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『津軽』 太宰治 新潮文庫 平成元年改版

 この絵に描いたようなハッピーエンドこそ、太宰の力の源であり、同時に弱さなのだろう。
 旅とはまず、土地や事物や人物を隔てる諸々の距離、想念と現実を隔てる距離、どこまでも物質的で残酷な、充ちた徒労感で埋められる距離のことであるはずなのに、「津軽」では、最後の最後に至って、これまでの全行程が嘘のように消えうせてしまう。距離の甘美なる廃棄。自らのルーツとの、嘘のような合一。これは旅行記として始まり、口づけにきわめて近い何かとなって終わる。
 これでいいのか。よくわからぬ。たぶんこれでいいんだろう。

 05/01/27


『女生徒』 太宰治 角川文庫 昭和59年改版
 
 女性の一人称で書かれた短編を集めたもの。
 「女生徒」も「燈籠」も「葉桜と魔笛」も好きだけど、一番は「饗応夫人」。これは図抜けている。
 心理の美ではなく――心理など、所詮理解だの共感だのの対象に過ぎぬ――行為の美。唯物論的な鑿で彫刻された人物の美。太宰のいつもの饒舌な自己憐憫がない。これはハードボイルドなのである。
 「燈籠」のクライマックスが、少女が盗みを犯した後の独白であるのに対して、「饗応夫人」は行為そのものを描く。
 「奥さま」は、何も言わずに切符を「そっと引き裂い」て、自らの退路を絶つ。たった一つのつつましい身振りで、破滅に向かって身を投じる犯罪映画のヒロインのように。
 行為は理解も共感も呼ばない。そんな水っぽいものではない。
 それは憧憬を、予感を呼ぶ。

 05/01/29


『人間失格』 太宰治 新潮文庫 昭和42年改版

 奥野とかいう馬鹿者の巻末解説を、イライラしながら読み終えたところ。
 「太宰に対しては全肯定か全否定しか許されない」だと?
 「太宰治は『人間失格』一編を書くために生まれて来た文学者」だと?
 何て恥知らずで愚鈍な言葉の群であろうか。
 太宰が生きていたら、さぞやきまり悪げに顔を背けたのではないかと思う。
 何だか今、小説なんて、かなりいいかげんなものなんじゃないかという気がしてきた。
 ちょっと長い戯れ歌なのだ。夏目もドストも太宰も。もちろん、放言である。いま少し、酔っ払っています。
 言いたいのは、小説は生き物であって、神様ではないということだ。
 太宰は、その死は神格化しちゃいけない。
 同時に、作中の女性たちのように、グダグダに同情するのも違う。
 そうした態度へのウンザリ感こそが、太宰の小説のモチーフなんだし。
 馬鹿な友達が一人いる。しょうもないやつだが放っておけない。
 多分、これが太宰に対する付き合い方なのではないかと思う。

 05/01/31


『グット・バイ』 太宰治 新潮文庫 平成元年改版

 表題作が未完なのが、あまりに惜しい。すごく面白くなりそうなのに。
 「饗応夫人」「男女同権」などを読むにつけても、太宰の死は惜しいと思う。
 必然の死などそうそうあるものではなく、結果としての人の死は、自殺であろうと他殺であろうと、本質的には不幸な偶発事か、理不尽な暴力によってもたらされるのではないか。
 もちろん、死への意志は一つの必然でありうるが、それと結果としての死とは、実は何の関係もない出来事なのではないか。

 05/02/27


『太宰治全集 6』  ちくま文庫 1989年

 『右大臣実朝』『新釈諸国噺』等。
 『右大臣実朝』について 。

 アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。

 こう述べる実朝の「アカルサ」とコントラストをなしている「暗さ」は、実朝を暗殺する公暁の芝居がかった堕落ではなく(あの蟹の場面の半ば通俗に足を踏み入れた鮮やかさ!)、相州のいくぶんくすんだ影に他ならない。
 存在の耐えられない醜悪さ、というものを、話者はこの生真面目な実務家の横顔に、これ以上ないほど簡潔に、容赦なく、提示して見せる。
 意味や心情としての悪や堕落(公暁の人物像は、この範疇を出ない)ではなく、ただ物質的に、打ち消しようも、遁れようもなく存在している、唯物論的な醜悪さ。
 アカルサは、暗さによって滅ぼされるのではなく、自らのアカルサによって滅ぶのであって、相州の暗さは、本質的にはその劇に交わることがない。ただそれは、鼻先にゴロンと異物として存在しているだけなのだ。これは、鴨長明のどこまでも不透明な人物像にも当てはまる。どこまでも透明であろうとする読者の視線をさえぎる影としてのコトバ。「知」ではなく、「知られ得ないもの」の周囲をなでさすり、その感触を生きるコトバ。
 この異物感こそ、おそらく文学のふるさとなのだろうかと、ふと思う。
 郷愁を拒む、荒荒しいふるさと。
 たぶん、『斜陽』に何度となく出現する蛇も、こうした領域に住んでいるのだろう。

 05/03/07


『太宰治全集 2』 ちくま文庫 1988年

 「創世記」から『愛と美について』まで。
 感想のかわりに幾つかの引用。

 むりもないことだ、なぞと理解せず、なぜ単純に憎むことができないのか。
 「姥捨て」より

 「ひとことでも、ものを言えば、それだけ、みんなを苦しめるような気がして、むだに、くるしめるような気がして、いっそ、だまって微笑んで居れば、いいのだろうけれど、僕は作家なのだから、何か、ものを言わなければ暮らしてゆけない作家なのだから、ずいぶん、骨が折れます。僕には、花一輪をさえ、ほどよく愛することができません。ほのかな匂いを愛ずるだけでは、とても、がまんができません。突風の如く手折って、掌にのせて、花びらむしって、それから、もみくちゃにして、たまらなくなって泣いて、唇のあいだに押し込んで、ぐちゃぐちゃに噛んで、吐き出して、下駄でもって踏みにじって、それから、自分で自分をもて余します。自分を殺したく思います。僕は、人間でないのかも知れない。(…)」
 「秋風記」より

 彼は、そのような状態に墜ちても、なお、なにかの「ため」を捨て切れなかった。
 「花燭」より

 「(…)真理は、感ずるものじゃない。真理は、表現するものだ。(…)」
 「火の鳥」より

 好きな文を打ち込むのは精神衛生によい。

 2005/06/24


『太宰治全集 3』  ちくま文庫 1988年

 ここに収められている25篇の短編の中に、かの有名な「走れメロス」が入っている。
 この作品といい、『人間失格』といい、世間は、太宰のきらびやかな作品群の中で、何故ことさらに出来の悪いものだけを選んで崇め奉るのだろうか?
 理解に苦しむ。
 これは何かの陰謀に違いない。

 2006/01/29


『太宰治全集 4』 ちくま文庫 1988年
 
 長編『新ハムレット』他、「ろまん燈籠」「東京八景」等、短編12編。
 太宰の最初の書き下ろし長編が、シェイクスピアの翻案物だというのはちょっと面白い。
 しかも巻末の解題の資料によれば、この作品にかける太宰の意気込みは並々ならぬものだったらしい。
 これから、久々にオリジナルの『ハムレット』を読み返し、ついでに積読になっている大岡昇平の『ハムレット日記』なぞも読んでから、この作品をもう一度読でみるつもり。
 とりあえず、面白かったハムレットの台詞より。

「(…)どだい僕には、どんな人が偉いんだか、どんな人が悪いんだかその区別さえ、はっきりしない。淋しい顔をしている人が、なんだか偉そうに見えて仕様が無い。ああ、可哀想だ。人間が可哀想だ。僕も、ホレーショーも可哀想。ポローニヤスも、オフィリヤも、叔父さんもお母さんも、みんな、みんな可哀想だ。僕には、昔から、軽蔑感も憎悪も、怒りも嫉妬も何も無かった。人の真似をして、憎むの軽蔑するのと騒ぎ立てていただけなんだ。実感としては、何もわからない。人を憎むとは、どういう気持のものか、人を軽蔑する、嫉妬するとは、どんな感じか、何もわからない。ただ一つ、僕が実感として、此の胸が浪打つほどによくわかる情緒は、おう可哀想という思いだけだ。僕は、この感情一つだけで、二十三年間を生きて来たんだ。他には何もわからない。(…)」(青空文庫よりコピー)

 これでいいのかハムレット(笑)

 2006/03/02
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