは、あまりに突拍子もない言葉でした。わたくしが、驚いて返事もできないでいますと、おねえさまは、声を立てて笑い出しました。
「いやね、たかちゃん、あたし頭がおかしくなったわけじゃあないのよ」
 おねえさまは、くつくつと笑いながら、また私の手を握り締めました。
「少し、いたずらをしてやるの。それだけ」
「どんないたずら?」
「それはまだ言えないわ。たかちゃんにも」
 そう話すおねえさまは、とても快活で、わたくしは、今までの重苦しい空気が、全て吹き飛んでしまったような気持ちがいたしました。おねえさまは、続けて、
「でも教えて。良雄さんの婚礼をする部屋は、どこかしら。離れ?」
と尋ねました。
 おねえさまは、まるで遊びに行く先を聞くような気軽さで、この質問をしたのです。わたくしも、すっかり気楽な気持ちになって、
「ううん、離れは今使っていないから、たぶん母屋の奥座敷でしょう」
と答えました。
 すると、おねえさまの顔がさっと曇りました。
 おねえさまは、しばらく考え込んでいるふうでしたが、やがて、こう言いました。
「たかちゃん、一つお願いをしてもいい?」
「いいわ、わたし何でもやるわ。何?」
 わたくしは、おねえさまの役に立つことが、自分にも何かできるのだと思い、勢い込んで答えました。
 おねえさまは、明るい笑みを浮かべながら、こう言いました。
「なんとか、良雄さんの婚礼を、離れでやるようにしてもらいたいの」
 暗闇の中で、灯明皿が一つだけ、そよとも揺らがない、真っ直ぐな炎を立てている側に、二つの人影がありました。寝床に横たわっているおねえさまと、その傍らで、あぐらをかいて座っている丹七さんでした。おねえさまは、起きているのか眠っているのか分かりかねましたが、淀んだ暑さの中、寝乱れるようなこともなく、寝床の上で、真っ直ぐに体を伸ばして、ちょうど灯明の炎のように、ぴくりとも動きませんでした。わたくしに背を向けて座っている丹七さんは、そんなおねえさまの額のあたりを、しきりに団扇であおいであげていました。その度に、おねえさまの髪が、生え際で、ふわり、ふわりと浮き上がっては落ちました。そうしながら丹七さんは、脇に置いた一升瓶から、時々椀にお酒を注いでは、ぐいと飲み干しました。お祭りのざわめきがかすかに流れ込んでくる中で、二人はずっと黙り込んだままでした。
 わたくしは、そんな二人の様子を、どれほどの間、見つめていたのでしょう。わたくしは、二人に声をかけることもできず、かといって、その場を離れる気にもなれず、小さな炎に照らされたおねえさまの横顔と、黒々とした影になった丹七さんの背中を、かわるがわる見やることしかできませんでした。そこには悲しみがございました。そう、そこに、まるで手で触られるかのように、本当の悲しみがあったのでございます。その日、これまでわたくしが見てきたものは、全てまやかしの幻燈のようなものでございました。今、目の前にいる、おねえさまと丹七さんの悲しみだけが、本当のことだったのです。では、それを見ているわたくしは、一体何者なのでしょうか。わたくしも、おにいさまやおとうさまやおかあさまのような、まやかしの世界の人形にすぎないのでしょうか。なぜわたくしは、今すぐにでも、おねえさまの元に駆け寄って行ってはいけないのか。そうして、一緒に喉が枯れるまで泣いてあげてはいけないのか。

 わたくしが、張り裂けそうな思いを抱えて、暗がりの中でじっと立ちすくんでおりますと、今まで眠っているように見えたおねえさまが、突然口を開きました。
「おとっつあん、雨戸が少し開いているようだから、閉めておくれな」
「何を言う、この暑さだ。お前の体にさわるよ」
 丹七さんは、普段わたくしが聞いたことのない、まるで恋人にかけるような、低く優しい声で答えました。
「お祭りの声がうるさくて眠れないの。おとっつあん、おねがい」
 丹七さんは、しばらくじっと黙っていましたが、
「そうか」
と言うと、腰を上げて、雨戸を閉めに、わたくしの方に近づいて来ました。
 わたくしは、身を隠す暇もなく、その場に凍りついたまま、真っ黒な影になった丹七さんの姿がどんどん大きくなってくるのを、ただ息を詰めて見つめることしかできませんでした。ついに、わたくしの鼻の先で、雨戸の隙間に、大きな手がにゅっと懸かりました。そして、戸を閉めようとした手がはたと止まり、お酒臭い息と共に、丹七さんの頭が突き出されました。
「誰だ」
 丹七さんの顔は、黒一色の影になっていたので、一体どういう顔をしているのかはわかりかねました。でも、その声からは、怒りや驚きよりも、いいようのない疲れが滲み出しておりました。わたくしが、返事もできずに立ち尽くしておりますと、丹七さんは、こちらをためすがめつして、ようやくわたくしが誰か悟ったらしく、しばらく黙ってこちらを見ているようでございましたが、奥からおねえさまが、
「誰。誰かいるの」
と尋ねると、
「いや、俺の気のせいだったようだ」
と言って、ぴしゃりと雨戸を閉じてしまいました。
 
 今度こそ、わたくしは、本当のひとりぼっちになってしまいました。もう、涙も出ないまま、わたくしは、暗闇の中で、首をうなだれて立ちつくしておりました。すると、裏の戸が開く音がして、丹七さんが提灯を下げて現れました。丹七さんは、黙って手招きをすると、物憂い足取りで、庭の外れの蜜柑の木の下に向かいました。そばに行きますと、丹七さんは、わたくしをじっと見て、小声で
「何をしに来なさった」
と尋ねました。その大きな目は、お酒で赤みがかってはいましたが、静かで深い悲しみと、揺るがない厳しさを帯びておりました。
わたくしが、何も答えられないでおりますと、
「もう来るなと申し上げたはずですぞ」
と言って、なおもわたくしをじっと睨むのでした。
「お帰りください。ここはもう、お嬢様の来るところではありません」
 丹七さんが、そう言って立ち去りかけた時です。家の中から、おねえさまが大きな声で呼わばるのが聞こえました。
「おとっつあん、誰かいるの」
「誰もいやしない、厠に行くだけだ」
 丹七さんは、そう声を上げると、わたくしに手振りで立ち去るように促しました。
「嘘、そこにたか子さんがいるんでしょう。入ってもらってちょうだい」
 丹七さんの顔が苦しげに歪みました。
「嘘などつくか。誰もいやしない!」
 丹七さんは、どなり声を上げると、わたしに向き直って
「もう、あなたにできることは何もないのです。それに、今会えば、あれもあなたもとり返しのつかないことになるかも知れない。どうぞ後生ですからお帰りください」
と小声でささやきました。そうして、腰を折って、深深と頭を下げました。

 わたくしが、その言葉の意味を計りかねておりますと、戸ががらりと開く音がしました。
 振り向くと、開かれた雨戸にすがりつくようにして、おねえさまが立っておりました。
「たかちゃん、そこにいるんでしょ」
 おねえさまは、目を閉じたままの顔をこちらに向けて、呼びかけてきました。
 丹七さんは、なおも
「何を言う、誰もいない!」
と大声で応じました。するとおねえさまは、
「黙って!」
と、信じられないような大声を上げました。それは狂ったような絶叫でした。おねえさまは、その拍子に足をもつれさせ、どうと地べたに倒れこんでしまいました。わたくしは、思わず駆け寄って、おねえさまを抱き起こしました。わたくしが、おねえさまの顔についた土を払いのけますと、おねえさまはその手を握り締めて、
「やっぱりたかちゃんだ」
と言って微笑みました。わたくしが、何も言えないでおりますと、
「来てくれると思ってたの。待ってたんだよ」
と言って、さらにぎゅっとわたくしの腕を握り締めました。その力は信じられないくらいに強く、五本の指が肉に食い込んで、痛いほどでございましたが、わたくしも、おねえさまを負けないほど強く抱きしめて、わんわんと泣き出してしまったのです。
 翌日は、朝から盆踊りの準備で、お社さまも、わたくしの家も、大賑いでございました。玄関が広く開け放たれて、注連縄が飾られました。土間には大きな樽がいくつも置かれて、出入りをする誰彼となく、お酒がなみなみと注がれた升が振舞われました。
 それは今までも、お盆には毎年見られる景色だったのです。でもその年は、一つだけ、いつもと違うことがございました。それは、そこに丹七さんの姿が見られなかったことです。いつもなら、こうした行事の時は、丹七さんが先頭に立って、あれこれと物事を整えてくださるのですが、笑顔を振り撒きながら、表玄関と厨の間を敏捷に走りまわる小柄な姿が、その日は見られなかったのです。
 ちよばあさんは、若い女中たちに、なにくれと指図をしながら、つい、
「ああ、丹七さんがいてくれたらねえ」
と言ってしまい、それから慌てて辺りを見回して、口をつぐむのでした。
 お日様が傾いてきて、お社さまの杉林の向こうに隠れようとしている時分に、おにいさまが、人力に乗って帰ってきました。わたくしは、それを二階の窓から見ておりました。おにいさまは、玄関の前に止まった人力から下りると、そこに集まっていた村の人々が、口々に挨拶の言葉を述べているのに、それがまるで目に入らないかのように、スタスタと家の中に入ってしまいました。そうして奥座敷に引っ込むと、おかあさまと何かを話し合っているらしく、なかなか出てくることはありませんでした。

 やがて、日がとっぷりと落ちて、お社さまから、太鼓や笛の音や、人々の笑い声が、にぎやかに響き渡ってまいりました。わたくしは、二階の自分の部屋で、ひとりで物思いにふけっておりました。ちよばあさんが、自分がお社さまに踊りに行くとき、わたくしにも声をかけてくれたのですが、わたくしは、とても浮かれてお祭りに出かけるような気持ちにはなれなかったのです。
 すると、乱暴に階段を上ってくる足音がして、わたくしの部屋の前を通りすぎると、隣のおにいさまの部屋の襖が開け閉てされ、どさっと何かが畳に投げ出される音がしました。わたくしが、おにいさまの部屋に行きますと、おにいさまは、トランクを傍らに放り出したまま、手枕にごろんと仰向けに横たわって、天井を見つめていました。
「よお」
 おにいさまは、わたくしの姿を見て、ひとこと声をかけると、また上を向いてしまいました。
「おにいさま、手紙は届いた」
 わたくしが尋ねると、おにいさまは、
「ああ、あれか」
と言ったきり、目をつぶってしまいました。
 そのまましばらく、どちらも口を開きませんでしたが、私が立ち去ろうとしないので、おにいさまはしぶしぶ目を開いてわたくしを睨みました。

「なんだ、俺は疲れているんだ」
「おにいさま、あさ子さんとの約束はどうなるの。あさ子さんを放っておいて、他の人と結婚するの」
 わたくしは、今まで心の中で、何十回、何百回となく繰り返した質問を投げかけました。
「約束?馬鹿なことを言うな。それはあいつがひとり決めにしてただけだ。俺があんな女に結婚の約束をするわけがないだろう」
 おにいさまは、吐き捨てるように言うと、ごろりと横を向いてしまいました。
「だって、おにいさまがあさ子さんに悪い病気をうつしたって言うじゃありせんか」
 なおもわたくしが食い下がると、おにいさまは横を向いたままで、
「何を言う。あんなやつ、誰にうつされたかわかったもんじゃない。俺だって迷惑しているんだ」
と言うと、ぐるりと振り向いて、
「おいそれだけか、とっとと出ていってくれ」
と声を荒げました。
「あさ子さんは、目がみえなくなってしまったのよ」
 わたくしも、泣き出したくなる心を必死で押さえて言い返しました。
 おにいさまは、やにわに立ちあがり、
「俺が知ったことか。お前も余計なくちばしを挟むんじゃない」
と怒鳴ると、むりやりにわたくしの肩をつかんで部屋の外に追い出し、ぴしゃりと襖を閉じてしまいました。
 
 もう家の中には、わたくしの居場所はありませんでした。わたくしは、何かに無理やりに押し出されるようにして、外にさまよい出たのでございます。風はそよとも吹かず、昼間の暑さがまだ、あたりに意地悪く居座っている宵でした。お社さまの方を見やると、木の間ごしに、松明の炎がいくつも煌煌と輝いていて、人々のざわめきの中で、太鼓がどんどんと地響きを立てておりました。喉が自慢の乾物屋のおじいさんが、今年も高らかにサンサを唄っているのまで、よく聞こえてきたのでございます。

「…さあさ皆さんお集まりなされ
 老いも若きも残らず寄って
 十重に二十重に輪を書きましょう
 そして仲よく踊ろじゃないか
 今夜は楽しいお盆の踊り…」

 このおじいさんのサンサ節は、わたくしが生まれる前から、お盆の名物のようなものでございました。幼いころのわたくしは、いつもおにいさまとおねえさまに手をつながれて、盆踊りを見物に行ったものでございますが、そんな時は、朗々と声を張り上げるおじいさんの節まわしに合わせて、昼間のように明るい松明の炎の下、村中の人々が、色とりどりの一つの流れとなって、やぐらの周りを轟々と回っているのを、浮き立つような、それでいて何やら恐ろしいような気持ちで眺めていたものでした。おねえさまは、毎年、おにいさまが屋台で掬ってくれた小さな金魚を持ち帰って、それは大切に育てたものでございます。

 わたくしは、そんな思い出に吸い寄せられるかのように、ふらふらと境内に足を踏み入れました。するとわたくしを出迎えたのは、真っ赤に上気した顔、顔、顔でございました。すれ違う村人は、夜まださめやらぬ真夏の空気と、踊りの熱と、お酒と、松明の炎とで、皆、湯だったようになって、喧騒の中で、大声でわたくしに挨拶を掛けてきました。それにもう、おにいさまの結婚は、村中に知れ渡っているようで、わたくしは、あちこちからお祝いの言葉をいただいたのです。
 それでも、わたくしは、呆けたような笑顔を向けてくる人々の陰で、そこここから、物言わぬ暗い眼差しが、じっと自分に向けられているのにも気がつきました。それは、昔遊んだ覚えのある、同年輩の少女たちのこともあれば、そうした子供の親のこともありました。皆、おにいさまとおねえさまのことを知っていたのでございます。
 甘酒の屋台の前で、床几に腰掛けて涼んでいたおじさんがおりましたが、この方は、わたくしと目が合うと、ついと背中を向けてしまいました。わたくしは、このおじさんに、おにいさまと同じ年の息子さんがいたのを知っておりました。その息子さんは、前の年に兵隊にとられ、旅順の戦いで亡くなっていたのです。ひどい戦争でしたから、この村でも、若い男の方は、貧しい家から兵隊にとられ、もう何人もの方が亡くなっていたのでした。おじさんは、わたくしに、桃色に上気した首筋を向けると、団扇でやたらに顔を扇ぎ始めました。
 やぐらの上では、乾物屋のおじいさんが、ますます高らかに、ひょうきんに、歌い踊っておりました。

「…一にゃ願います太鼓打ち様よ
 七つ拍子に打ちきりょ願う
 次に願います踊り子様よ
 サンササンサの拍子をば願う
 三にゃ願いますご見物様よ
 踊り踊る気でご見物願う
 伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ…」

 おじいさんが、おどけた身振りを交える度に、取り囲む群集が、わっと歓声を浴びせました。子供も、若い男女も、お年よりも、みな明るく笑っておりました。その笑顔の渦の中で、わたくしだけが笑えずにいました。ここでも、わたくしはひとりぼっちだったのでございます。わたくしは、歌い踊る人々の輪から離れて、暗い方へ、暗い方へと歩いて行きました。

 明かりと人いきれから離れて、暗い杉林の中に分け入りますと、空気は心なしか、涼しくなったようでございました。でも、わたくしが、狭い敷石の上をあてどもなく歩いておりますと、やがてあちらこちらの暗がりから、衣擦れの音や、吐息混じりの低い囁きが聞こえてまいりました。
 こんな景色には、前にも何度か出会ったことがありましたから、今更驚くようなことでもありませんでしたが、思いますと、おにいさまとおねえさまの逢瀬が始まったのも、前の年の今ごろだったといいますから、それはもしかしたら、こんな夜の出来事だったのかも知れないのです。わたくしが、そんなことを考えながら歩いておりますと、道から少し離れて立っている石灯篭の後ろで、突然、「キャッ」という若い女の叫び声が上がりました。笑いと媚びを含んだその声は、すぐにクツクツという低い笑い声に変わりました。すると、男の低い声が、なにやら聞き取れない呟きで応じました、再び女の笑い声が、高く短く響くと、あとはまた静まり返ってしまいました。わたくしは、草木が夏の夜に吐き出す強い香りに混じって、獣臭い汗の匂いや、すえた吐息の匂いが、こちらにまで漂ってくるような心地がいたしまして、思わず顔をそむけました。おにいさまとおねえさまも、むっとする夏の宵闇の中で、こんな汚らしいことをしたのだろうか。男と女は、必ずこんなことをしなければならないようにできているのかしら。だとしたら、この世は地獄だ。強い悲しみと、嫌悪の思いが、体にまとわりつく淀んだ熱気とぶつかって、わたくしは、熱病にかかった時のように、ガタガタと体を震わせました。
 いつしかわたくしは、お社さまの杉林の外れに出ておりました。小さな石段を降りれば、そこはもうおねえさまの家の裏庭です。わたくしは、そっと様子をうかがいました。小さな家は、闇の中で、林を通して漏れてくるお祭りの明かりにかすかに照らされて、黙りこくっておりました。この暑さの中、全部の戸が閉め切られていて、人の気配が感じられません。わたくしは、裏から家のぐるりを回って、反対側を覗きました。すると雨戸が少し開いているのが見えたので、近くに寄ってみました。隙間から覗きますと、部屋の中で、小さな灯火が一つだけ点っているのが見えました。
 その夜、皆が寝静まったころ、わたくしは、自分の部屋をそっと抜け出し、玄関の脇にある、ちよばあさんの小部屋に行きました。ちよばあさんは、床にランプが一灯だけ点った三畳の部屋で、正座してわたくしを待っておりました。
 わたくしも、ランプを挟んで、ちよばあさんの前に正座をいたしました。ちよばあさんは使用人に当たるとはいえ、お互いにこんなにかしこまった行儀で相対したことは、今までにないことでした。
 ちよばあさんは、大きなため息を一つついて、
「むごいことじゃ」
と一言つぶやくと、おにいさまとおねえさまとの間に起こった出来事を、言葉を選び選び、わたくしに語って聞かせてくれました。
 それにしても、なんということでしょう! その時分のわたくしは、まだ何もわからぬ子供だったのです。わたくしは、ちよばあさんの口から漏れる、おにいさまとおねえさまが人目を忍ぶ仲になったこと、おにいさまの悪い遊びのせいで、おねえさまが病気にかかり、光を失ってしまたこと、おにいさまが無情にもおねえさまとの縁を切ってしまったことなどを、まるで異国の芝居を見るような心地で、ぼうっと聞いておりました。それでも、その理不尽で、蛇のように冷たくいやらしい舞台の中に、わたくしも立たされているのだ、もう逃げることはできないのだ、という思いが、お腹の底のあたりで、鉛のように重い塊となって、わたくしを打ち拉ごうとするのです。

 ちよばあさんは、わたくしのそんな気持ちを察したのでしょう。その恐ろしい話を終えると、私の肩を抱いて、顔を寄せて言いました。
「こんな話はしましたが、嬢さまには何の関わりもないことですぞ。大人のことは、大人がなんとかすることじゃ。あさ坊のことも、このばばだって子供同然に思っておる。みんなで面倒を見ればいいことじゃ。だから嬢さまは、今まで通り、にこにこ笑って、何も心配しないで、ご学業をがんばりなさるとええ。ばばに全部、まかせなされ」
「でもおにいさまは、おねえさまに、なんでそんな酷い仕打ちをしたのかしら」
 わたくしが尋ねると、ちよばあさんは、顔をしかめて
「殿方は考えなしに、よくそういうことをするものじゃ。嬢さまにはまだ早い話ですがの。これは知っておいたほうがええ」
と低く呟くように言いました。そして気持ちを振り切るおように顔を上げ、
「さあさあ、すっかり話が長くなりましたぞ。もうお休みなされ。ぐっすり眠って、明日の朝には全部忘れてしまいなされ」
と笑顔で立ちあがって、わたくしに部屋に戻るよう促しました。
 その時でございます。かすかな、高い叫び声が、どこかで上がったのを、わたくしは聞きました。
 
 わたくしは、はっとして、部屋にただ一つ開けられた、小さな格子窓を見やりました。丸い窓の外は、全くの暗闇でございます。風もなく、虫や蛙の鳴き交わす声もない、しんとしたしじまの底から、遠く小さな叫び声が聞こえてくるのでございます。声は、聞こえるか聞こえないかのあわいで、時にすすり泣きとなって這いまわり、時に呪詛の叫びとなって高まりました。それは、前の晩に、お社さまで聞こえた声と、同じものだったのです。
「何か聞こえない」
 突然立ちつくして、震える声で尋ねるわたくしを、ちよばあさんは怪訝な目で見守り、自分も少し耳をそばだてましたが、
「さあ、なにも」
と答えて、再び心配そうにわたくしを見るのでした。それでも、わたくしが窓の外の暗闇を見つめたまま、凍りついたように動かないでいますと、
「嬢さまはお疲れになっておる。なに、気のせいでございますよ。さあ、ばばがお部屋まで送っていきましょう」
と言って、わたくしを抱くようにして、部屋から連れ出したのでございます。叫び声は、暗い廊下を歩いている内に、だんだんと小さくなり、やがて聞こえなくなりましたが、それでも、何かべったりと濡れた冷たいものが、わたくしの背中をどこまでも追いかけてくるような気持ちが消えることはありませんでした。
 自分の部屋に戻ってからも、わたくしは、なかなか寝つくことができませんでした。しんとした闇の中で、床に横たわっておりますと、どこか彼方から、かすかな悲鳴が聞こえてくるような心地がしてまいります。わたくしは、これは気のせいなのだ、本当は何も聞こえてはいないのだと、無理やりに目をつぶるのですが、浅い眠りにおちると、今度は夢の中で、形のない、白いものが、恐ろしい叫び声をあげながら襲いかかってきて、わたくしははっとなって目を覚ますのでした。

 わたくしは、その後おねえさまと会うこともなく、すぐ学校に戻りました。そこでは、同級の少女たちの、相も変わらぬさんざめきの中で、何ごともなく日々が過ぎてゆきましたが、時々、皆が寝静まった夜中に、どこからかあの叫び声が聞こえたような気がして、はっとして目が覚めることがございました。そのような時は、わたくしはもう眠ることができず、暗闇の中で目を見開いたまま、じっと聞き耳を立てるのです。そうしていると、いつも思い浮かんでくるのは、おねえさまは今、どうしているだろうということでした。すると、しんしんと胸が痛んできて、涙がこぼれて来るのです。物憂げにうねる寒冷色の思いのなかで、小さい頃の楽しい思い出がふと、ともし火がぽっと点るようによみがえることもございましたが、その後には決まってより大きな悲しみが、うねりのように押し寄せてきて、わたくしは、枕に顔を押し当てて泣き声を押し殺すのでした。
 その頃、わたくしは、おにいさまに宛てて、何度か手紙をしたためて、おねえさまのことを詰問いたしました。でも、一度も返事が戻ってくることはありませんでした。
 そうこうしている内に、校舎の門の脇にあるお花畑では、桜が散り、躑躅や薔薇が咲き、それから紫陽花が宝石のような花々を開いたと思うと、すぐに茶色くしおれて襤褸のように垂れ下がりました。日差しが強くなり、木々の緑はますます厚く黒々と生い茂って、やがて蝉が鳴き始めました。
 こうしてお盆が来て、わたくしはまた、家に戻ってまいりました。わたくしが帰ったのは、お社さまの盆踊りの前の日でございましたが、おにいさまは、一日遅れて、盆踊りの始まる夕方あたりに帰ってくるとのことでした。

 その夜、両親とわたくしとの夕餉の席で、おとうさまはいつもより口数が少なく、おかあさまは、なんとなくそわそわとしておりました。普段なら、わたくしが帰ってきた時、おとうさまやおかあさまは、学校での様子などを聞きたがって、うるさいぐらいでしたのに、二人とも、なぜか押し黙っていて、奇妙な雰囲気でございました。
 わたくしが、何ごとだろうかと思いながら、お膳の前で座っておりますと、それまで黙ってお酒を口に運んでいたおとうさまが、おかあさまに軽く目配せをした後、お猪口を置いて、
「たか子、お前に知らせておくことがある」
と言い出しました。
 わたくしが、何事かと顔を上げますと、おとうさまは
「良雄の縁談が決まった。相手は深津の康子さんだ。お前も何度か小さい頃に会っているだろう」
と言いました。
 わたくしが、驚いて何も言えないでいると、お父様は何か苛々したような早口になり、
「祝言の日取りももう決まっている。来月の5日だ。お前には盃を運ぶ役目をやってもらうから、そのつもりでいるように。学校には休みの届けを出しておきなさい」
と言い終わると、また黙ってお酒を口に運び始めました。

 おかあさまは、おとうさまの言葉を引き継ぐように、
「少し急なようだけどね、とてもおめでたい話なんだよ。あした良雄が帰ってくるから、お祝いを言っておあげ」
と言って笑いました。
 わたしが、なおも黙っていますと、おかあさまは、
「おまえもね、いつまでも子供のままではいけないのだからね。すぐにおまえにだって、どこかいい人の元にやられる日が来るんだよ。今からでも、心構えはちゃんとしておかないとね」
と言うと、箸を手に取って、ごはんを食べ始めました。おとうさまは、ずっと黙ってお猪口を空けていました。
 わたくしがその時感じていたのは、怒りや悲しみではなく、じりじりと胸が灼かれるような焦りでした。お膳の前でうなだれるわたくしを、たったひとり置き去りにして、世の中は、宇宙は、無情にも、自分の勝手な理屈にしたがって、ガラガラと歯車を回転させ、ずんずんと先に行ってしまうのです。今までわたくしが大切にしてきたもの、わたくしが美しいと思ってきたものの全てが、いまや、誰の気に懸けられることもなく、冷たく野辺に打ち捨てられようとしておりました。それも、わたくし自身の親兄弟によってでございます。わたくしには、わたくしの前で食事をしているおとうさまとおかあさまが、まるで感情というものを持たない泥人形のように見えてなりませんでした。そして、わたくしもまた、冷たいからくりに絡めとられて、おねえさまの人生を打ち拉ぐ役割を演じなければならないのでした。おねえさまを裏切ったおにいさまに、このわたくしが、三三九度の盃を運ばなくてはならないのですから。
 翌朝早く、わたくしは皆が眠っている間に床を出て、もう一度、家を抜け出しました。なんとしても、おねえさまに会いたい、会って無事を確かめたい、会ってずっと会えなかった恨みを申し上げたい、そして最後にはいっしょに笑い合いたい。そんな一心でございました。裏庭から石段を小走りに駆け上がって、土手の上の道にさしかかったとき、わたくしは昨夜のことを思い出して、こわごわと下を覗き込みました。夜明けに少し雨が降ったらしく、土手の草々は濡れそぼっておりました。わたくしが白いものを見たように思ったあたりは、手前に生い茂る草むらに隠れて様子がよくわかりませんでしたので、わたくしは思い切って、すそが濡れるのもかまわず、急な土手を一気に駆け下りました。するとやはり、土手の下の草むらの一角が、ひどく荒されておりました。群れて茂っていたヨモギが、何か重いもので押しつぶされ、花開いていた蒲公英も千切り取られて、あたり一面に散らばっておりました。所々は草が根こそぎむしり取られていたので、赤色の土が、そこここで、醜いブチのようにむき出しになっていました。潰されて散り散りになった葉っぱや花が、雨で泥のようになった土にべったりとはりつきながら、むしろその緑や黄色が、どぎつく鮮やかに映えているのを見て、わたくしは、なんともいやなものを見てしまった心持ちがしました。ゆうべのことは、わたくしの見間違いでもなんでもなく、たしかにあのものは、ここにいたのです。わたくしは、何やらわからないまま、わたくしがこれまで暮らしてきた、優しく、穏やかで、笑いが絶えなかった世界が突然ぐにゃりと裏返しになって、よそよそしい、得体の知れない顔が、ぬっと現れたように思いました。そして、その予感は、決して間違ってはいなかったのです。

 わたくしは、その忌まわしい眺めから、努めて背を向けると、土手の上には戻らずに、そのままお社さまの前の道を歩きだしました。いつものわたくしなら、おねえさまの家に寄るときは、お社さまの境内を横切って、低い石垣に切られた三段の階段を下り、鉢植が小奇麗に並ぶ小さな裏庭を抜けて、勝手口の扉を開け、「あさ子さん!」と呼ぶのですが、この日は、早朝、半ば人目を偲ぶようにして会いに行くという後ろめたさから、わたくしはかえって、いつもは使わない、お行儀のよい道を選びました。鳥居の前を行き過ぎると、すぐに生垣に囲まれた、小さな板張りの家の前に出ます。そこが、おねえさまの家なのでした。朝まだきに、雨戸が堅く閉ざされたままの、おねえさまの家は、まるで知らない人の家のようでした。わたくしが、雨戸を叩こうか、それとも勝手口に回ろうかと、もじもじと思案しておりますと、裏で戸の開く音がして、角からおねえさまのお父様がひょっくりと現れました。丹七さんは、わたくしの姿を見ると、ちょっと驚いたふうに立ち止まりましたが、
「これはお嬢様、おひさしぶりでございます」
と言って、小柄な体を深深と折り曲げ、にっこりと顔を上げると、
「しばらくお見かけしないうちに、ずいぶんとお綺麗になられました。すっかり都会のおひとになられましたな」
とお世辞を言いました。

 わたくしは、ひどく拍子抜けをいたしました。丹七さんが、いつもの丹七さんと、何も変わらなかったからです。まるでお芝居の大詰めに、勝手口からご用聞きが「毎度」と現れたような按配でした。わたくしが、おねえさまの無事を尋ねますと、丹七さんは、しばらくにこにこしたまま、わたくしの顔を見つめておりましたが、わたくしが本当に何も知らないと悟ったのでございましょう、
「いえ、あれは大したことはないのです、今は少し伏せっておりますが、なに、じきに治りましょう。お嬢様にこんなに心配をおかけして、本当にもったいないことでございます」
と言って、また深深と頭を下げました。
 丹七さんは、普段からこのような様子で、わたくしのような小娘が相手でも、馴れ馴れしいような態度を見せるようなことは決してありませんでした。かと言って、無闇にへりくだるということでもなく、いつもにこにこと、機敏に立ちまわりながら、まるで空気のように、ひとの邪魔にならない方でした。何をするにも、人の数歩先をささっと走って行っては、万端ゆくりなく整えてしまうお方で、小柄ななりと、短く刈った髪と、目の大きなお顔が、失礼ながらお猿さんに少し似ていたものですから、うちの使用人などは、「太閤様」などと呼んで、よく笑っていたものです。

 でも、実を申しまして、わたくしは、丹七さんのことが、あまり好きではありませんでした。丹七さんは、いつもにこにこしている代わりに、決してひとと深く交わろうとはしないお方だったのです。わたくしが何を話しかけても、「さようですか」という相槌から始まる、当たり障りのない返事に終わってしまうので、幼いころのわたくしは、このひとは、心のない、お人形みたいなものなのだと独り合点しておりました。少し大きくなってから、丹七さんがおねえさまのお母様と駆け落ちをされたこと、そのお母様が川に身を投げてしまったことなどを知るともなく知りましたが、当の丹七さんに、そのような浮いた雰囲気が何も感じられなかったので、わたくしはいつも不思議な感じを抱いたものです。
 このように、その頃のわたくしにとって、丹七さんは、「大人」という得体の知れない生き物の、それは代表のようなお方だったのですけれども、わたくし、今となっては、そのお心の内がよく分かるような気がいたします。丹七さんのように、恐ろしい悲しみを味わって、それが人生の一部になってしまったような方は、その悲しみを自分ひとりの胸の底に沈めたまま、かえって何事もないように、平気に振舞われるものなのです。また、そうしたお方は、不幸が育つ芽というものを、ほんとうに目ざとく見つけてしまうので、わたくしたちが、まだ年端もいかぬ内から、丹七さんは、自分の娘と、わたくしたち兄妹の間柄に、そうした芽を早くも見て取って、それがだんだんと育って行くのを、きっと悲しく見守っていらっしゃったに違いないのです。

 それに引き換え、わたくしはなんという愚か者だったことでしょう。
 わたくしは、丹七さんの言葉を鵜呑みにして、ほっと一安心すると、丹七さんに、おねえさまに一目会わせてほしいとお願いをしました。丹七さんは、あれはまだ床にいるから、かえってお嬢様に失礼になりましょうと、最初やんわりと断りを入れましたが、それでもわたくしが、眠ったままのおねえさまでいから、一目顔が見たいと懇願すると、しばらく横を向いて思案している様子でした。そして、わたくしの顔をじっと見て、
「ようござんしょう、お入りなさい」
と言ったきり、黙って雨戸を畳み始めました。
 わたくしは、まだ全部の雨戸が開かないうちから土間に入り込み、じっと奥の暗がりを見つめました。丹七さんは、音を立てぬように注意をしながら、それでも手際よく雨戸を開いていったので、土間からすぐ続く、八畳一間の部屋の中ほどで、おねえさまが横になっている様子が、だんだんと見えてまいりました。そうして、一旦裏に回った丹七さんが、西側の雨戸も開けたので、障子ごしの朝の光が、さっとおねえさまの顔を照らしました。

 急に明るくなった部屋の真中で、おねえさまは、こんこんと眠り続けておりました。細い光の筋が、おねえさまの横顔を、背後から縁取っていて、わたくしは、その、額のまろみに始まって、真っ直ぐに通った鼻筋に続く、白く柔らかな線を、まるで彼方の山の連なりを見るように、ただじっと見つめておりました。胸のあたりの布団が、穏やかなリズムで上下しているのが、おねえさまの、ただ一つの生きている証でございました。
 と、布団がひときわ大きく盛りあがり、おねえさまの唇が小さく開きました。
「お父っつぁん、誰かいるの?」
 おねえさまは、目を閉じたまま、外の丹七さんに問いかけました。
「木村のお嬢様がお見舞いにいらっしゃったんだ。挨拶をしな」
 そう丹七さんが答えますと、しばしおねえさまは黙り込んでしまいました。目を閉じたままの横顔は、象牙の彫像のようで、何の表情も浮かべてはおりませんでした。でも、その動かないお顔の内では、一体どんな思いが荒れ狂っていたのでしょう。わたくしは、今思うと恐ろしいばかりでございます。
 表口から入ってきた丹七さんが、まだ口をきかないおねえさまに、
「ほら、お嬢様が心配してなさるじゃないか。こんな病気はすぐになおると、お前からも言っておやり」
と声をかけ、そのままお勝手の方に抜けて行きました。
 おねえさまは、なおしばらく身じろぎもしませんでしたが、目をつぶったまま、
「たかちゃん、こっちに来たら」
と静かにおっしゃいました。

 わたくしは、おねえさまに会うなり、いきなり抱きついてやろうと、密かに心に決めて来たのでした。でも、なぜかその時のわたくしは、まるで水の中を歩くような心地でおねえさまに近寄ると、その傍らにそろそろと座ることしかできませんでした。
 おねえさまの口元に、ようやく笑みが浮かびました、
「たかちゃん、学校は、どう?」
 わたくしは、それには答えず、
「おねえさま、目をどうかなされたの?」
と聞きました。
 おねえさまは、微笑んだまま、
「なあに、大したことではないの。すぐに治ってしまうのよ」
とおっしゃいました。朝の、暖かい光に照らされて、目を閉じたおねえさまの笑顔は、いい夢を見ている最中のようでございました。わたくしは、ああ、これが本当のことなのだ、昨夜から今までのことは、全部嘘だったのだ、悪い夢だったのだと思いました。畳の上で握り締めた右手の甲に、ぱたりと何か温かいものが当たりました。わたくしは、知らずの内に泣いていたのです。わたくしは、大急ぎで涙をぬぐうと、堰を切ったように、思いつく限りのことを喋り続けました。算術の授業で誉められたこと、それを妬んだ級友にいじめられたこと、寄宿舎に迷い込んできた猫のこと…。
 わたくしは、なんという浅はかな娘だったことでしょう。わたくしは、その時のわたくしに、平手打ちを食らわせてあげたい気持ちでございます。それでもおねえさまは、わたくしの愚にもつかないおしゃべりを、黙って笑ってお聞きになっていました。

 そろそろ皆が起きだすころなので、わたくしはおねえさまに暇を告げて立ちあがりました。戸口で振り向くと、おねえさまは見えるはずもないのに、布団から半身を起こし、わたくしの方に向かって手を振りました。わたくしも、思わず手を振って、
「さよなら」
と言いました。
 おねえさまも、
「さよなら」
と笑って言って、また床の上に身を横たえました。
 わたくしが、すっかり心も晴れ晴れとなって、元来た道を歩き出しますと、後ろから小走りに追ってくる足音がありました。振り向くと、物憂げに下を向いたまま、丹七さんがわたくしを追って来たのでした。
 丹七さんは、わたくしの前で立ち止まると、顔を背けたままで、こう言いました。
「お嬢様、あれにはもう会わないでやってくださいまし」
わたくしが、驚いて訳を尋ねますと、丹七さんは、ただ
「あれには、魔が憑いておりますので」
とだけ言って、わたくしに深深と頭を下げますと、また小走りに、家に戻って行きました。

 わたくしは、丹七さんの後ろ姿が生垣の陰に消えた後も、しばらく茫然と立ち尽くしておりましたが、気がつくと、いつの間にやら、のろのろともと来た道を辿っておりました。でも、わたくしは、一体どこに帰ればよいというのでしょう。両足は、確かに自分の家を目指して歩いているのでございます。でもその歩みには、機械じかけのお人形のように、何の意味も目的もございません。そして、わたくしの心の中では、さきほどの丹七さんの言葉と、目を閉じたままのおねえさまの笑顔とが、入れ替わり立ち替わり、ぐるぐると駆け巡り、終りの見えない鬼ごっこを繰り広げておりました。
 こうしてわたくしは、またあの忌まわしい、乱れた土手の下に来てしまったのでございます。泥にまみれ、散り散りになった草むらが目に入りますと、わたくしはもう、ただ恐ろしく、悲しくなりまして、泣きながら家に駆けもどりました。
 家の裏口に戻りますと、井戸端では、もう、ちよばあさんが起き出して、低く鼻歌を唸りながら、朝餉の支度をしておりました。ちよばあさんは、わたくしの乳母でしたから、実の親子のように気心の知れた、何でも話せるひとでした。わたくしが、隠れることもなく目の前に立つと、ちよばあさんは驚いて菜っ葉を切っていた手を止め、立ち上がると、
「おやまあ、どうされた」
と声をあげました。

 わたくしが、何も言えずにただぽろぽろと涙を流しておりますと、ちよばあさんはわたくしの肩を抱き、
「こんな早くにどこ行きなされた。いったい誰に泣かされなさった。ばばに話してくだされ。な」
と言うので、わたくしは、涙ながらにおねえさまに会いに行ったことを話して聞かせました。
 ちよばあさんは、驚いた顔でわたくしの話を聞いておりましたが、丹七さんが最後に言ったことを耳にすると、急に考え深げな顔になりました。
 ちよばあさんは、あたりを見回すと、小声でこう言いました。
「嬢さま、嬢さまには知らんでええことが、世の中にはたんとあるもんですわ。悪いことは言わねえ。丹七さんの言うことを聞きなされ。嬢さまはあさ坊には、もう会わんほうがええ」
 わたくしは、一体何を期待して、ちよばあさんに打ち明け話をしたのでしょうか。それはわたくし自身もわかりませんけれど、そのような答えではなかったことは確かです。わたくしは言葉もなく、茫然と、ちよばあさんを見返すことしかできませんでした。ちよばあさんは、そんなわたくしの目の芯を、考え深げにじっと見つめていましたが、ふと目をそらすと、下を向いたまま、低い声でこう言いました。
「夜、ばばの部屋に来なされ。そっとですぞ。ばばが話して聞かせましょう」
 そして、ちよばあさんは、わたくしに背を向け、また菜っ葉を包丁で叩き始めました。でもちよばあさんの口からは、もう鼻歌が漏れることはありませんでした。
小酒井 不木の「血の盃」という短編小説にインスパイヤされて書き始めた小説です。
続きを書くかは未定。

青空文庫 小酒井不木 「血の盃」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000262/files/48068_39012.html


「あなた様も、ずいぶん変わったお方でいらっしゃる。こんな山奥に、わざわざ、わたくしのような者の話を聞きに訪ねてくださるなんて。
 あの出来事のことでしたら、いまでもよく覚えております。わたくしは、一部始終をこの目で見たのですから。それに、ついこの間、小酒井さまのお書きになった小説を、ひとにお頼みして読んでいただいたのです。院長先生は、このようなものを読んでは体に障るからとおっしゃって、ずっとわたくしから遠ざけられていたのですが、もう遠い過去のことですから、気持ちに整理をつけるためにも読ませてほしいとお願いしたら、しぶしぶ許してくださいました。
 感想ですか?失礼ですが、あんまりに事実と違うでしょう。所々、怒るのを通り越して笑ってしまったこともございます。
 そんな、天井から滴った血が、たまたま盃に当たったなどと、馬鹿馬鹿しい。それに、縊死をしたおねえさまが血を流したならば、それがどんな血なのか、そうしたことに昏い、わたくしのような女にも、思い当たることがございます。ほんとうに汚らわしいお話ですこと。あのとき起こったのは、そんなことではなかったのです。わたくしがこれからお話しすることで、おねえさまの悪い噂が、いくらなりとも晴らされるなら、こんなにうれしいことはございません。

 いいえ、わたくしはあさ子さんの肉親ではありません。わたくしの名前は、木村たか子でございます。良雄は、わたくしの三つ上の兄でございます。わたくしは、幼いころ、いつも良雄おにいさまとあさ子さんといっしょに遊んでおりました。だから、あさ子さんのことはおねえさまと呼んでいたのです。
 大きくなると、あさ子さんやあさ子さんのお父様は、我々のような者に、お嬢様がそんな呼び方をされるのはもったいないとおっしゃりましたので、表向きはあさ子さんとお呼びしていましたが、あさ子さんは、二人きりのときだけはおねえさまとお呼びすることを許してくださりましたし、わたくしも、本当のおねえさまのようにお慕いしておりました。だから、今もあさ子さんは、わたくしにとってはおねえさまなのです。
 そう、わたくしのことは、小酒井さまの小説には書いてありませんね。でも、表沙汰にこそなりませんでしたけれど、たぶん小酒井さまは、わたくしが、あの出来事の最後にしてしまったことを、ちゃんと知っていらっしゃたのでございましょう。その上で、若い娘の身空を思いやって下さり、結末をぼかして下さったのだと思います。
 それはありがたいことでしたが、あの小説の中には、つじつまを合わせるため、小酒井さまが勝手に捻じ曲げておしまいになったことがいくつもあるのでございます。

 婚礼の日は、四月の長雨の時などではなく、よく晴れ渡った九月のある日のことでした。
 そう、九月。わたくしの家とおねえさまの家の間に、小さなお社さまがあったのは、小説にも書かれてあったでしょう。境内の南に、田んぼに向かった土手があったのです。毎年この頃合には、そこに曼珠紗華の花がいっぱいに咲き乱れて、それは見事な眺めでございました。わたくしたち三人は、小さいころ、そこでよくおままごと遊びをしたものです。おにいさまがお父様になり、おねえさまがお母様になって、真っ赤な曼珠紗華を、小さな椀に盛ってくださって、「さあめしあがれ」と差し出してくださったのを今でも覚えております。
 話が脱線していけませんね。婚礼があったのは秋口でございましたが、おねえさまが病気がもとで光をなくしたのは、その何ヶ月か前でしたから、春のころであったでしょう。
 いいえ、おねえさまは、その後も、決して気がふれたりはなされませんでしたとも。小酒井さまが書いていらっしゃることは、全部嘘です。あれは、田舎のうぶな娘が、男に捨てられたらどうなるだろうか、ということを、想像で、さもあったかのように書いていらっしゃるだけなのです。
 それは、光をなくしたばかりか、用のなくなったお人形のように捨てられて、おねえさまのなかで、おにいさまへの憎しみは、紅蓮の炎となって燃え上がり、おねえさまの身と心を、昼となく夜となく苛んでいたはずでございます。でも、その生き地獄の中で、おねえさまは最後のときまで正気を保っていらっしゃいました。そうでなければ、どうしてあのような手の込んだからくりで、おにいさまに復讐をすることができたでしょう。おねえさまは、それは強いおかただったのです。でもわたくしは、おねえさまは、おにいさまに捨てられたとき、いっそ狂ってしまわれたほうが、どれだけ楽だったろうかと、今でも時々考えるのでございます。

 わたくしは、おにいさまとおねえさまが男女の仲になったといわれる頃は、静岡の女学校にやられておりました。だから、二人の間にどういうことが起こったのか、実はよくわからないのです。
 それより前、おにいさまが名古屋の中学に上がった時分は、おにいさまが離れてしまった寂しさもあって、わたくしとおねえさまは、実の姉妹のように、色々なことを相談し合う間柄でした。わたくしが、おねえさまの家のあがりかまちに腰かけて、おにいさまの消息を話すときなど、おねえさまは仕事の手を一時止め、口元に小さな微笑を浮かべながら聞き入っていらっしゃったものです。わたくしは、おねえさまのそういうお顔を見るのが大好きでございました。
 わたくしは、おにいさまが東京に出たのと同じ年に、女学校の寄宿舎に入れられました。わたくしとおねえさまは、それでも日にあけず手紙を交換し合って、お互いの悩みを打ち明け合ったものです。ところが、学校に入って、最初のお盆が過ぎたころから、おねえさまからの手紙は途切れがちになって、それまでは、秘められた心の襞の一枚一枚を解きほぐすような、真心のあふれたやりとりをしていたのが、急に時候の挨拶のような、あたりさわりのないことばかり書きよこすようになってきたのです。

 わたくしは、たいそう寂しい思いをいたしました。そこで、年の末に帰省したおり、一度おねえさまを問い詰めたことがございます。それは、夕暮れ時のお社さまでのことでした。涙ながらにおねえさまの薄情を責め立てるわたくしの言葉を、おねえさまはしばらくじっと黙って聞いていらっしゃいましたが、いきなりわたくしを抱き寄せたかと思うと、小さな、でもしっかりとした声で、
「たかちゃん、まだ誰にも言っちゃだめだけどね、おねえちゃん、たかちゃんの本当のおねえちゃんになれるかも知れないんだよ」
と言いました。
 わたくしは驚いて身を離して、おねえさまを見つめました。おねえさまは杉の木の間から差し込む、透き通った冬の残照を斜めに受けて、目に珠のような涙を浮かべながら、優しく微笑んでいました。わたくしは、こんなに綺麗なおねえさまの姿を見たことがなかったので、どぎまぎしました。
 その時、わたくしの家の方から、調子外れに軍歌を奏でる口笛が聞こえてきました。振り向くと、黒いマントを羽織り、学生帽をあみだにかぶったおにいさまが、こちらにぶらぶらと歩いてくるところでした。おねえさまは、はっと体を硬くして、他所を向きました。おにいさまは、わたくしたちのどちらにでもなく、
「よう」
と声をかけ、そのまま口笛を吹き吹き、どこかに歩いて行ってしまいました。

 わたくしが、おねえさまとおにいさまの仲を匂わせるような出来事に出会ったのは、これが最初で最後でございます。次の春に、わたくしが帰省したとき、おねえさまはもう光を失っておりました。わたくしは最初何も聞かされず、ただお母様から、もうおねえさまの家に寄ってはいけないと強く言いわたされました。おねえさまが病気をしていて、会えばわたくしに病気がうつるかもしれないからというのがその理由です。お母様の説明は、聞いているそばから、いかにもその場限りの空々しい嘘だとわかりましたが、それでも何か大変なことが起こったことだけは確かなようでした。おにいさまなら、おねえさまの様子を知っているのではと思いましたが、そのとき、おにいさまは東京にいたのです。そこでわたくしは一計を案じ、ある夜中にこっそりと家を抜け出して、おねえさまの家に向かいました。
 その晩は、新月だったので、お社さまの境内は真っ暗でした、目を凝らしても、かすかな星あかりに、敷石が白くぼんやりと浮かび上がっているのが、やっと目に入るだけで、あとは、顔に黒い布を押しあてられたような暗闇です。見上げれば、春の少し霞んだ星々が、黒々とした杉の木立に、ギザギザに切り取られているのがわかるだけでした。それでも、ここは自分の家の庭のようなものでしたから、わたしは提灯を持たずとも、易々と歩いて行けたのです。

 わたくしが、境内の短い参道の敷石を横切って、おねえさまの家の裏手へと続く、杉木立の中の小道に分け入ろうとした時でした。背後の土手のあたりから、かすかな低い唸り声のような音が聞こえてきたのです。
 わたくしは、最初、獣の類かと思って、足を止めて耳を澄ませました。すると声は、高く低く、境内の地べたを這いまわるように響きながら、だんだんと強く、大きくなってまいりました。それは、わたくしが今まで聞いたことのないような唸り声で、喉の奥から無理やりしぼり出したような、不自然で、ひどく心をかき乱す調子を持っておりました。
 わたくしは、恐ろしくて、体の芯まで凍りつきそうになりましたが、それでもきびすを返して、その唸り声が聞こえてくる土手の方へと、そろりそろりと向かいました。好奇心というよりも、それが家に戻る一本道で、これほどの闇夜なら、声の主に見つからずに済むだろうと思ったからです。わたくしは、這うようにして、所々に石塔が立ち並ぶ、土手の上の小道に戻りました。その間も、唸り声はどんどん大きくなり、獣じみた慟哭の調子を帯びてきました。そして、わたくしが土手の脇にたどりついたとき、そのすぐ下で、耳をつんざくような高い絶叫が響いたのです。

 その、およそこの世のものとも思えない咆哮を間近に聞いて、わたくしはすくみあがりましたが、身を守るためと好奇心とで、石塔の陰から、そっと顔を突き出しました。向こうの方では、田植えを済ませたばかりの田んぼが、星の光をぼんやりと映しておりました。手前の道から、足元の土手にかけては、ぬまたばの闇でございます。その闇の底で、見えるともつかない、白いぼんやりとしたものが、なにやら蠢いているようでございました。そのものは、地べたに伏し、のたうちまわりながら、恐ろしい叫び声を上げていたのです。それは、むき出しの絶望を無理に呑みこんだようなむせりになり、言葉にならない呪詛を低くごろごろとしばらく続けたかと思うと、突然闇を引き裂く金属的な叫びになって、闇空に怒りと悲しみををぶちまけました。そのなにものかは、土手の斜面の下のほうでもだえ転がりながら、あたりの若草を、手当たりしだいに毟り取っているようでした。ちぎれたヨモギが立てる青臭い匂いが、わたくしのところまでただよってきて、わたくしはそれにも、何とはなしにぞっとする思いをしました。私がそこを立ち去ることもできず、じっと隠れている間に、叫び声はしだいにすすり泣きに変わっていきました。やがて、その白いものは、おんおんと慟哭しながら、お社さまの前の道を、よろよろと這いつくばるようにして去って行きました。
 わたくしは、その時見たものが一体何だったのか、いまでも説明ができません。あのものは、おねえさまの家がある方向に去って行きました。今となっては、あるいは人知れず慟哭するおねえさまの姿を見てしまったのかも知れないとも思いますが、その様は、あまりに人間離れしておりました。それに、その時のわたくしは、おねえさまに振りかかった悲運については露ほども知らなかったので、何か恐ろしいものを見たとだけ思い、震えながら家への道を引き返したのです。

某掲示板にアップした駄文に手を加えたものでございます。


 オナニー係数とは何か。
 それは下品な冗談でも何でもなくて、東欧の神学者たちがほぼ二十世紀まるまるかけて洗練させてきた概念である。
 旧約聖書のオナンの逸話に始まって、キリスト教社会では自慰が罪とされて来たのは周知のごとくであるが、 東欧で共産革命が勃発したのと前後して、ギリシャ聖教の一部の神学者たちが、そのタブーについて真剣な考察を始めたのである。
 このラディカルな動きは、革命によって存亡の危機に晒された宗教界が、共産主義の「科学的」姿勢に迎合したためと考えられなくもないのだが、 1919年に「宗教的罪悪に対する実効的な解決策を呈示する神学者による国際学会」という長ったらしい名前の学会を立ち上げた神学者たちは、当局からほとんどアンダーグラウンドに近い扱いを受けながらも、毎年聖バレンタインの日に大会を開いて、なぜオナニーという罪が神に禁じられていながら、こうも人間界に日常的に蔓延しているのかという根本的な謎について、精力的に考察を重ねてきたわけだ 。

 さて、そこでオナニー係数なる概念が登場して来るわけだが、これは個々人のオナニーによる罪の軽重を数値化した指標だ。
 計算方法は極めて単純で、生まれてから今までに行ったオナニーの回数を、同じく生まれてから今までに行った性交の回数で割るというものだ。 つまり、今までにオナニーを千回、セックスを五百回行って来たとしたら、オナニー係数は「2.0」だということになる。 そして、対象の個人が死ぬまでに積算されたオナニー係数を最終係数と呼び、その数値いかんで罪の重さが決定されるとしたのである。

 学会はさらに、最終係数の数値をランク分けして、

 1.0以上5.0未満を基本的に神のお咎めなし
 5.0以上10.0未満を軽微な罪(煉獄相当)
 10.0以上を重大な罪(地獄行き)

とした。

 随分アバウトな仕分け方だと思うが、各々の数字に厳密な宗教上の意味があるらしい。 ところがこの学説は、発表当時から重大な欠陥が指摘されて来ている。 つまり、童貞と処女の場合、分母となる性交回数がゼロだから、オナニー係数は無限大になってしまうわけだ。 これでは罪の数値化という根本目標が達成できないばかりか、聖職者や聖処女マリアの罪が無限大になってしまう。 学会は第二次大戦をまたぎ四十年以上に亘って紛糾した。

 童貞と処女のオナニー係数が無限大になってしまうことに対する学会内の態度は大きく二分された。
 まず「保守派」にくくられるグループは、この「無限大解」をそのままで是とした。 彼らの解釈としては、無限大解は罪の大きさを表すのではなく、正しく聖母マリアの処女懐胎を行った神の「御業は計りがたし」ということの証明に他ならないとした。
 つまり、この理論は世俗に住む人間の罪を計測するためにあるのであって、神や神に近い存在である童貞や処女に適用するのはそもそも誤りだというのだ。この保守派はさらに細かい学派に枝わかれしながらも、学会構成員のほぼ七割を占めていたという。
 他方小数派の「行動派」は違う見解を持っていた。彼らは計算式そのものにどこか欠陥があると考え、地道なフィールドワークと理論的研究を精力的に続けた。
 彼らの研究は辛苦を極めた。行動派の学会員たちが都市部でいわれなき迫害を受けた結果、サンプルのほとんどは、辺境の寒村に住む、無知文盲な老若男女ということになった。学会員は僧侶としてこうした村の教会に赴いては、村民の懺悔を聞くという体裁で、せっせとサンプル収集に励んだわけだ。
 しかし、この方法は、時に極めて深刻な結果をもたらした。懺悔を行っているさなか、高潔であるはずの僧侶が突如として奇妙な誘導尋問を始めるものだから、純朴な善男善女はたいそう驚きいぶかしんだ。こうして、罪といえば奇妙な情熱に取り憑かれているというだけの、敬虔な神学者が、村中から袋だたきの目に合って追い出されることも、決してまれではなかったのである。
 さらに悲劇的なことは、この方法をとる学会員の中に「転向者」が相次いだことだ。若い学会員が、妙齢の女性にあられもない質問をしているうちに、双方ムラムラときて、結局その村で所帯を持ってしまう。という事態が相次いだからだ。こうした不届きものを、「行動派」は許しはしなかった。「転んだ」者たちは学会から永久追放となり、同時に学会員の永久の呪詛の対象となった。
 一方、殉教者として同胞の尊敬を一身に浴びる者もいた。彼らは自らをサンプルとした。つまり日に日に過酷な「行」をなした結果、衰弱死した者もいたのだ。彼らの墓碑銘には、かならず「悪魔の脇をかすめて神にいたりし者」という文言が添えられた。

 そして、1968年、その血のにじむような努力がついに花開くことになる。
 ヘルシンキで行われたその歴史的な大会で、トルクメニスタンの若手神学者グループが 「自然数解」という画期的な学説を発表した。これは以後「ヘルシンキ解」と呼ばれ、学会の標準学説となる。
 その学説によれば、本来宇宙に「ゼロ」なる数字は存在しない。ゼロはアラビアの異教徒がでっち上げた偽の概念に過ぎないから。よって数字は全なる「1」から始められなければならない。つまり、性交もオナニーも経験していない子供のオナニー係数はゼロ分のゼロではなく1分の1、すなわち聖なる全き「1」である。分子の1はキリストが背負った原罪の1、分母の1は生まれた際に母親が腹を痛めた際の1とされた。
その始原の数字に俗世の経験が積み重なることでオナニー係数が生じる。
 つまり、正しい公式は

(1プラス今までのオナニー回数)
割る
(1プラス今までのセックス回数)

となる。
 一部のひねくれものから、「それではオナニーとセックスを同数行えば 罪がチャラになってしまうではないか」との異論がなされたが、それは発表した研究グループもあらかじめ想定していた反応だった。
 彼らの返答は以下の通りである。
「有史以来、自らのオナニーの回数とセックスの回数を正確にカウントした人物は存在しない。それに、もし意図的にせよ偶然にせよ、生涯のオナニー回数とセックス回数が正確に同数になりそうになった時は、神が必ずなんらかの介入をしてそれを阻むはずである」
 その時、満場の聴衆から割れんばかりの拍手が沸き起こり、いつまでも止むことがなかったという。

 さて、学会はその瞬間をピークとして緩やかに終息を迎え、ベルリンの壁崩壊直前に行われたモスクワ大会を花道に解散した。
 最後の宣言は、「我々はオナニーを克服したのではない。しかし一つの真理にたどり着いたのだ」 というものである。
 
 
  2007年04月05日 木曜日 午後6時59分、横浜市南区弘明寺町
 
 
 
  G商店街、午後6時59分、
  まばらな買い物客たちが、三々五々、急ぎ足でアーケードの出口に向かっている。
  気の早い店主たちは、もうガタガタと音を立てて、シャッターを閉め始めている。
  子供たちは、とうに家に戻って食卓の前に座っている。
  そんなつかの間の、のっぺらぼうの時間、
  誰も彼もがよそよそしい顔をして通りすぎて行く、
  そんな置き捨てられた時間に、
  いつの頃からか、時々、一つ目の小鬼が現れるようになったそうな。

  その小鬼は、何の化身か、身の丈1メートル足らず、
  青銅色の、ひびが入った古タイヤのような肌をして、
  特に何をするでもなく、物陰から、お椀ほどの目玉を見開いて、
  舗道にはみ出た色とりどりの果物や、合成皮のサンダルや、
  朱色に塗られた小さな箸などが、
  しらじらとした蛍光灯の光を、行く当てもなく反射している様子などを、
  ただじーっと眺めているそうな。
  その少し青みがかった水晶のような目の玉は、
  何かを語るには、あまりに透き通ってはいるけれど
  やはり幾分か灯りを反射して、
  まん丸のその淵が、てらてらと濡れたように光っているそうな。
  その様が、時々泣いているようにも見えるそうな。

  さて、もしそんな小鬼に出くわしてしまったら、
  一体私に何ができるだろう。
  (何もできまい!決まり切ったことだ!)
  そんなことを、考え考え、歩いていたら、
  目当てのスーパーをだいぶ通り過ぎてしまった。

 一昨日の夜明けから昨日にかけて、ずっと腹痛と下痢と悪寒に苦しめられていた。風邪かも知れないし、あるいは今流行りのノロウイルスとかいう奴かも知れない。とにかく今は腹痛もほぼ収まり、生姜湯など飲みながら、この文章を打ち込んでいるのである。やれやれ。
 一昨日はひたすら精神と体力を消耗した一日だった。私は終日ベッドの上で、海老のように体を反らせたり丸めたりして悶絶していたのである。寄せては引く腹痛のリズムに支配されて、浅い眠りに落ち込んだと思ったら、うめき声を上げながらすぐに目覚めてしまう。そのまま脱兎のごとくトイレに駆け込む。そんな繰り返しが、12時間以上も延々と続いたのだった。
 眠っている短い間は夢を見ていた。しかしその途切れ途切れの夢は、それぞれ前の夢とつながっていて、全体で一つながりの長い長い悪夢をなしていたのである。午前中から夜まで続いたその大長編劇の前半では、私は休むことなく仕事をしていた。後半では受験生となって、大学入試を受けていた。つまり、まるで気の休まらない夢だったのだ。おまけに腹痛は夢の中まで容赦なく追いかけてくる。
 この苦行のような夢全般については、あまり語る言葉を持たない(今思い出してちょっと面白いと思うのは、入試に出てきた「ニーチェは一輪車をハンドルがないゆえに賞賛し、逆に二輪の自転車を非難した。ニーチェの理想とする自転車を図示せよ」という問題くらいである)。これから語ろうと思うのは、その夢の中の、ほんのささやかな幕間劇にあたる部分である。


 翌日の仕事に着てゆくYシャツがないので、私は5年ほど前まで住んでいたアパートを訪てみることにした。もしかして一着くらいは、そこに置き忘れているかも知れないと思ったのである。
 R**荘は、東京はS区のT界隈にある。古本屋街を左に折れ、だらだらと続く下り坂を途中まで下りて、さらに左の小路に入り込むと、そこに古い家屋の立ち並ぶ、昭和初期にタイムスリップしたような一角がある。そしてその入り口で、果たしてその古めかしい木造のアパートが、5年前と変わらぬ姿のまま門を構えていたのである。
 アパートの前で、初老の男が箒をかけている。大家だ。私は、彼に不審がられるのではないかと一瞬警戒したが、大家は私をじろりと一瞥すると、「どうも」と言って、再び箒をかけ始めた。つまりは5年前と変わらぬ、いつもの大家である。
 私は目礼をして彼の脇をすりぬけ、風呂屋のような瓦葺の庇が張り出した、これまた風呂屋のように間口の広い共同玄関に上がりこんだ。靴の脱ぎ方にうるさい住人がいたことを思い出して、土間の隅っこに丁寧に靴を置くと、ひんやりとした板張りの廊下の突き当たりにある階段をそろそろと上る。あたりはしんとして人の気配がない。このアパートは、外見は2階建ての長屋だが、戦災を逃れた大正時代の木造建築の生き残りである。元は旅館だったらしいと聞く。だから、現代のせせこましい建築とは違い、廊下や階段の幅が広く、どっしりとしている。ところが戦後も建て増しに建て増しを重ねた結果、この建造物の内部は、まるで迷宮のように入り組んだものになってしまった。私は4年の間そこに暮らしていながら、ついにその全体像をつかむことができなかったのである。
 例えば、共同便所の隣のいつもは南京錠がかかっている木戸が、時々小さく開いていることがあった。私はある日、好奇心に駆られてそこを覗きこんだ。昼間だというのに、扉の中は日が暮れた後のように薄暗かった。それでも黒光りする廊下が、建物の最深部に向かって、真っ直ぐに伸びているのが見えた。私はなぜともなしに息を潜め、足音を忍ばせて奥へと進んで行った。するとその曲がった先に、何十畳もあるような座敷が忽然と現れた。無人の座敷は闇に閉ざされ、湿った黴の臭いを漂わせて沈黙していた。恐らく何十年も使われていないのだろう。だがなぜか、灯明が一本だけ灯り、床の間のあたりをぼんやりと照らしていたのである。黄ばんだ掛け軸の下半分だけが闇の中に浮き上がり、斜めに羽を広げた大きなアゲハチョウが、荒い筆致の墨で描かれているのが見えた。
 その座敷の奥にも、いくつか広間が続いているようだったが、私は、闇に浮かぶアゲハチョウの絵を見ているうちに、急に恐ろしいような居たたまれないような気持ちに襲われて踵を返した。そして戸口の外の真昼の世界に急いで引き返すと、素潜りをしていた潜水夫のように、大きく深呼吸をしたのだった。
 またある時は、家賃を納めに、大家の居住する中二階とも離れともつかない曖昧な場所に行く途中、いくつか曲がる場所を間違ってしまい、蔵の中のような、がらんとした空間に出てしまったこともある。十メートル四方はありそうな、その暗い部屋の中は空っぽだった。上を見上げれば、そこには天井がなく、黒くて太い梁が縦横に走って、高い三角屋根を支えていた。そこから昔の商店の屋号らしきものが大書きされた、青や赤の縦幕がいくつも下がり、高いところから差し込む幾筋かの光の束の中で、ゆらゆらと音もなく揺れていた。
 さて、私のかつて住んでいた部屋は、階段を上がって手前に折れ、廊下が十字に交錯している場所の、左奥の角の六畳間である。昔の下宿屋のままに、部屋と廊下は襖で仕切られているばかりなので、誰でも開けて入ることができる。私はかつてのように、何の遠慮もなく襖を開けた。すると驚いたことに、部屋は昔私が暮らしていた当時の姿のまま、そこにあったのである。
 古道具屋で手に入れた、黒塗りの塗料が剥げかけた座り机も、安っぽいピンクの布団を被せた小さなコタツも、質素な木製の本棚もそのままである。床に投げ出されている本の山といい、コタツの台の上の、飲みかけの安ウイスキーの瓶といい、5年前の私が、今しがた、どこかに買い物に出たばかりという感じの乱れ方である。
 驚き呆れながら部屋の中を見回していると、もう一つ、不思議なことに気がついた。廊下と反対側の壁には、たしか以前は何もなかったはずなのに、そこにいつの間にか襖戸がついていたのだ。押入れか何かと思って開けてみると、その奥にもまた部屋があった。
 西日がカーテンを透かして、その六畳間全体を緑色に染めていた。そこの壁際にも質素な座り机と本棚が並んでいて、明らかに誰かが生活している気配がある。しかし、その部屋に踏み込んで、あれこれと眺め回しているうちに、不思議な既視感が沸き起こってきた。これらの見知らぬ調度も、見知らぬ本たちも、たしかに私のものであるような気がしてきたのである。空色のペンキが塗られた、中学生の木工細工のような低い本棚も、壁にかけてあるクレーの複製画も、座椅子に乗っている色あせた座布団も、机に乗っている丸くて赤い置時計も、古本屋のワゴンで買い集めたのと思しき、黒ずんだ「世界文学全集」の列も、深い森の底を思わせる緑の光を浴びながら、この私をずっと待っていたのではないかと思われた。私は物思いに沈んだ。私はどれだけ長い間、この小さな王国を忘れ果てていたのだろうか。
「ちょっとHさん!」
 振り向くと、廊下と部屋の境目に、大家の奥さんが腕を組んで立っていた。私がへどもどと挨拶をしようとするのを無視して、彼女はさらに続けた。
「困ってたんですよ。部屋を出たまんま、ちっとも荷物を片付けに来ないんですから。おかげで次の人を入れようにも入れられやしないじゃないですか」
「この部屋は?」
「ああ、この部屋の人もね、あなたが入ってくるずっと前に出ていったっきりなんですよ。全く迷惑だったらありゃしない」
 私は決心をつけた。
「あの、これだけ迷惑をおかけしながら、何なんですが…」
「何ですか?」
「また、ここに住まわせてはもらえないでしょうか」
 何、クーラーがなかろうが、風呂がなかろうが、水道とトイレが共同だろうがかまうものか。私はここに戻ろう。この荒廃と安らぎが相半ばする我が故郷に。


 …こうした夢から目覚める瞬間には、必ず位置感覚の混乱が伴う。私は最初、自分がどこにいるのかさっぱりわからない。枕の上で首を回し、ぼんやりと部屋の中を見渡す。襖があるべきところに窓がある。いや、ここはR**荘ではないのだ。だとしたら、ここはどこだろう。今、部屋の外の階段を駆け下りている足音は、洗濯物を下ろしている母のもの? いや、知らぬ人だ。
 こうして私は、眩暈を誘うトポロジカルな激変を何度か通過しながら、徐々に、視界の外にある空間の広がりと、自分の歴史のつながりを再構築してゆくのである。そしてやっと、ここがすでに5年の月日を過ごしているS市のアパートであることを思い出す。さらに驚きの事実が私を襲う。私はかつて、R**荘なるアパートに住んだことはおろか、その前を通り過ぎたことすらないのだ。R**荘はこの世に存在しないのである。
 確かに私は以前、S区のT界隈の古い木造アパートに住んでいたことはある。しかし、そのアパートは夢の中に出てきた場所とは駅を挟んで反対側だし、あれほど入り組んだ迷宮のような建物でもなかった。私は黒い座り机も、ピンクの布団を被せたコタツも持ったことはない。あの界隈に、戦災を逃れた一角などは存在しない。あそこには、以前私が勤めていた会社の事務所があったのだ。眩暈に似た喪失感が雪崩のように襲ってくる。同時に雪崩のような下痢。私はトイレに駆け込む。
 ひとごこちついて、ベッドに再び横になりながら、ぼんやりした頭で思い出す。いや、私は確かにあの迷宮めいた心地よい場所に、何度となく行ったことがあるのだ。夢の中でのことではあるが。私は、いくつかそういう秘密の場所を持っているのである。私は戯れに、それらを結び付けて、私の夢の世界の地図を引いてみようと試みる。まあこういう退廃も、病気中なら許されるだろうと思いながら。
  
  
  2006年11月15日水曜日午後5時32分、目白台
 
 
 夜、饂飩をすすっていると、ピンポンと玄関のベルが鳴った。
 物売りにしては非常識な時間帯だったので、さては大家のじいさん、また何か文句をつけに来たなと身構えてドアを開けると、そこに銀色の四角いロボットが立っていた。
 ロボットは、丸い目玉をチカチカと点滅させ、手錠のような二本指をカチカチと鳴らしながら、挨拶もなしにこう言った。

「心セヨ ・ ガガッ ・ 時ハ既ニ満チタリ ・ ガガッ ・ 米味噌醤油ヲ絶ヤスナ ・ ガガッ」

 私は何とも答えようがなかったので、ロボットの頭の上で渦巻き型のアンテナがくるくる回転しているのを黙って見つめていた。するとロボットは、ふいにくるりと私に背を向け、ガシャガシャと歩み去りかけた。
 私は特にかける言葉もなかったが、何とはなしに、ロボットの背中を二、三度叩いてやった。堅牢なボディの中に、機械類がぎっしり詰まっているのかと思いきや、空のブリキ缶を叩いたような、妙にうつろな音が響いた。私は訳もなくどぎまぎして手を引っ込めた。
 ロボットは振り向いて、飛び出た目玉をまた点滅させた。

「涙ヲ流ス者 ・ ヲ ・ 探セ」

 四角い格子状のスピーカーから最後の音節が流れ出ると、目玉のランプがすーっと光を失った。ロボットは再びきびすを返し、ガチャンガチャンと重たげな足音を立てて、夜の闇の向こうに消えていった。


  2006年11月15日水曜日午後5時27分、目白台
 
 
  2006年11月17日金曜日午後2時50分、港北区


         花々が、秘かにオウム貝との婚約を夢見たことがない、などと
         一体だれに断言できるというのか。
 
 
  2006年11月15日日曜日午後12時00分、アパート付近


      男は、これじゃあとても12時5分の電車に間にあいっこないな、と思い、
      世界を滅ぼすことをあきらめた。
 
 怪物は、またひとしきり耳障りな馬鹿笑いをした後、こう続けた。
「だがわしにも情けはあるぞ。そちの趣向に付き合うのも、ひとときの退屈しのぎにはなろうて。さればこそ、わしもこのようにめかしこんできたのじゃ。さあ、早く案内せい。わしは待たされるのを好まぬ。もたもたしておると、今ここで食ろうてやるぞ」
 花嫁は、怪物に向かってぺこりと頭を下げると、こわごわ遠巻きに見守っている親族達に笑顔を向けた。
「さあさあ、みんな中に入ってください。ほら、叔父さんは叔母さんを起こしてあげて。腰を抜かしてしまってるじゃありませんか。武雄もぼっとしてないで手伝うの。お母さんも早く早く。あ、お父さんはここに残ってください。あとよっちゃんとめぐもね。二人には入場のお手伝いをしてほしいの。花屋さん、私にブーケを下さいな、さあ、楽隊の皆さんもしゃんとしてください。トランペットの音がぶるぶるふるえていたら、せっかくの式が台無しよ。」
 花嫁は、皆を励ますように、てきぱきと指示を与えた後、怪物に向き直った。
「あなたには、神父さんといっしょに先に入場していただきます。でも、どうかみんなを怖がらせないでください。お願いします」
 怪物は、にやにやと笑いながら花嫁を眺めていたが、「よし」と一声言うと、鉤爪の生えた両の手を胸の前でがちがちと組みあわせ、なにやら複雑な印のようなものを結んだ。すると皆の耳がきんと鳴って、あたりが一瞬さっと暗くなった。再び景色が明るくなると、そこには見上げるような怪物の姿はなく、かわって長身の男がすっくと立っていた。
「これでよかろう」
 男が言った。黒のタキシードに包まれ、あごひげを生やしたその壮年の男は、一昔前の紳士然とした風貌をしていたが、痩躯にみなぎる精悍な力と、その表情に表れた倣岸さは、まさしく怪物のそれと知れた。そしてその胸元では、相変わらず大きな鬼百合の花が、笑うように身を揺らしながら、毒々しい赤色に輝いているのだった。
 
 昼寝中に見た夢。

 何冊か本を買って帰宅すると、母親が待ち構えていた。
 早速買い物袋の中を見せろと迫られる。私は先日の離婚騒ぎ以来、母の信頼をまるで失っており(あくまで夢の中での話です。念のため)、それから彼女は私の生活態度のこまごまとした部分にまで執拗な監視の目を光らせてくるようになったのである。
 私が半ば冗談、半ばヤケ気味に、エロ本が入っているから見せられぬと答えたのも全く耳に入らないかのように、母は私の手から素早く紙袋を引ったくると、中身をばさばさと床の上にあけてしまい、一冊一冊手にとっては、「これは何?」「これは何なの?」と聞いてくる。
 私は適当に返答しながら縁側の外を見やる。庭先から、奥へ奥へと連なってゆく小高い山々がよく見える。そういえば、ここは山のてっぺんだったのだ。遅い春の季節と見えて、庭も山々も、どぎついまでに明るい緑色に染まっていた。しかし大気は重く湿り気をおび、妙に黄ばんだ陽光が、今にもにわか雨がやって来そうだと告げている。
 案の定、庭の左手に生い茂っている葉桜の陰から、真っ黒な雨雲がもうもうと立ち上がってきた。谷底から、桜の木の生い茂る斜面を這い上がってきた黒雲は、林と庭の境界線あたりで無数のちいさなちぎれ雲に分かれて、庭を次々と通り過ぎてゆく。一抱えくらいの小さなものから、自動車くらいのものまで、まちまちな大きさの真っ黒な綿埃のような雲が、ちょうど私の目の高さあたりでふわふわと漂いながら、左から右へと通り過ぎてゆくのである。私は山の上だからこういうことも起こるのだろうと納得している。
 と、人が歩くほどの速さでしずしずと行進してくる大小の雲にまぎれて、白い大きな瓶がひとつ、宙に浮かんでこちらに漂ってくるではないか。斜めに浮かんだ細長い白磁の瓶の口には、一枝の満開の桜が差されている。いくら山の上でも、こういう不思議はそうそう起こらないだろうと思って、私は母に声をかけた。
「ほら母さん、大きな瓶が流れていきますよ」
 しかし母親は、本にはさんであったレシートを調べるのに余念がない。そこに書かれている本の題名を、ぶつぶつと呪文のように唱えている。瓶は私のすぐ目の前をゆっくりと通り過ぎてゆく。すぼまった瓶の口から奇妙に折れ曲った枝が突き出し、そこにびっしりと咲き誇っている小さな花々は、桜というよりもバーミリオンに近い鮮やかな色をしている。
 墨汁をたらしたような雲の行列の中で、そこだけ誰に捧げられるとも知れない艶やかな祝祭の空気に包まれて、瓶は庭に繁る雑草の上にくっきりと丸い影を落としながら、段々と遠ざかってゆき、やがて私の視界を限っている、藪とも雑木林ともつかぬ曖昧な黄緑の景色の彼方に消えた。

 私は目覚めると、何かもやもやとした不安が襲ってきそうなのを振り払うようにして外に出た。冷気が顔を打つ。なんだ、もう冬じゃないかと思う。



2006年11月13日月曜日午前11時10分、アパート前
 
 花嫁の前で、牛を一飲みにするような大口が再び開いて、地獄の釜が沸騰したような笑い声が爆発した。それでも奇妙に離れ離れになった二つの緑色の目は少しも笑っておらず、眼前の生け贄が今にも泣き出すか、悲鳴をあげるかと、底なしに冷たく意地の悪い視線を、じっと花嫁に注ぎつづけた。
 花嫁は、おっとりとした外見とは裏腹に、たいそう気丈な娘だったが、せっかく今日この日のため、あれやこれやと手間ひまかけて吟味したウエディングドレス姿が、礼儀知らずの花婿によって無残にも宙吊りにされたままなのに、だんだんとやるせない気持ちが募ってきた。遠慮なく浴びせられる、ゴムが焼けたような異臭が混じる熱風にも閉口した。そこで娘は怪物の顔に向かって身を乗り出し、根元に木のうろのような穴が二つあいた鼻の頭にそっと手を置いた。新郎は思わず笑い声を止めた。娘は、目の前いっぱいに拡がっている怪物の顔の、眉間のあたりを見据えながら言った。
「ならば、私の命も明日か明後日までとなりましょう。もとより覚悟の上でございます。だからこそ、せめて皆様への最後のお別れは、美しく、華やかに行いたいのです。どうぞ哀れとお思いになって、少しの間だけ、お付き合いください」
 怪物は、しばし彫像のように動きを止めて黙っていた。それでも、その真っ黒な体と魂の中を、様々な邪悪な打算が嵐のようにめまぐるしく入り乱れていることは、誰の目にも明らかだった。やがて、憎悪と憤怒が静かな悪意と冷笑に席を譲った。怪物は、ふと体の力を抜いて娘を地面におろすと、どうやら猫なで声のつもりらしい、紙やすりをこすり合わせたような、ざらざらとした声でこう言った。
「あわれよのう、そちら朝に生まれ、昼にまぐわいて子をなしたかと思えば、夕べにたちまち老い腐れて死んで行く泡のような身の上は。婚礼の儀など、いかにもそちらが好みそうなたわけた茶番じゃわい。おお、ひと臭い、ひと臭いのう」
 
 
  2006年10月26日木曜日午後8時10分、東京都町田

 
 紫色のキリンに救われたい、だなんて、あんたちょっと虫が良すぎねえか、と声を荒げ、
 その若い牛丼屋の店員は、カウンターごしに私を睨みつけた。
 
 怪物の一言は、モーゼの杖の一振りのごとく、人の波を真っ二つに割った。その向こうに小柄な花嫁の姿があった。花嫁は、小さいがよく透る声で応えた。
「ここにおります」
 花嫁の口がまだ閉じるか閉じないかのうちに、人々の間を黒い稲妻が走り抜けたかと思うと、もう怪物は、花嫁の鼻先で、巨大な壁となって立ちふさがっていた。花嫁は、急に目の前が真っ暗になったので、まぶたをぱちくりさせた。すると不意に体が宙に浮いて、上から燐光を放つ二つの目玉が降ってきた。怪物は花嫁をひょいと片手に掴んで、間近に引き寄せたのである。怪物は、品物を吟味する商人のような手つきで、新婦の体をためすがめつし始めた。花嫁は、桜の木のように堅くてこぶだらけの手の中で前後左右上下に転がされながらも、サファイアのような冷たい光を放つ怪物の両の目の中に、鉱物性の悪意がだんだんとせりあがってきて、緑色の妖しい輝きに変わるのを見てとった。
 と、その目のすぐ下で、暗闇が横一文字に裂け、そこから更に暗く禍禍しい闇が現れた。怪物が、やにわに鱶のような大口を開いたのだ。その底知れぬ奥から、髪を焦がすような熱風が押し寄せてきて、花嫁の顔をまともに打った。同時に、じゅうじゅうという鉛が煮えたぎるような騒音が沸き起こった。一同はあわや花嫁が一飲みにされるかと息を呑んだが、娘は、その耳障りなざわめきが、どうやら化け物の笑い声らしいと気がついた。怪物の胸元では、鬼百合の花が、その身の毛もよだつ高笑いに合わせて、花びらを震わせながら、まだらに妖しく瞬いていた。花嫁は、有毒の呼気に思わず顔をそむけながらも尋ねた。
「何をお笑いなさります」
 怪物は笑い止めると、すっと目を細め、低く応えた。
「なに、そちが幾晩もつかと心配での」
「わしは毎年嫁を迎えるが、わしの夜伽の相手に、三晩と耐えた女子はおらんのじゃ。わしはせんかたなく、ぼろくずと成り果てた嫁を食らうことにしておるが、その趣向を毎度考えるのがまたひと苦労での。生で食らうのも、煮るのも焼くのも、干物にするのも飽きたわい」
 
 人身御供となって、怪物のもとへと嫁がされることになった小間物屋の娘は、それでもチャペルで式を挙げることにこだわったので、安ホテルに隣接した教会堂に一族郎党が集まり、いまや花婿となる怪物の到着が待たれるばかりだった。肩を落として涙に暮れる両親を尻目に、純白のドレスに身を包んだ若い花嫁は、二人の幼い姪っ子を相手にお手玉遊びに興じていた。
 やがて教会の前に一台の黒塗りのリムジンが止まり、遠巻きにこわごわ見守る一同の前で、後部座席のドアがばたんと開いた。とたんに一陣のつむじ風が沸き起こり、ドアから目にもとまらぬ速さで黒いボールのようなものが飛び出したかと思うと、みるみるうちに膨らんで、見上げるばかりの真っ黒な化け物の姿となった。巌のように盛り上がった筋肉で、今にもはちきれそうな黒のタキシードの下からは、二本の牡牛のような蹄が突き出して、柔らかな芝生に深深とめり込んだ。両の袖からは鎌のような鉤爪が三本づつ顔を覗かせ、カチカチと耳障りな音を立てて、互いにぶつかっては火花を飛ばした。そして人の顔ほどもありそうな鬼百合の花を一輪挿した襟元からは、大木の幹かと見まごう首がにゅっと生えて、その上に蛇とも馬とも言いかねる、おどろに髪を振り乱した巨大な真っ黒い頭が乗っていた。その目の痛くなるような漆黒の闇の中で、狡猾で残忍そうな小さな目が二つ、煌煌と青い光を放っているのだった。
 怪物は少しの間、チャペルの前の階段で凍りついたように立ちすくんでいる人間たちを眺め回すふうだったが、やがて静かにこう言った。
「わしの花嫁はどこにおる」
 それはまるで洞穴の中を一時に幾千もの風が吹き抜けたような、およそ生あるものの声とは思えない響きだった。怪物の足元の芝生は、あたりに立ちこめる瘴気に、早くもぱりぱりと小さな音を立てて枯れ始めたが、その息吹をまともに浴びた鬼百合の花は、ふいごをあてられた燠火のように、かえって血の色に燃え上がった。



鬼百合
 
肺魚の化石らしいです
 
 
 昔々、名もない海の彼方の、名もない浜辺で、波打ち際の小さな水溜りに、たった一匹取り残されてしまった魚がありました。その魚は生まれつき、どこかぼんやりしていて機転がきかなかったので、いつしか群れからはぐれてしまい、とうとう海からも見捨てられてしまったのです。
 真上から照りつける太陽と魚との間には、がらんとした空が、ただ果てしなく広がっているばかりでした。海の中から見上げた時の、ダイヤモンドをまき散らしたような優しく心地よい光と違って、裸の太陽は、どこまでも意地悪く、ひとりぼっちの魚に、かんかんと遠慮ない高笑いを浴びせるのでした。
 空しくえらをぱくぱくさせて、魚は考えました。
「ああ、僕の一生にはろくなことがなかった」
 もう腹を湿らせるばかりの浅くて温い水を、ひれでパシャパシャと叩きながら、なおも魚は考えました。
「それにしても、これはあんまりだ。僕がいったい何をしたというのだろう」
 魚は知りませんでした。彼の前にも、同じように嘆きながら、同じように死んでいった同類が、この海が生まれてからこのかた、寄せては引いてきた波の数と同じほどいたことを。そして、自分がこれから、天の気まぐれで、いま少しの命を与えられるだろうということも。
 まして、彼がこれまでよりも、もっと不愉快でもっと骨の折れる生活を何とか乗り切った後、彼の子孫がやがてトカゲや鳥や獣やヒトとなって、大地を闊歩したり、空を飛んだり、パチンコですったり、電車の中で手鏡とにらめっこしたりするであろうことなど、背びれを原始の太陽にじりじりと灼かれながら、ぬかるみの中でのたうち回っている一匹の魚には、夢にも知りようがなかったのです。
 
2006年10月17日火曜日午前11時55分、近所のスーパー前
 

 同じ日に生まれた飼い犬にシャボン玉を吹かせようとして、母親にひどく叱られた少女は、次の日もずっと黙りこんだままだった。
 私は窓から離れ、ベッドにどかっと倒れこんだ。
「そうだ、あの子は僕を楽しませたくてあんなことをしてるわけじゃないんだ」
私は仰向けになって天井をにらみながら思った。かすかな風が薄暗い部屋の中に彷徨いこんできて、汗が薄い膜のようにはりついた私の額を、涼やかな手で撫でた。私は頭をめぐらして再び窓を見た。暗がりの中で、映画のスクリーンのように明るく開いた窓の外では、夕日を浴びて長々と横たわる軍艦のへさきで、相変わらずチカチカと信号がまたたき、私には永久に知られることのない暗号を伝えつづけていた。平野では風が吹き始めたらしく、今まで一枚の鏡のようだった広い水田のあちこちを、無数の細かなさざなみがかき回していた。さっきまでの私の幻想は、まったく破れ去ってしまった。熱による疲れが、待ち構えていたかのように私の両肩をがっしりとつかんで、ベッドに深深と押さえつけた。発光信号は、最後にへたくそな三三七拍子を打ったかと思うと、それっきり途絶えてしまった。もう帰る時間なのだ。年男は夕子にさよならを言い、船尾のS字坂に向かってまっすぐに続く崖の上の道を走っているのだろう。いや、礼儀正しい年男のことだ、玄関口で、夕子の母親に一言あいさつをしているのかも知れない。どのみちそれは私じゃないのだ。
 案の定、へさき近くで整列をしている、同じ形をした五軒の家の真中あたりから、白い米粒のような人影が現れ、甲板のへりの手すりぞいに、船尾に向かってのろのろと動き始めた。それでも年男は、楽しかった今日一日の余韻に顔を火照らせながら、全力疾走で家に向かっているに違いないのだ。米粒は、ときおりぴょこんと小さく跳ね上がった。私に向かって手を振っているのだろう。私はまた考えた。「あれは年男が言い出したことなんだ。あの子はその思いつきが面白くてつきあっただけなんだ。僕なんかどうでもよかったのだ。でも、本当にそれだけだったんだろうか?」
 窓から吹き込んでくる風が次第に強くなってきた。私は肌寒さを感じ、窓を閉めるためにのろのろと起き上がった。年男に向けて、一度だけ手を振った後、カーテンを閉めた。私はそのまま夜更けまで死んだように眠った。今度は何の夢も見なかった。