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『うつうつひでお日記』 
吾妻ひでお 角川書店 初版発行日 2006年7月10日


 人類は偉大な書物というものを多数生み出してきたわけだが、その輝かしい歴史の中でごく稀に、書いてある内容以上に、その存在そのものがすごい、という書物が出現することがある。
 古くはサドの『ソドムの百二十日』から(読んだことがない人は、立ち読みでいいから一度「完訳版」をどのページでもよいので開いてみてください。イヒヒ)から、比較的新しい例でいえば山田風太郎の『人間臨終図巻』(古今東西の有名人の死に様が死亡年齢順に列挙されている。単行本で2巻、文庫本で3巻、1500ページ超の大著)まで、それらの書物は、読む必要すらなく、ただ書棚に置いてあるだけで、周囲に神聖にして禍禍しい魔力を発散するものなのだ。
 こうした魁偉な異形の書物群は、著者の人間離れした情熱や執念の結晶であることがほとんどだ。しかし『うつうつひでお日記』の孤高にして偉大なる歩みは、正にそれらの逆方向をゆくのである。
 本書には、2004年7月7日から2005年2月16日までの著者の日記が、漫画という体裁で途切れることなく綴られている。しかし延々200ページにわたるその内容は、何を読んだとか、図書館で何を借りたとか、仕事が2ページ進んだとか、昼食に何を食べたかとか、眠れないので睡眠剤を飲んだとか、不安の渦に巻きこまれて抗鬱剤を飲んだとか、半ば引きこもりの著者の、とにかく何の落ちもカタルシスもない日常の繰り返しなのだ。
 ためにするラディカリズムなのではない。本書は自費出版の形で限られた読者を相手に細々と続けられてきた「絵日記」をまとめたものである。このささやかな日々の作業が、そのまま著者の「生」そのものであったろうことは想像にかたくない。ところで「生」とは必ずしもポジティブな概念ではない。どんな輝かしい生にも、徒労、無駄、繰り返しといった巨大な灰色の領域が、殆ど物質的なまでに、否応もなく存在するものである。ある意味圧巻なのは、ほぼ全てのページに何の脈絡もなく挿入されている、セーラー服姿や半裸の少女のイラストである。元祖ロリコン漫画家(!)である著者の日常と平行して、無意味かつ無限に再生産されるこれらの人形たちは、おそらく生きるということのある側面を無言のままに語っているのだ。物質と化した生。それが偉大な作品の条件である。ゆえに『うつうつひでお日記』は永遠の書物となるのだ。
 本書に引用されている短歌。
「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」(穂村弘)
 本書の放つ負の輝きは、この象のうんこに案外近いのかも知れない。
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『失踪日記』 
吾妻ひでお イースト・プレス 2005年


 作者の実生活を淡々と描いた実録漫画である。
 しかし、描かれる生活そのものは、決して淡々とはしていない。
 作者は何本もの連載を抱える中で、ある日突然失踪してホームレスにまで身を落とし、拾われて肉体労働者となり、その後漫画家として再起するも、こんどはアル中になって幻覚症状を起し、ついには精神病院に強制入院させられてしまうのである。
 思い出すのは山頭火と坂口安吾のことである。
 まず、漫画の表現する堕落が、とうとう安吾の『古都』に追いついてしまったという驚きがある。これは大事件ではないか。
 では堕落とは何だろうか。ここで安吾と一緒に思い起こすのが山頭火なのだ。
 もっとも私は、今まで山頭火を読んだことがない。
 ではなぜ山頭火かと言えば、つい最近、たまたまある人から、「どうしようもないわたしが歩いてゐる」という一句を教えられたからだ。
 私は、山頭火はこの句しか知らないけど、ああ、たしかに堕落とはこういうことなのだと思った。
 「どうしようもないわたしが歩いてゐる」
 つまり、「わたしは歩いてゆく」でも「わたしは歩いてきた」でもない。山頭火は「どうしようもないわたし」を客体視しているのである。「わたしがあるいてゐる」現在のさまを、斜め上方あたりから、じっとカメラのように見つめているのである。ドキュメンタリーである。つまり、堕落とは認識の別名ではないのか。
 吾妻ひでおは、彼独特の、柔らかで丸っこい四頭身の絵で、「どうしようもないわたしが歩いてゐる」様を描き出す。しかし、堕落が見つめるものは自分だけではない。堕落は、自分と同じ地平で、他人をもじっと見つめるのである。それはもう、ただじーっと見つめるのだ。
 『失踪日記』が『古都』に匹敵する傑作たりえているのは、正にこの点だ。安吾は、長編小説『吹雪物語』の執筆に行き詰まって京都に逃げ、貧民窟のような安宿で、ただ碁を打って安酒を煽るだけで1年を過ごす。その目に写った安宿の住民の面々の描写が『古都』の白眉で、そこでは「どうしようもない」人々が、というよりは、人間そのものが持つ「どうしようもなさ」が、同情されることも裁かれることもなく、ただ「歩いてゐる」のである。
 吾妻ひでおが、路上や労働現場や精神病院で出会った人々を描くやりかたにも、安吾と全く同じ精神が通っている。もちろん吾妻が安吾を真似したとか、そういうことではない。ここでは個々の人格ではなく、堕落そのものが思考しているのであって、安吾と吾妻が別々にその地点に達したということに過ぎない。
 で、漫画は何を描きうるのか。その単純化された線が語るのは、人物の「心理」ではない。ごく単純に、その人物がおおよそどんな容姿をしていて、何を語り、どう行動するか、ということである。全てが外面的に、即物的に語られる。吾妻ひでおは恐るべきことに、大体1ページほどの簡単な人物紹介で、その人物の「存在」の全体を描き切ってしまうのだ。そして、この「存在」とは、「どうしようもなさ」と同義である(特に184頁で描かれるアル中患者の「ミニラ」氏のどうしようもなさには、滑稽も悲惨も通り越して、何か厳粛な気分になってくるから不思議です。何かを「見てしまった」という感じ)。存在することそのものがどうしようもないのだ。
 この本の帯には、大きく「全部実話です(笑)」吾妻、とある。そう、笑いとは、視線が存在することのどうしようもなさに反射するときに生まれるものではないのか。『失踪日記』も『古都』も、とにかくムズムズするようなおかしさに溢れている。悲惨なのに楽しい。笑い、たぶん、これが芸術の人生に対する効能の一つなのだと思う。あはは。

2006年1月14日