2007年04月05日 木曜日 午後6時59分、横浜市南区弘明寺町
 
 
 
  G商店街、午後6時59分、
  まばらな買い物客たちが、三々五々、急ぎ足でアーケードの出口に向かっている。
  気の早い店主たちは、もうガタガタと音を立てて、シャッターを閉め始めている。
  子供たちは、とうに家に戻って食卓の前に座っている。
  そんなつかの間の、のっぺらぼうの時間、
  誰も彼もがよそよそしい顔をして通りすぎて行く、
  そんな置き捨てられた時間に、
  いつの頃からか、時々、一つ目の小鬼が現れるようになったそうな。

  その小鬼は、何の化身か、身の丈1メートル足らず、
  青銅色の、ひびが入った古タイヤのような肌をして、
  特に何をするでもなく、物陰から、お椀ほどの目玉を見開いて、
  舗道にはみ出た色とりどりの果物や、合成皮のサンダルや、
  朱色に塗られた小さな箸などが、
  しらじらとした蛍光灯の光を、行く当てもなく反射している様子などを、
  ただじーっと眺めているそうな。
  その少し青みがかった水晶のような目の玉は、
  何かを語るには、あまりに透き通ってはいるけれど
  やはり幾分か灯りを反射して、
  まん丸のその淵が、てらてらと濡れたように光っているそうな。
  その様が、時々泣いているようにも見えるそうな。

  さて、もしそんな小鬼に出くわしてしまったら、
  一体私に何ができるだろう。
  (何もできまい!決まり切ったことだ!)
  そんなことを、考え考え、歩いていたら、
  目当てのスーパーをだいぶ通り過ぎてしまった。

 一昨日の夜明けから昨日にかけて、ずっと腹痛と下痢と悪寒に苦しめられていた。風邪かも知れないし、あるいは今流行りのノロウイルスとかいう奴かも知れない。とにかく今は腹痛もほぼ収まり、生姜湯など飲みながら、この文章を打ち込んでいるのである。やれやれ。
 一昨日はひたすら精神と体力を消耗した一日だった。私は終日ベッドの上で、海老のように体を反らせたり丸めたりして悶絶していたのである。寄せては引く腹痛のリズムに支配されて、浅い眠りに落ち込んだと思ったら、うめき声を上げながらすぐに目覚めてしまう。そのまま脱兎のごとくトイレに駆け込む。そんな繰り返しが、12時間以上も延々と続いたのだった。
 眠っている短い間は夢を見ていた。しかしその途切れ途切れの夢は、それぞれ前の夢とつながっていて、全体で一つながりの長い長い悪夢をなしていたのである。午前中から夜まで続いたその大長編劇の前半では、私は休むことなく仕事をしていた。後半では受験生となって、大学入試を受けていた。つまり、まるで気の休まらない夢だったのだ。おまけに腹痛は夢の中まで容赦なく追いかけてくる。
 この苦行のような夢全般については、あまり語る言葉を持たない(今思い出してちょっと面白いと思うのは、入試に出てきた「ニーチェは一輪車をハンドルがないゆえに賞賛し、逆に二輪の自転車を非難した。ニーチェの理想とする自転車を図示せよ」という問題くらいである)。これから語ろうと思うのは、その夢の中の、ほんのささやかな幕間劇にあたる部分である。


 翌日の仕事に着てゆくYシャツがないので、私は5年ほど前まで住んでいたアパートを訪てみることにした。もしかして一着くらいは、そこに置き忘れているかも知れないと思ったのである。
 R**荘は、東京はS区のT界隈にある。古本屋街を左に折れ、だらだらと続く下り坂を途中まで下りて、さらに左の小路に入り込むと、そこに古い家屋の立ち並ぶ、昭和初期にタイムスリップしたような一角がある。そしてその入り口で、果たしてその古めかしい木造のアパートが、5年前と変わらぬ姿のまま門を構えていたのである。
 アパートの前で、初老の男が箒をかけている。大家だ。私は、彼に不審がられるのではないかと一瞬警戒したが、大家は私をじろりと一瞥すると、「どうも」と言って、再び箒をかけ始めた。つまりは5年前と変わらぬ、いつもの大家である。
 私は目礼をして彼の脇をすりぬけ、風呂屋のような瓦葺の庇が張り出した、これまた風呂屋のように間口の広い共同玄関に上がりこんだ。靴の脱ぎ方にうるさい住人がいたことを思い出して、土間の隅っこに丁寧に靴を置くと、ひんやりとした板張りの廊下の突き当たりにある階段をそろそろと上る。あたりはしんとして人の気配がない。このアパートは、外見は2階建ての長屋だが、戦災を逃れた大正時代の木造建築の生き残りである。元は旅館だったらしいと聞く。だから、現代のせせこましい建築とは違い、廊下や階段の幅が広く、どっしりとしている。ところが戦後も建て増しに建て増しを重ねた結果、この建造物の内部は、まるで迷宮のように入り組んだものになってしまった。私は4年の間そこに暮らしていながら、ついにその全体像をつかむことができなかったのである。
 例えば、共同便所の隣のいつもは南京錠がかかっている木戸が、時々小さく開いていることがあった。私はある日、好奇心に駆られてそこを覗きこんだ。昼間だというのに、扉の中は日が暮れた後のように薄暗かった。それでも黒光りする廊下が、建物の最深部に向かって、真っ直ぐに伸びているのが見えた。私はなぜともなしに息を潜め、足音を忍ばせて奥へと進んで行った。するとその曲がった先に、何十畳もあるような座敷が忽然と現れた。無人の座敷は闇に閉ざされ、湿った黴の臭いを漂わせて沈黙していた。恐らく何十年も使われていないのだろう。だがなぜか、灯明が一本だけ灯り、床の間のあたりをぼんやりと照らしていたのである。黄ばんだ掛け軸の下半分だけが闇の中に浮き上がり、斜めに羽を広げた大きなアゲハチョウが、荒い筆致の墨で描かれているのが見えた。
 その座敷の奥にも、いくつか広間が続いているようだったが、私は、闇に浮かぶアゲハチョウの絵を見ているうちに、急に恐ろしいような居たたまれないような気持ちに襲われて踵を返した。そして戸口の外の真昼の世界に急いで引き返すと、素潜りをしていた潜水夫のように、大きく深呼吸をしたのだった。
 またある時は、家賃を納めに、大家の居住する中二階とも離れともつかない曖昧な場所に行く途中、いくつか曲がる場所を間違ってしまい、蔵の中のような、がらんとした空間に出てしまったこともある。十メートル四方はありそうな、その暗い部屋の中は空っぽだった。上を見上げれば、そこには天井がなく、黒くて太い梁が縦横に走って、高い三角屋根を支えていた。そこから昔の商店の屋号らしきものが大書きされた、青や赤の縦幕がいくつも下がり、高いところから差し込む幾筋かの光の束の中で、ゆらゆらと音もなく揺れていた。
 さて、私のかつて住んでいた部屋は、階段を上がって手前に折れ、廊下が十字に交錯している場所の、左奥の角の六畳間である。昔の下宿屋のままに、部屋と廊下は襖で仕切られているばかりなので、誰でも開けて入ることができる。私はかつてのように、何の遠慮もなく襖を開けた。すると驚いたことに、部屋は昔私が暮らしていた当時の姿のまま、そこにあったのである。
 古道具屋で手に入れた、黒塗りの塗料が剥げかけた座り机も、安っぽいピンクの布団を被せた小さなコタツも、質素な木製の本棚もそのままである。床に投げ出されている本の山といい、コタツの台の上の、飲みかけの安ウイスキーの瓶といい、5年前の私が、今しがた、どこかに買い物に出たばかりという感じの乱れ方である。
 驚き呆れながら部屋の中を見回していると、もう一つ、不思議なことに気がついた。廊下と反対側の壁には、たしか以前は何もなかったはずなのに、そこにいつの間にか襖戸がついていたのだ。押入れか何かと思って開けてみると、その奥にもまた部屋があった。
 西日がカーテンを透かして、その六畳間全体を緑色に染めていた。そこの壁際にも質素な座り机と本棚が並んでいて、明らかに誰かが生活している気配がある。しかし、その部屋に踏み込んで、あれこれと眺め回しているうちに、不思議な既視感が沸き起こってきた。これらの見知らぬ調度も、見知らぬ本たちも、たしかに私のものであるような気がしてきたのである。空色のペンキが塗られた、中学生の木工細工のような低い本棚も、壁にかけてあるクレーの複製画も、座椅子に乗っている色あせた座布団も、机に乗っている丸くて赤い置時計も、古本屋のワゴンで買い集めたのと思しき、黒ずんだ「世界文学全集」の列も、深い森の底を思わせる緑の光を浴びながら、この私をずっと待っていたのではないかと思われた。私は物思いに沈んだ。私はどれだけ長い間、この小さな王国を忘れ果てていたのだろうか。
「ちょっとHさん!」
 振り向くと、廊下と部屋の境目に、大家の奥さんが腕を組んで立っていた。私がへどもどと挨拶をしようとするのを無視して、彼女はさらに続けた。
「困ってたんですよ。部屋を出たまんま、ちっとも荷物を片付けに来ないんですから。おかげで次の人を入れようにも入れられやしないじゃないですか」
「この部屋は?」
「ああ、この部屋の人もね、あなたが入ってくるずっと前に出ていったっきりなんですよ。全く迷惑だったらありゃしない」
 私は決心をつけた。
「あの、これだけ迷惑をおかけしながら、何なんですが…」
「何ですか?」
「また、ここに住まわせてはもらえないでしょうか」
 何、クーラーがなかろうが、風呂がなかろうが、水道とトイレが共同だろうがかまうものか。私はここに戻ろう。この荒廃と安らぎが相半ばする我が故郷に。


 …こうした夢から目覚める瞬間には、必ず位置感覚の混乱が伴う。私は最初、自分がどこにいるのかさっぱりわからない。枕の上で首を回し、ぼんやりと部屋の中を見渡す。襖があるべきところに窓がある。いや、ここはR**荘ではないのだ。だとしたら、ここはどこだろう。今、部屋の外の階段を駆け下りている足音は、洗濯物を下ろしている母のもの? いや、知らぬ人だ。
 こうして私は、眩暈を誘うトポロジカルな激変を何度か通過しながら、徐々に、視界の外にある空間の広がりと、自分の歴史のつながりを再構築してゆくのである。そしてやっと、ここがすでに5年の月日を過ごしているS市のアパートであることを思い出す。さらに驚きの事実が私を襲う。私はかつて、R**荘なるアパートに住んだことはおろか、その前を通り過ぎたことすらないのだ。R**荘はこの世に存在しないのである。
 確かに私は以前、S区のT界隈の古い木造アパートに住んでいたことはある。しかし、そのアパートは夢の中に出てきた場所とは駅を挟んで反対側だし、あれほど入り組んだ迷宮のような建物でもなかった。私は黒い座り机も、ピンクの布団を被せたコタツも持ったことはない。あの界隈に、戦災を逃れた一角などは存在しない。あそこには、以前私が勤めていた会社の事務所があったのだ。眩暈に似た喪失感が雪崩のように襲ってくる。同時に雪崩のような下痢。私はトイレに駆け込む。
 ひとごこちついて、ベッドに再び横になりながら、ぼんやりした頭で思い出す。いや、私は確かにあの迷宮めいた心地よい場所に、何度となく行ったことがあるのだ。夢の中でのことではあるが。私は、いくつかそういう秘密の場所を持っているのである。私は戯れに、それらを結び付けて、私の夢の世界の地図を引いてみようと試みる。まあこういう退廃も、病気中なら許されるだろうと思いながら。
  
  
  2006年11月15日水曜日午後5時32分、目白台
 
 
 夜、饂飩をすすっていると、ピンポンと玄関のベルが鳴った。
 物売りにしては非常識な時間帯だったので、さては大家のじいさん、また何か文句をつけに来たなと身構えてドアを開けると、そこに銀色の四角いロボットが立っていた。
 ロボットは、丸い目玉をチカチカと点滅させ、手錠のような二本指をカチカチと鳴らしながら、挨拶もなしにこう言った。

「心セヨ ・ ガガッ ・ 時ハ既ニ満チタリ ・ ガガッ ・ 米味噌醤油ヲ絶ヤスナ ・ ガガッ」

 私は何とも答えようがなかったので、ロボットの頭の上で渦巻き型のアンテナがくるくる回転しているのを黙って見つめていた。するとロボットは、ふいにくるりと私に背を向け、ガシャガシャと歩み去りかけた。
 私は特にかける言葉もなかったが、何とはなしに、ロボットの背中を二、三度叩いてやった。堅牢なボディの中に、機械類がぎっしり詰まっているのかと思いきや、空のブリキ缶を叩いたような、妙にうつろな音が響いた。私は訳もなくどぎまぎして手を引っ込めた。
 ロボットは振り向いて、飛び出た目玉をまた点滅させた。

「涙ヲ流ス者 ・ ヲ ・ 探セ」

 四角い格子状のスピーカーから最後の音節が流れ出ると、目玉のランプがすーっと光を失った。ロボットは再びきびすを返し、ガチャンガチャンと重たげな足音を立てて、夜の闇の向こうに消えていった。


  2006年11月15日水曜日午後5時27分、目白台
 
 
  2006年11月17日金曜日午後2時50分、港北区


         花々が、秘かにオウム貝との婚約を夢見たことがない、などと
         一体だれに断言できるというのか。
 
 
  2006年11月15日日曜日午後12時00分、アパート付近


      男は、これじゃあとても12時5分の電車に間にあいっこないな、と思い、
      世界を滅ぼすことをあきらめた。
 
 怪物は、またひとしきり耳障りな馬鹿笑いをした後、こう続けた。
「だがわしにも情けはあるぞ。そちの趣向に付き合うのも、ひとときの退屈しのぎにはなろうて。さればこそ、わしもこのようにめかしこんできたのじゃ。さあ、早く案内せい。わしは待たされるのを好まぬ。もたもたしておると、今ここで食ろうてやるぞ」
 花嫁は、怪物に向かってぺこりと頭を下げると、こわごわ遠巻きに見守っている親族達に笑顔を向けた。
「さあさあ、みんな中に入ってください。ほら、叔父さんは叔母さんを起こしてあげて。腰を抜かしてしまってるじゃありませんか。武雄もぼっとしてないで手伝うの。お母さんも早く早く。あ、お父さんはここに残ってください。あとよっちゃんとめぐもね。二人には入場のお手伝いをしてほしいの。花屋さん、私にブーケを下さいな、さあ、楽隊の皆さんもしゃんとしてください。トランペットの音がぶるぶるふるえていたら、せっかくの式が台無しよ。」
 花嫁は、皆を励ますように、てきぱきと指示を与えた後、怪物に向き直った。
「あなたには、神父さんといっしょに先に入場していただきます。でも、どうかみんなを怖がらせないでください。お願いします」
 怪物は、にやにやと笑いながら花嫁を眺めていたが、「よし」と一声言うと、鉤爪の生えた両の手を胸の前でがちがちと組みあわせ、なにやら複雑な印のようなものを結んだ。すると皆の耳がきんと鳴って、あたりが一瞬さっと暗くなった。再び景色が明るくなると、そこには見上げるような怪物の姿はなく、かわって長身の男がすっくと立っていた。
「これでよかろう」
 男が言った。黒のタキシードに包まれ、あごひげを生やしたその壮年の男は、一昔前の紳士然とした風貌をしていたが、痩躯にみなぎる精悍な力と、その表情に表れた倣岸さは、まさしく怪物のそれと知れた。そしてその胸元では、相変わらず大きな鬼百合の花が、笑うように身を揺らしながら、毒々しい赤色に輝いているのだった。
 
 昼寝中に見た夢。

 何冊か本を買って帰宅すると、母親が待ち構えていた。
 早速買い物袋の中を見せろと迫られる。私は先日の離婚騒ぎ以来、母の信頼をまるで失っており(あくまで夢の中での話です。念のため)、それから彼女は私の生活態度のこまごまとした部分にまで執拗な監視の目を光らせてくるようになったのである。
 私が半ば冗談、半ばヤケ気味に、エロ本が入っているから見せられぬと答えたのも全く耳に入らないかのように、母は私の手から素早く紙袋を引ったくると、中身をばさばさと床の上にあけてしまい、一冊一冊手にとっては、「これは何?」「これは何なの?」と聞いてくる。
 私は適当に返答しながら縁側の外を見やる。庭先から、奥へ奥へと連なってゆく小高い山々がよく見える。そういえば、ここは山のてっぺんだったのだ。遅い春の季節と見えて、庭も山々も、どぎついまでに明るい緑色に染まっていた。しかし大気は重く湿り気をおび、妙に黄ばんだ陽光が、今にもにわか雨がやって来そうだと告げている。
 案の定、庭の左手に生い茂っている葉桜の陰から、真っ黒な雨雲がもうもうと立ち上がってきた。谷底から、桜の木の生い茂る斜面を這い上がってきた黒雲は、林と庭の境界線あたりで無数のちいさなちぎれ雲に分かれて、庭を次々と通り過ぎてゆく。一抱えくらいの小さなものから、自動車くらいのものまで、まちまちな大きさの真っ黒な綿埃のような雲が、ちょうど私の目の高さあたりでふわふわと漂いながら、左から右へと通り過ぎてゆくのである。私は山の上だからこういうことも起こるのだろうと納得している。
 と、人が歩くほどの速さでしずしずと行進してくる大小の雲にまぎれて、白い大きな瓶がひとつ、宙に浮かんでこちらに漂ってくるではないか。斜めに浮かんだ細長い白磁の瓶の口には、一枝の満開の桜が差されている。いくら山の上でも、こういう不思議はそうそう起こらないだろうと思って、私は母に声をかけた。
「ほら母さん、大きな瓶が流れていきますよ」
 しかし母親は、本にはさんであったレシートを調べるのに余念がない。そこに書かれている本の題名を、ぶつぶつと呪文のように唱えている。瓶は私のすぐ目の前をゆっくりと通り過ぎてゆく。すぼまった瓶の口から奇妙に折れ曲った枝が突き出し、そこにびっしりと咲き誇っている小さな花々は、桜というよりもバーミリオンに近い鮮やかな色をしている。
 墨汁をたらしたような雲の行列の中で、そこだけ誰に捧げられるとも知れない艶やかな祝祭の空気に包まれて、瓶は庭に繁る雑草の上にくっきりと丸い影を落としながら、段々と遠ざかってゆき、やがて私の視界を限っている、藪とも雑木林ともつかぬ曖昧な黄緑の景色の彼方に消えた。

 私は目覚めると、何かもやもやとした不安が襲ってきそうなのを振り払うようにして外に出た。冷気が顔を打つ。なんだ、もう冬じゃないかと思う。



2006年11月13日月曜日午前11時10分、アパート前
 
 花嫁の前で、牛を一飲みにするような大口が再び開いて、地獄の釜が沸騰したような笑い声が爆発した。それでも奇妙に離れ離れになった二つの緑色の目は少しも笑っておらず、眼前の生け贄が今にも泣き出すか、悲鳴をあげるかと、底なしに冷たく意地の悪い視線を、じっと花嫁に注ぎつづけた。
 花嫁は、おっとりとした外見とは裏腹に、たいそう気丈な娘だったが、せっかく今日この日のため、あれやこれやと手間ひまかけて吟味したウエディングドレス姿が、礼儀知らずの花婿によって無残にも宙吊りにされたままなのに、だんだんとやるせない気持ちが募ってきた。遠慮なく浴びせられる、ゴムが焼けたような異臭が混じる熱風にも閉口した。そこで娘は怪物の顔に向かって身を乗り出し、根元に木のうろのような穴が二つあいた鼻の頭にそっと手を置いた。新郎は思わず笑い声を止めた。娘は、目の前いっぱいに拡がっている怪物の顔の、眉間のあたりを見据えながら言った。
「ならば、私の命も明日か明後日までとなりましょう。もとより覚悟の上でございます。だからこそ、せめて皆様への最後のお別れは、美しく、華やかに行いたいのです。どうぞ哀れとお思いになって、少しの間だけ、お付き合いください」
 怪物は、しばし彫像のように動きを止めて黙っていた。それでも、その真っ黒な体と魂の中を、様々な邪悪な打算が嵐のようにめまぐるしく入り乱れていることは、誰の目にも明らかだった。やがて、憎悪と憤怒が静かな悪意と冷笑に席を譲った。怪物は、ふと体の力を抜いて娘を地面におろすと、どうやら猫なで声のつもりらしい、紙やすりをこすり合わせたような、ざらざらとした声でこう言った。
「あわれよのう、そちら朝に生まれ、昼にまぐわいて子をなしたかと思えば、夕べにたちまち老い腐れて死んで行く泡のような身の上は。婚礼の儀など、いかにもそちらが好みそうなたわけた茶番じゃわい。おお、ひと臭い、ひと臭いのう」
 
 
  2006年10月26日木曜日午後8時10分、東京都町田

 
 紫色のキリンに救われたい、だなんて、あんたちょっと虫が良すぎねえか、と声を荒げ、
 その若い牛丼屋の店員は、カウンターごしに私を睨みつけた。
 
 怪物の一言は、モーゼの杖の一振りのごとく、人の波を真っ二つに割った。その向こうに小柄な花嫁の姿があった。花嫁は、小さいがよく透る声で応えた。
「ここにおります」
 花嫁の口がまだ閉じるか閉じないかのうちに、人々の間を黒い稲妻が走り抜けたかと思うと、もう怪物は、花嫁の鼻先で、巨大な壁となって立ちふさがっていた。花嫁は、急に目の前が真っ暗になったので、まぶたをぱちくりさせた。すると不意に体が宙に浮いて、上から燐光を放つ二つの目玉が降ってきた。怪物は花嫁をひょいと片手に掴んで、間近に引き寄せたのである。怪物は、品物を吟味する商人のような手つきで、新婦の体をためすがめつし始めた。花嫁は、桜の木のように堅くてこぶだらけの手の中で前後左右上下に転がされながらも、サファイアのような冷たい光を放つ怪物の両の目の中に、鉱物性の悪意がだんだんとせりあがってきて、緑色の妖しい輝きに変わるのを見てとった。
 と、その目のすぐ下で、暗闇が横一文字に裂け、そこから更に暗く禍禍しい闇が現れた。怪物が、やにわに鱶のような大口を開いたのだ。その底知れぬ奥から、髪を焦がすような熱風が押し寄せてきて、花嫁の顔をまともに打った。同時に、じゅうじゅうという鉛が煮えたぎるような騒音が沸き起こった。一同はあわや花嫁が一飲みにされるかと息を呑んだが、娘は、その耳障りなざわめきが、どうやら化け物の笑い声らしいと気がついた。怪物の胸元では、鬼百合の花が、その身の毛もよだつ高笑いに合わせて、花びらを震わせながら、まだらに妖しく瞬いていた。花嫁は、有毒の呼気に思わず顔をそむけながらも尋ねた。
「何をお笑いなさります」
 怪物は笑い止めると、すっと目を細め、低く応えた。
「なに、そちが幾晩もつかと心配での」
「わしは毎年嫁を迎えるが、わしの夜伽の相手に、三晩と耐えた女子はおらんのじゃ。わしはせんかたなく、ぼろくずと成り果てた嫁を食らうことにしておるが、その趣向を毎度考えるのがまたひと苦労での。生で食らうのも、煮るのも焼くのも、干物にするのも飽きたわい」