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『神秘の島』(上)(下)
J・ベルヌ 作 清水正和 訳 福音館書店 1978年


  読書の快楽というものには、大雑把にいって二種類あるように思う。 
  一つは続きが知りたくて知りたくて、急き立てられるように頁をめくる読書である。
  もう一つは逆に、惜しむように文字の連なりを追いながら、どうかこの時間が永遠に続きますように、この物語に終わりが来ませんようにと、願わずにいられない読書である。
  前者は未来に引っ張られ、後者は現在に釘付けにされる。もっとも、現在というものが既に未来を含んでおり、未来がきたるべき現在に他ならないのと同様に(そうでなければ時間は流れないだろう)、この二つの快楽は、必ず交じり合った形で存在していて、完全にどちらか一方ということはありえない。
  それでも私は、昨日の遅い午後、窓の外で降りしきる霧雨に目をやりながら、思わず呪わずにはいられなかったのだ。もうすぐ『神秘の島』の最終頁に行きついてしまうことを。「物語」にはすべからく「終わり」があるということを。これはあまりに理不尽な仕打ちではないか?
  『神秘の島』の物語は、至って簡単に要約できる。南北戦争時代、気球に乗って太平洋上の名もない孤島に漂着した五人の男と一匹の犬が、知力と意志だけを武器に、力を合わせてその島を開拓し、ついには理想郷とさえいえる土地を作り出す。しかし島は、急激に活発になった火山活動の末、跡形もなく爆発してしまう。男たちは九死に一生を得て、アメリカに帰還する。

  彼らを最初におそった感情は、深い悲しみだった。直接身にふりかかる危険については、ふしぎに考えなかった。彼らが住みついたこの土地、豊かにしてきたこの島、心から愛し、いつかもっと繁栄させようと夢見ていたこの島が破壊されてしまうことの沈痛な思いだった。汗水たらしたのはすべて無駄骨だったのか! あの仕事、この仕事、すべてが無に帰してしまうのか!
  ペンクロフはあふれる涙をおさえることができなかった。頬を流れるのをぬぐおうともしなかった (下巻435頁)


  男たちによって「リンカーン島」と名づけられたこの楽園の、無残な行く末を知らされたとき、無学で人の良い水夫が流した涙は、そのまま、あと二十数ページを残すばかりとなった、この書物の読者の流す涙ではないのか。
  ベルヌが、「物語は必ず終わるものである」という残酷な命題を、常に強く意識してきた作家であったことは、既に何度か述べてきた。『気球に乗って五週間』でも、『海底二万里』でも、『月世界へ行く』でも、『地底旅行』でも、未知の世界に旅立った探検者たちは、最後に決まって住みなれた現実世界への帰還を余儀なくされる。しかし、この「失楽園」とも「失物語」ともいえるテーマは、本書において、とりわけ悲痛なトーンを帯びるのだ。
  この書物の前半は、一つの創生神話とでもいうべき、無垢で力強いイメージに貫かれている。島に漂着した男たちは、まずはとにかく食べるのだ。岩にはりついている二枚貝を食べ、海に注ぎ込む川の水を飲み、岩バトの卵を食べ、小鳥を食べ、大雷鳥を食べ、海草を食べ、松の実を食べ、ウサギを食べ、サトイモを食べ、牡蠣を食べ、竜血樹の根を食べ(どんなものかよくわからないけど、おいしいらしいです)、カンガルーも食べる。私はこの本を読みながら、しばしば強い空腹感に襲われたものである。
  さらに男たちは火を起こす。太陽を観測して緯度と経度を割り出す。島の地図を作り、川や山や森に名前を付ける。レンガを焼き、かまどを作り、陶器を焼き、溶鉱炉で製鉄をし、道具を作りだす。火薬で大地を穿って新しい川を流れさせ、岸壁の洞窟に快適な住まいを作る。猟をし、牧場と畑を拓き、橋をかけ、風車を建て、船を建造し、未踏の森の中に道を切り開く。羊の毛から衣服を作る。ついでにタバコも作ってしまう。
  永遠に続け、と私は思う。この幸福感は何だろう、とも思う。いわゆる「人間ドラマ」に類する要素は皆無に近く、登場人物を結びつける友情は、全編を通して一度も揺らぐことがない。彼らは葛藤も軋轢もなく、嬉々として目の前の困難に立ち向かうのみである。つまり彼らには「キャラクター」は存在しても、ちまちました近代的自我だの心理だのの持ち合わせはないのだ。一同のリーダーである技師のサイラス・スミスは、超人的な知力と意志の持ち主である。参謀役の新聞記者、スピレットもまた知性と豪胆さを兼ね備えた人物である。水夫のペンクロフトは陽気な働き者。黒人の召使であるナブはひょうきんだが機転が利き、スミスへの忠誠心はどこまでも深い。ハーバートはひたすら利発で明るい少年、といったぐあいである。 これは猟犬のトップが主人のサイラスに忠実であるのと、本質的に何の違いもない。
  ここには、古代の英雄譚の香りすら漂ってはいまいか。あるいは、近代性そのものの中に、こうしたアルカイズムが潜んでいるのかもしれない(この簡素な美しさは、二十世紀の巨匠であるハワード・ホークスの映画群と、遥かに通低しているように思われる)。ここでの「人間」は、例えば梃子のような力学的支点であって、そこを様々な非=人間的な原初の緒力が稲妻のように駆け抜けるのだ。すなわち大地の力、火の力、水の力、風の力である。私は喝采を叫ぶ。想像の中で木こりになる、鍛冶屋になる、大工になる、水夫になる、大地の底に降りて行く。ウサギの肉で作ったハムにかぶりつく。この書物は極めて健康に良いのだ。何より「人間」という容易に癒しがたい病への解毒剤として有効である。
  このように、男たちの楽園を、幾度かの四季がメリーゴーランドのように経めぐってゆく。ここでは冬の厳しさすら一つの幸福である。堅牢な岩盤に穿たれた洞窟の住居は、雪まじりの嵐も、とどろく高波もものともしない。

  七月じゅう寒さはきびしかったが (引用者注:リンカーン島は南半球にあるので、七月は冬である) 、たきぎも石炭もふんだんにあった。サイラス・スミスは広間にもう一つ暖炉をつくり、みんなは長い冬の夜をそこで過ごした。仕事をしながらのおしゃべり、手がすいたときには読書と、時間が有益に過ぎて行った。おいしい夕食のあと、ローソクに明るく照らされ暖炉であたたまった広間で、湯気の立つニワトコの実のコーヒーをすすり、片手に香りのよいパイプをくゆらしながら、戸外の嵐のうなりをきいているときなど、みんなのこのうえない楽しいひとときだった。もし幸福というものが、同胞から遠く離れ、なんの連絡もとれない人びとにもあるとすれば、彼らはまさしく満ちたりた幸福を味わっていたと言えよう。 (下巻9頁)

  親密な人や物と共に、小さくて安全な空間に閉じこもる快楽を、ベルヌは繰り返し描いてきた。男たちが「グラニッド・ハウス」と呼ぶ、このほの暗い小宇宙も、ノーチラス号や、月に向かう砲弾や、気球に吊るされたゆりかごのようなゴンドラの系列に連なっていることはいうまでもない。その外が雪嵐だろうと、光もささぬ深海だろうと、真空の宇宙空間だろうと、それらの脅威は、鉄や岩でできた堅固な壁の内側にいる者たちの安らぎと静かな喜悦を、かえっていや増しにするものなのだ。
  この快楽を、読書の快楽と重ね合わせることは、あまりに性急に過ぎるだろうか。それでも、一つのことは言えるように思う。『神秘の島』の登場人物たちを脅かす一つの影と、『神秘の島』を読む者に鈍い悲しみの予感を抱かせる影は、同じ一つの人物に集約されているのだと。この人物は、四季と共にゆっくりと循環する、終わりなき楽園の「現在」に、ぬぐうことのできぬ染みのような瑕疵を、点々とつけて回るのだ。刻まれた各々の徴は、いずれもこう告げているようである。「時間は『未来』に流れる。物事には『終わり』がある」
  「脅かす」という表現は、あるいは適当ではないのかも知れない。なぜなら「神秘の人」とも「島の守護神」とも呼ばれるその人物は、主人公達が危機に陥ると、すぐさま救いの手を差し伸べる、救世主のような存在だからだ。「神秘の人」は、姿を一切見せないまま、一行の生命を救ったり、貴重な援助を与えたりするのである。最初はごくおぼろげな気配でしかなかったその人物は、次第にその存在感と難船者たちへの干渉の度を強めて行き、ついに彼らは、自分達の行動が逐一、全能に近い未知の存在に見守られていることを確信するに至る。だが、彼らがその人物に抱く感謝や畏怖の念には、つねにいくばくかの苛立ちがつきまとうのだ。

「さがそう、その方を!」ペンクロフがさけんだ。
「もちろんさがす」サイラスが答えた。「だが、このような奇蹟をやりとげるその神秘な人物は、その方のほうからわれわれに会う気にならないかぎり、われわれには見つけられそうにはないな!」
  彼ら自身の活躍の場を取り去ってしまう、目に見えない援助に、技師は感動すると同時に苛立っていた。保護されていることが、かえって従属させられているみたいで、自尊心を傷つけられた思いだった。こちらの感謝の気持ちをうけとるのを、あくまで避けようとする寛大な心づかいは、むしろ恩をうけた者を見くだしている態度とも感じられた。そして、せっかくの善行なのに、その価値をあるていど減じているようにサイラスの目に映った。
「さがすのだ」かれはつづけた。「この尊大な守護者に、われわれが恩知らずでないことを示す日の到来を神に祈ろう!われわれの生命をかけても、その人に恩返しをするのだ!」 (下巻339-340頁)


  読者は、「神秘の人」の気配が最初に訪れた瞬間から、おそらくその正体が明かされる時がこの物語の終わりなのだろうと、漠然とではあれ、予感するのではないだろうか。島の生活を流れる南国的な、けだるくも輝かしい永遠の現在の時間の只中に、「神秘の人」は、北方的で父権的な、未来へと、終わりへと、矢のように突き進んで行く直線状の時間を吹き込む。救世主とは、物事を解決する人のことである。「神秘の人」は、主人公たちに道具や火薬を与える。海の上に漂う彼らの灯台となる。彼らに襲いかかる海賊を目にもとまらぬ早業で倒す。死に瀕した病人の枕もとに特効薬を置いて去る。つまり、解決するとは、時間を短縮すること、「終わらせる」ことなのだ。そして、その人物そのものが体現している「謎=神秘」も、解決されるためだけに、つまり物語に終わりをもたらすためだけに、存在しているのである。
  サイラスはそれを予感している。「神秘の人」こそが「物語」であり、同時にその「終わり」なのだと。だとすれば、その物語の登場人物でしかない彼らに何ができるだろう。また、われわれ読者に何ができるだろう。物語は終わる。幸福は終わる。サイラスの苛立ちには、ヴェルヌの諸作品の物語を貫くテーゼが、最も抜き差しならない形で現れているのではないか。彼は先に引用した個所のすぐあとでこう繰り返す。

「われわれは人間として、やれるかぎりのことはやろう……しかし、くりかえすが、われわれが会えるとしても、その人がそれを望むときだけだろう」

  そう、物語の終わりは、登場人物たちの思惑を離れたところで、常に残酷に訪れるのだ。「神秘の人」は、ある時、一方的に会見を申し出てくる。ついにその正体が明かされる。同時に島の火山活動が活発となり、ついに島は粉々に消し飛んでしまう。もちろん、これは偶然の一致などではない。「そうあらねばならぬのか? そうあらねばならぬ!」
  「神秘の人」の正体が明かされる場面には、何か妙な生々しさがある。感動というよりも、鈍い痛みに近い何かだ。地底の湖に浮かんでいる潜水艦の中に導かれたサイラスたちは、大広間の長椅子に、一人の死を前にした老人が横たわっているのを見出す。サイラスは声をかける。

「ネモ艦長、お呼びでしたか? ただいままいりました」

  ここでわれわれを捕らえる眩暈に似た感覚の説明として、『神秘の島』と『海底二万里』の作品世界が一つにつながっている、というのは誤りである。違うのだ。正確に言えば、サイラスは、『海底二万里』の「読者」だったのである。
  サイラスとネモ艦長の会話の中で、『海底二万里』は、ノーチラス号を辛くも脱出したアロナックス教授が書いた手記だという説明がされているが、そうしたつじつま合わせは重要ではない。『海底二万里』と『神秘の島』は、同一世界に並置されているのでも、それぞれ独立した作品なのでもない。二作品は複雑な入れ子構造を成しているのだ。物語の登場人物が読んだ物語の登場人物が、自らの尻尾を飲み込む蛇のように、自らの死と共に物語を終わらせようとしているのである。この宇宙大の破局が、死火山だったはずのフランクリン山をも爆発させたのだ。ネモ艦長の遺体はノーチラス号を棺として地下深く沈んで行く。同時に火山は噴煙と溶岩を溢れさせ、島と、そこにサイラスたちが築き上げた一切を破滅させてしまう。サイラスたちは船を建造して脱出を急ぐ。

「先生」数日後ナブがたずねた。「もしネモ艦長が生きていたとしても、こんなことになったでしょうか」
「なっていたよ、ナブ」サイラスは答えた。
「わたしはそうは思わないぞ」ペンクロフはナブの耳もとでささやいた。
「わたしもそうなんです」ナブはまじめな顔で答えた。 (下巻446-447頁)


  さて、最後に主人公達は、九死に一生を得てアメリカに帰還するのだが、そこにはもう一つの「物語」が絡んでいる。実は『神秘の島』には、ネモ艦長の他に、もう一人の異邦人がまぎれこんでいるのだ。それは、ヴェルヌの『グラント船長の子どもたち』の登場人物であるエアトンである。同作では悪役であり、孤島に置き去りにされたエアトンが、廃人同然の状態でサイラスらに救助され、徐々に人間性を取り戻して行く過程が、『神秘の島』の後半部分の一つの柱となっているのである。
  ネモ艦長が、死に向かって直進することによって「物語の終わり」を体現しているとすれば、この人物は、「帰還すること」によって、一連の冒険が円環となって閉じるという、これもまたヴェルヌの世界にはおなじみの「終わり」を担っているのだ。この円環状の時間と直線状の時間のはざまで、つかの間(とはいえ、作品の中では四年という月日が過ぎ去るのだが)この世の楽園が姿を見せ、そして永久に消え去ってしまう。
  しかし、リンカーン島は本当に永久に消え去ってしまったのか? 否、とヴェルヌは言っているようである。サイラスたちは、アメリカに帰りついた後、ネモ艦長から贈られた財宝で、「アイオワ州の広大な土地」を買い、そこにリンカーンの名を与え、森や山や川にも、かつて島でつけた名前を授けて、そこを開拓し、繁栄させるのである。
  この「ハッピーエンド」はどこか物悲しいが、その物悲しさは、「物語を読む」という行為について、何かを語ってはいないだろうか。
  つまり、われわれは読んだ物語を実際に生きることはできないが、それをいつでも反芻して生きる糧にできるのだし、それに何より、書物は何度でも読み返して楽しむことができるのだ。


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『気球に乗って五週間』
ジュール・ヴェルヌ 手塚伸一 訳 集英社文庫 1993年


 ヴェルヌが生涯にわたって書きつづけた、六十編以上もの「驚異の旅」シリーズの記念すべき第一作である。
 物語は、イギリス人の科学者が、友人と召使と共に、新発明の気球に乗ってアフリカ大陸を横断するというもの。本書が書かれたのは1863年である。そのころの西欧にとって、アフリカはまだまだ多くの未踏の土地を隠し持った神秘の大陸だったのだ。
 どこかでだれかが、ある芸術家の処女作には、その作者が後に生み出すであろう全ての作品が凝縮されているというようなことを書いていた。確かにこの小説ではヴェルヌの魅惑の全てが、すでに完成された形で花開いている。ジャーナリストのヴェルヌと夢想家のヴェルヌが、すでに分かち難く一体となっているのである。
 ところで、空想的な読書が与えてくれる至高の喜びとは何だろうか。それは、われわれの形をなさないおぼろな夢が、明確なイメージの連なりとなって、奇跡のように眼前に現れることではないか。そう、私は確かにかつてこのように空を飛翔したことがある。いや、それは「かつてあった」ことへの追憶ではなく、「かくありたい」ことへの憧憬や渇望なのかも知れない。とにかく私は確かに知っているのだ。一面の緑の草の海の上を、微風に乗ってゆっくりと運ばれて行く快楽や、まるで地球の自転そのもののように、次々と眼前ににせり上がって来ては後方に流れ去って行く大地の起伏を。月光に照らされた雲海の美しさを。そして急激に迫ってくる地面との激突の恐怖を。しかも不思議なことに、この「私は昔から知っていた」という確信は、今しがた、生まれて初めてもたらされたものなのだ。
 本書は、飛翔の夢の様々な原型を、宝石箱のように詰め込んでいる。そしてそこには墜落の夢も含まれている。われわれは、心地よいゆったりとした浮遊の夢から、急激な落下の感覚と共に目覚めることがないだろうか。ヴェルヌの飛行の夢も、そのようにして終わるのだ。気球のヴィクトリア号は、最後にセネガル川の上に不時着し、一瞬で急流に飲み込まれてしまうのである。以前も書いたが、ヴェルヌの小説の主人公たちは、必ず最後には未知の世界から住み慣れたわれわれの世界に帰還してくる。そして、彼らを冒険へと連れ出す様々な乗り物は、彼らを再び元の世界に連れ戻す使命を完了したとたんに、決まって跡形もなく破壊されてしまうのだ。というより、それらが破壊されることによって、主人公達は夢の世界から現実の世界への帰還を余儀なくされるのである。なぜか。それは、終わらぬ夢はないし、終わらぬ物語もないからだ。
 だから、われわれは目覚めた後、突如として実はこれらの乗り物こそが、夢そのもの、物語そのものであったことを知るのだ。ヴィクトリア号も、ノーチラス号も、アルバトロス号も、スクリュー島も、ロケット弾も、実は空間の中を移動する物体ではなく、一つの世界全体だったのである。これらの心地よい小部屋の周りに、全宇宙はパノラマのように投影され、ぐるりと一回転したのだ。つまりそれらは、最後に破壊されることによって、逆説的に己の存在を、全宇宙に拡大するのである。いや、己の中に全宇宙を飲み込んでしまうといった方がよいのかも知れない。重ねて強調すれば、われわれがその小宇宙の全体像を知覚するのは、夢の中ではなく、あくまで目覚めた後、物語が終わった後、それら海や空を駆ける機械が破壊された後である。このフラッシュバックに似た全体的な知覚のありかたを、あるいは批評といっても良いのかも知れない。とにかくヴェルヌは夢を知っていただけではなく、覚醒がどのようなものなのかもよく知っていたのだ。物語はその終わりを、夢は覚醒を必要とする。

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原書(エッツェル版)の挿絵。 雲の中の蜃気楼。
Cinq semaines en ballon: voyage de découvertes en afrique par trois anglais 1863
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『八十日間世界一周』
ジュール・ヴェルヌ 田辺貞之助 訳 創元SF文庫 1976年


 この小説の魅力は、つまるところ主人公の英国貴族、フィリアス・フォッグ卿の人物造形に尽きるのではないかと思う。
 ヴェルヌの小説には、自分の人生哲学を頑固に貫く、強靭な意志を持った奇人がよく登場する。『海底二万里』のネモ艦長、『地底旅行』のリーデンブロック教授、『月世界旅行』のバービケイン氏等々、彼ら偉大なるパラノイア達は、ヴェルヌの物語世界のいわば生きた動力機関であり、それぞれの冒険をまるごと双肩に背負い込んで、あらゆる困難をものともせず、ゆるがぬ足取りで進んで行く。
 フィリアス・フォッグもそうした超人の一人なのだが、彼の奇人ぶりは、ある意味上に挙げたいずれ劣らぬツワモノ共の、さらに一段上を行っているように思われる。
 と言うのは、上の三人も含めた他の登場人物が、探究心や野心や復讐心等の強烈なモチヴェーションを与えられているのに対して、常に正確さとポーカーフェイスを失わないこのイギリス紳士は、世間話から始まったささいな論争をきっかけに、ただ「数学的正確さ」なる自分の行動哲学を証するためだけに、涼しい顔で己の全財産を投げ出して、勝算の薄い賭けに出るのである。それにしても「80日間で世界を一周する」などという試みは、よく考えてみれば、何に役立つこともない究極のヒマツブシではないか。
 ヴェルヌは潔いことに、そこに心理的説明を一切挟まない。こういう人がいます。それで終わりなのである。

「フィリアス・フォッグはいわば数学的な正確さをもつ人びとのひとりで、どんなときにもいそがず、つねにおちついていて、歩行や動作を節約した。けっして大股で歩かず、つねにいちばん近い道をとおった。むだに天井をあおがず、よけいな動作をつつしんだ。彼が感動したり度を失ったりするのを見たものはひとりもなかった。世界中でいちばんいそがない人間だったが、つねに正確な時間にやってきた。とはいえ、彼がたったひとりで暮らし、いわばあらゆる社会関係の外に生きてきたことはいずれわかるだろう。彼は人なみに生活すると他人との摩擦をさけることができず。しかも摩擦は時間をおくらせることを知っていたので、だれとも交際をしなかった」

 こんな面白みのない人物を冒険物語の主人公に据えること自体、ひとつの賭けではなかっただろうか。また、この小説を他のヴェルヌ作品と分かつ点は、題名が示す通り、主題が未知なる空間の征服ではなく、「時間」の征服であるところなのだけれど、その点でもフォッグ卿は天晴れな徹底ぶりを示すのだ。彼は、旅行がスケジュール通りに進んでさえいれば満足で、眼前を通り過ぎるエキゾチックな風景にはまるで目をくれず、ひたすら汽船や汽車のなかでトランプに熱中するばかりなのだ。「彼は旅行をしていたのではなく、いわば円周をえがいていたにすぎなかった。力学理論の法則にしたがって、地球の周りを走る物体にほかならなかった」という人物が主人公だと、例えばインドの情景はこのように描写されることになる。

「こうして、彼はボンベイ市内の名所をなにひとつ見ようとしなかった。市役所も、立派な図書館も、要塞、ドック、綿花市場、バザール、回教寺院、ユダヤ教会、アルメニア教会はいうにおよばず、多辺形の二つの塔にかざられたマレバール丘の壮麗なバゴダすら見ようとしなかった。また、エレファンタの傑作も、湾の東南にある地下の秘跡にも、サルセット島のカンヘリアの洞窟にも、あの仏教建築のすばらしい遺物にも好奇心をおこさなかった。」

 全編を通してこのありさまで、読者はリズミカルに続く「あれも見なかった」、「これも見なかった」というフレーズに導かれて、この不動の動者たる奇妙な人物の背後を、世界全体があれよあれよと回り舞台のように通り過ぎて行く様を見守るばかりである。
 では、どうしてこの小説が面白いのか?どうしてこんな朴念仁の主人公が魅力的なのか? 
 大衆作家であるヴェルヌは、いくつかのエピソードで、この無感動な主人公が、「実はいい奴」であることを抜け目なく強調したりもしている。しかしフィリアス・フォッグの素晴らしさはそこにあるのではない。おそらく彼は、近代の想像力が生み出した、究極の自由人なのだ。
 彼は知っている。自分の内なる倫理と矜持以外に、この世に頼る価値のあるものなど存在しない。それを貫くことが人生である。つまり人生は、イノチガケの遊戯なのだ。遊戯においては、価値は、崇高さは、倫理=規則の内容そのものにはなく、それを貫く態度から生まれてくる。ついでに言えば、規則は単純であるに越したことはない。彼の場合、「ゲームの規則」は金でも愛でも美でも信仰でも権力でもなく、「時間」である。
 この選択に、「近代性」を見るのはいともたやすい。でも、フィリアス・フォッグを日帰りで海外出張するサラリーマンの先祖と見るのは間違いだろう。彼は根っからの貴族なのだ。

2005年10月3日

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原書(エッツェル版)の挿絵
Le Tour du monde en quatre-vingts jours 1872
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『チャンセラー号の筏』 
ジュール・ヴェルヌ 榊原晃三 訳 集英社文庫 1993年


 大西洋の真中で船が難破し、乗客と乗組員は、急ごしらえの筏で辛くも脱出する。
 その極限状況での人間ドラマが本書のテーマということになるのだろうが、人肉食にまで至る凄惨なサバイバルや、その中で示される気高い態度、といった事よりも、ヴェルヌの描写が冴えるのは、やはり自然現象に対する時だという印象を持った。
 闇の中を荒れ狂う暴風雨の中、船倉で起った火事のために、船体の真中から火柱を噴き上げるチャンセラー号のイメージからは、散文的で簡潔な文章を通して、炎と闇と水の黙示録的なダイナミズムが立ち上がってくる。
 島影一つ見えない、果てしない海の真中で、筏は嵐に遭遇する。その先触れとなって空を満たす稲光の描写も、何か天地創造の一場面を想起させる。
 さて、そんな中に裸で放り出された人間様は、とことん無力である他はない。何人か英雄的な人間が出てこないこともないのだが、登場人物は、他のヴェルヌの作品に比べると、おしなべて影が薄い。ここにはネモ艦長もリーデンブロック教授も出ては来ないのである。
 とうとう生存者達は、籤引きで犠牲者を決め、その肉を食べて飢えを凌ごうとするまでに追いつめられる。ここで突如として救済が訪れる。蛮行を阻止しようとして、誤って海に落ちた主人公は、海がいつの間にか真水に変わっていることを見出すのである。
 もちろんこれはヴェルヌの小説なので、その正体は神の起した奇跡でもなんでもなく、すぐにもっともな説明がなされる。一行はアマゾン川の河口にたどり着いたのだ。めでたし、めでたし。
 しかし、ここにはヴェルヌ的想像力の白眉の一つがあると思う。果てしなく四周をとりまく塩水が、一瞬で真水に変わってしまうイメージは魔術的だ。水、炎、大気という原初の物質がおりなす、こうした唯物論的な(?)神話こそが、本書のような「人間ドラマ」にあっても、ヴェルヌの本質なのだと思う。

付記:
今書いていて思い当たったのだが、海上での漂流が物語である本書でも、上に挙げた三元素と並んで、「大地」のテーマがちゃんと顔を見せている。チャンセラー号が座礁する、不思議な暗礁がそれである。かくしてヴェルヌの物質の神話は全きものとなるのである。

2005年10月25日


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原書(エッツェル版)の挿絵
Le Chancellor 1875
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『インド王妃の遺産』 
ジュール・ヴェルヌ 中村真一郎 訳 集英社文庫 1993年


 正義のフランス人科学者が建設した「理想都市」と、悪のドイツ人科学者が建設した「鋼鉄都市」の戦いのお話。「理想都市」の描写が、まるで現代の新興住宅街の宣伝文句みたいに空々しく響く一方で、「鋼鉄都市」とその親玉であるシュルツ教授の悪の魅力が素晴らしい。宮崎駿のカリオストロ伯爵と彼の城とか、レプカと三角塔などは、ここらあたりが元ネタなんじゃないだろうか。
 シュルツ教授の死に様もかっこ良い。「鋼鉄都市」は、彼の死と同時に完全に機能を停止させ、崩壊するのだが、その様子は独裁的中央集権への諷刺というよりも、指輪の消滅と同時に滅び去るモルドールのようにおとぎ話めいている。
 普仏戦争の直後に書かれたこの小説は、いつもにも増して愛国者ヴェルヌの政治的姿勢が前面に出ている。主人公の青年がアルザスの出身だったりすることにも、それは強く覗われる。しかし、こうした進歩主義的なジャーナリストとしてのヴェルヌの傍らには、常に夢想家としてのヴェルヌがいるのであり、だからヴェルヌの小説にはいつも、表面上の科学冒険物語に平行して、原初の想像力を刺激する倍音のようなものが響いているのだ。
 この小説で、こうした夢想をかきたてるのが、正義の理想都市ではなくて悪の鋼鉄都市であることは、幻想というものが持つある一面を端的に表しているのではないかと思う。なぜか、善のイメージというものが、時代の移り変わりと共に急激に古びてしまう一方で、悪のイメージはいつまでも生き長らえるものなのである。

2005年8月23日

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原書(エッツェル版)の挿絵
Les Cinq cents millions de la Bégum 1879
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『カルパチアの城』
ジュール・ヴェルヌ 安東次男 訳 集英社文庫 1993年


 舞台はトランシルヴァニアの辺鄙な山中に聳え立つ無人の古城である。迷信深い周辺の村人は、その城にまつわる禍禍しい噂に怯え切っている。そこに奇怪な事件が起る…と来れば、ブラム・ストーカーのパクリとしか思えないのだが、本書が書かれたのは『吸血鬼ドラキュラ』が世に出る3年前の1889年で、巻末の解説によれば、ストーカーがヴェルヌを読んでいたという事実もないらしい。当時のカルパチア山脈一帯が、そういうイマジネーションを惹きつける土地だったということなのだろう。この城の主はロドルフ・ド・ゴルツ男爵という貴族の末裔で、はじめは生死も定かではない。物語の進行とともに、この孤独で謎の多い人物の狂気じみた執念が明らかになってくる。こういう設定も、偶然とはいえやはりドラキュラ伯爵を思い起こさずにはいられない。

(ここからネタバレあり)

 ところが物語の後半、ゴルツ男爵の過去の因縁が語られるに至って、突如この小説が、怪奇小説でもSF小説でもなく、ある種の悲劇を扱った小説であることが明らかになる。
 男爵は、かつて一人の女性に片思いをしていた。その女性の名はラ・スティラ。イタリアが生んだ絶世の歌姫である。世捨て人の男爵は、素性を隠し顔を隠して何年もの間ひたすら彼女の舞台に通いつめる。彼は舞台の外では決して彼女と会おうとしなかったが、彼のはりつめた視線はいつしか感受性の鋭い女性歌手の意識するところとなり、次第に彼女を圧迫し始める。ついに彼女は引退を決意する。しかし男爵の眼差しは、最後の舞台のフィナーレのさなかで、突如彼女を死に至らしめてしまう。ヴェルヌは、この小説に起る様々な奇怪な出来事に、最後は逐一科学的な説明を与える。しかし彼女の死だけは、何の合理的な説明もなく取り残されるのだ。

「とつぜん歌がとぎれた……。
 ゴルツ男爵の顔は、彼女を脅かした。……説明しがたい恐怖が、彼女を 麻痺させた。……彼女は急いで口に手をやると、そこに赤い血があふれ……、彼女はよろめき……倒れた……。
 観客は胸をしめつけられ、茫然として立ちあがった……。
 ひとつの叫び声が、ゴルツ男爵の桟敷席からあがった……。」
(p150)

 男爵はそれから、召使の発明家の手になる二つの装置を携えて、人知れず故郷の古城に隠遁する。ひとつは映像を空間に投影する装置であり、もうひとつは「人間の声は、その魅力においてもその純粋さにおいても、どんな変質もこうむることはなかった」という理想的な蓄音機である。男爵はひとり、歌姫の「生き写し」の肖像画に見ほれ、彼女の生前そのままの歌声に耳を傾けるのだ。
 つまり、これはエドガー・アラン・ポーの「楕円形の肖像」に対する、ヴェルヌ流のオマージュなのだ。芸術と愛と死、この恐るべき三位一体がテーマなのである。結局、山深い土地の伝承や迷信も、すべてこの主題に奉仕する道具立てに過ぎない。
 かつて歌姫の婚約者であった青年貴族は、男爵を追って城に忍び込み、闇に沈む地下の迷宮をさ迷った挙句(これもおなじみのヴェルヌ的情景である)、ついに男爵の「夢の部屋」に達する。それは塔の最上階に位置する丸い部屋で、片側が深い闇につつまれ、もう片側が強い光に照らされている。そこは歌姫の映像を投影し、蓄音機から彼女の歌声を響かせる「AVルーム」なのだ。
 しかし、このSF仕立ての小道具は、現代の映像文化を予言しているというより、ポーの幻想により大きな親和力を示すのだ。男爵の部屋は、「楕円形の肖像」の語り手が、生きた人間と見まがう若い女の肖像画と出会う場所、「古くからアペニン山中に無気味な姿をさらしてきた、陰鬱さと壮大さのいりまじりそそり立った」古城の「ずっとはずれにある小塔の一室」(河野一郎 訳)に何とよく似通っていることか。
 ただ、ポーの小説の肖像画が、語り手と読者の視界につかの間浮かび出た後も、再び闇と忘却の底で眠りつづけるだろうと思われるのに対して、ヴェルヌの歌姫の幻影は最後に無数のガラス片となって砕け散り、蓄音機は銃弾を受けて破壊されてしまう。絶望した男爵は、城を爆破して自殺する。
 考えてみれば、技術文明礼賛の祖と見なされるヴェルヌは、「機械は壊れるものである」という主題を、脅迫観念のように毎度繰り返しているのである。
 スクリュー島も、ノーチラス号も、鋼鉄都市も、あほうどり号も、みんな最後には壊れてバラバラになってしまう。
 これは何故なのか考えたいところだが、そろそろお終いにする。

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原書(エッツェル版 1892年)の挿絵
Illustration de L. Benett pour l'édition Hertzel du Le Château des Carpathes, 1892.


付記:
 2005年9月29日、某掲示板に発表した文章に、少し手を加えたものです。
 エドガー・アラン・ポーの「楕円形の肖像」は、ある画家が自分の妻の肖像画を描くが、生き写しのその絵が完成した瞬間、モデルの妻は息絶えていた、という内容の短編です。
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『月世界へ行く』
ジュール・ヴェルヌ 江口清 訳 創元SF文庫 1964年


 『月世界旅行』の続編。
 というより、『月世界旅行』はいわば長い前振りに過ぎず、地中に埋められた砲身300フィートのコロンビアード砲が、主人公達を乗せた砲弾を発射するまでのお話なのである。続きはあとのお楽しみというやつだ。しかし『旅行』の原書が刊行されたのが1865年で、本書が刊行されたのが1869年なのだから、当時の読者は数年の間、さぞやキツい蛇の生殺し状態を味わったことだろうと思われる。
 一方私はというと、『旅行』を読み終えた翌日(つまり昨日)、仕事が終わるや神田は三省堂に駆け込んで本書を手に取ったという次第である。この幸せ! 本は古本屋で行き当たりばったりに買うというのが普段のやり方なのだが、続きが読みたくて居ても立ってもいられずに本屋に駆け込むというのもなかなかいいものである。
 ところがいざ読み始めると、現在新刊で入手可能な唯一の完訳本である創元版は、残念ながら、ちくま文庫の詳注版に比べると相当見劣りがする代物だと言わざるを得ない(比べるのが酷というものだけど)。訳文は「SFモノ」であるためか明かなヤッツケ仕事で、最低限の訳注すらなく、誤訳としか思えない部分が幾つも見うけられる。最も許しがたいのは、原書の銅版画の挿絵がないことである。つまり訳者や編集者の愛が全く感じられないのだ。ミラーが『旅行』の詳注版を出した動機が、英米でヴェルヌのまともな翻訳が存在せず、まともに評価されていないことへの「優しい怒り」だったことと比べるに、やっぱり翻訳は愛だなあと思う。
 にもかかわらず、やはり良いものは良いのである。うろ覚えである評論家のマネをすれば、「ミロのヴィーナスの美が、両腕を欠いているために失われることがあろうか」というわけで、一気に読んでしまった。

 『詳注版』の脚注の中で、W.J.ミラーは、ヴェルヌの諸作品では、未知の世界に旅立つ主人公たちが、かならず元の世界に戻ってくることにふれて、「一本の直線が――アルダン(引用者注:本書の主人公)の砲弾さながら――ぐるっと円環を描いて、元に戻ってくるのである」と述べ、この「帰還」のテーマを、ヴェルヌが、厳格だった彼の父親から受けたトラウマに帰している(毎度のオイディプス・コンプレックス!)。しかし私はちょっと異なる意見を持っているのである。「帰還」のテーマは、ヴェルヌの場合、幻想小説というものが、構造的に要請するものだと思うのだ。
 入沢康夫は、ある文章の中で、幻想的作品一般についての「二流品の感覚をもたらす」「うさんくささ」について語っている。
 彼によれば、そのうさんくささは、「いわゆる幻想的な作品における<語り>は、語り得ざる『幻惑』に対して、時間と形式とのわくを課するという意味で、本質的な矛盾をはらんでいる」ことに発している。そして「幻想的作品がうさんくささが脱却する一つの道は、それが未完であること、あるいは未完であるという印象を与えること(この二つは、せんじつめれば、多分同じことだ)」だという。
 つまり、乱暴に要約すれば、「人知を超えた何か」をツジツマが合うやり方で語るのはごまかしでしょ、ということなのだ。

 「未完であること」から、直ちに思い出されるのは、エドガー・アラン・ポーの『ナンタケット島出身のアーサー・ ゴードン・ピムの物語』である。南極に旅するピムの手記という体裁を取ったこの小説は、南極洋にぽっかりと空いた奈落になだれ込む瀑布めがけて、小舟で流されてゆく主人公の行く手に奇怪な何かが現れるところで、唐突に断ち切られてしまう。

「だがわれわれの行く手には、凡そその形が比較にならぬほど人間よりも大きい、屍衣を着た人間さながらのものが立ち塞がっていた。そしてその人間の姿をしたものの皮膚の色は、雪のように真っ白であった(大西尹明訳)」

 手記はここで終わり、ポーはピムの手記の最後の数章が「紛失した」と語るのである。見事に、未知なるものは、おぼろなその姿を垣間見せた次の瞬間、再び未知の領域に還ってゆくのだ。
 一方、ポーの精神的な息子であるヴェルヌは、もう少し使いまわしの利く方法を取る。それが、未知なるものが現前するやいなや、あるいはその直前で、主人公たちが心ならずもUターンしてしまうというやりかたなのだ。未知の深淵は、主人公たちの鼻先で閉じられることで、己の存在を全うするのである。『地底旅行』では探検者たちが更なる地下へ降りて行こうとすると、筏ごと地表におし戻されてしまうのであり、『月世界へ行く』では主人公たちは結局月面に降り立つことなく、月をめぐる軌道を一周した後、地球に戻ってしまうのである。弾丸は、地球から見て満月の時に月をめぐる軌道に到着するので、月の裏側は全くの暗闇である。そこにたまたま隕石が飛来して、月面の上空で爆発する。弾丸の乗組員は、その花火に似た強烈な閃光によって月の裏側をかいま見るのだ。ヴェルヌの美神はこうした瞬間に訪れる。彼らは一瞬信じがたい光景を目にするが、「ついにエーテルは、いままでの暗がりをとり戻し、星は瞬間的に姿を消していたが、ふたたび輝きはじめ、ちょっと顔を出した月の円盤は、またもや深い闇の中に姿を没してしまった。」
 かくてヴェルヌ的冒険者は、再び既知の世界へと戻って行くのだ。

 ところで、ヴェルヌがポーの精神的息子であると書いたのは、一つの比喩以上の意味を持つ。
 というのは、ヴェルヌは大胆にも『アーサー・ゴードン・ピム』の後日譚を小説化しているからである。長編『氷のスフィンクス』がそれで、筋立ては、ポーの書いた小説が、実は正真正明の「事実」であることが明らかになり、主人公たちが行方不明になったピムを救出せんとして、小説に記されたピムの足跡を逐一辿るというものである。ところが、とにかく陰気な小説なのだ、これが。

(以後ネタばれあり)

 何というか、芝居の全てが終わってしまい、観客が去り、照明が落された後の、冥府じみた舞台をひたすら筋を追ってさまよう、あるいは既に読まれてしまい、書棚に戻された「死んだ小説」の中をさまようと言えばいいのか。この幽霊じみた登場人物たちは、ついにツァララール島と呼ばれる奇怪な土地に達する。この島は、ポーの小説ではクライマックスの舞台となり、色々不可思議な出来事が起きる場所である。しかしヴェルヌはポーの幻想を逐一「科学的」に説明したりはしない。それどころか彼は、それらを無垢のまま永遠に保護するために、ある大胆な解決策を取るのだ。何と、一行が島に辿りつくと、島は地震によって見る影もなく崩壊した後なのである。以上。
 私は、このアンチ・クライマックスに出会って、一種異様な負の感動を覚えたものである。醒め切った、苦い感動だ。
「そうだ。こうでなければならぬのだ…」
 もちろん、この小説においても、主人公たちは「ぐるっと円環を描いて、元に戻ってくる」のだ。ただし彼らには『月世界へ行く』や『地底旅行』の主人公を待ちうけていた輝かしい凱旋はなく、その帰還はひたすら苦いものである。しかしこの苦さには、ミラーの言う「一度はユートピアへの逃亡を企てながら、『父親』に連れ戻された少年ヴェルヌのあの心の傷」などというフロイト的主題が介在する余地はない。
 父親が厳しかろうが、優しかろうが、あらゆる読書には「終わり」がある。ヴェルヌ的帰還者を待ちうけるのは、その厳然たる事実が持つ苦さと残酷さに他ならない。

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原書(エッツェル版)の挿絵
Autour de la Lune 1869


付記:
2005年7月15日、某掲示板で発表したものに少し手を加えました。
下の文章を書いてから1年以上が過ぎているはずですが、内容のあまりの重複ぶりに今、書いた本人が呆れているところです。
もう俺は成長することもなく、このまま衰えてく一方なんだろうなあ。
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『詳注版 月世界旅行』
ジュール・ヴェルヌ W.J.ミラー注 高山宏訳 ちくま文庫 1999年


 ヴェルヌは、広大無辺の未知の空間、というよりも、親密なものに取り巻かれて閉じこもる快楽、というものを、常に与えてくれるような気がする。
 ノーチラス号の中の図書館や博物館までが完備された快適な小宇宙は、そのままヴェルヌを読むことの、贅沢な快楽そのものではないか。ヴェルヌの「百科全書的」スタイルは、全宇宙を子宮のほの暗い温かさの中に閉じ込めてしまう。ところで、私たちが最初に出会う読書の快楽は、こういうものではなかっただろうか。どこかの隅っこで、体を丸めて読む挿絵入りの本。
 この本の注釈者にして英訳者は、このことを完全に理解している。なにせ注釈の分量が、明らかに本文よりも多いのである。
 頁の上下を真っ二つに割る2段組で、上段が本文、下段が注釈になっていて、その注釈は本文より小さな活字で組まれており、それが500頁を越えるこの本の中を、図解を多用しながら、ほぼ途切れることなく流れているのである。
 最初、この構成を一目見て、正直ちょっとヒいたのだが、読み始めるとこれが素晴らしいのだ、まったく(ただし、時々挿み込まれる言わずもがなのフロイト的解釈は除く)。
 これらは、注釈というよりは、とめどもなく連なってゆく百科全書的な薀蓄に近い。つまり、それ自身が百科全書的な薀蓄の集積に他ならないヴェルヌの著作と「共に生きている」注釈者が、気持ちよく本文とデュエットを奏でているのである。詩人でもあるらしいこの注釈者は、ちゃっかりと自分の詩を引用したりもしているのだが、こういう饒舌は美しいものだと思う。
 で、先ほどこの本を読み終わって、満ち足りた子供のような気分でこれを書いているのだけど、唯一惜しむらくは、この本が文庫であることだ。こういう本は岩波書店や福武書店の児童書みたいな、どっしりした函入りの上製本で欲しいものである。単行本は1981年に出ているのだけど、どんな装丁か気になってネットで調べても文庫本の情報しかヒットしない。どのみち入手は難しそうだな。

*以前某掲示板に発表したものの再録です。2005/07/13(水)

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原書(エッツェル版)の挿絵
De la Terre à la Lune: trajet direct en 97 heures 20 minutes 1865