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『バルザック選集1 シャベール大佐』 
オノレ・ド・バルザック  川口 篤・石井 晴一 訳 創元ライブラリ 1995年


 大きな活字で百数十ページ。コンパクトにまとまった『ゴリオ爺さん』といった趣がある。
 シャベール大佐を裏切るのは、彼の娘ではなく妻である。彼はナポレオン帝政下、ロシアとの戦いで死んだと思われていた。しかし彼は九死に一生を得、浮浪者同然となってパリに戻ってくる。ところが既に再婚していた彼の妻は、現在の自分の地位を守るため、彼の存在を認めないばかりか、彼を陥れる計略までめぐらすのである。
 一方、シャベール大佐は底抜けのお人よしである。つまりゴリオ爺さんの同類なのだ。バルザックの小説には、たいてい彼のような一方的な受難者が存在する。彼らは、様々な人物の欲望や打算や陰謀や裏切りが水平に交錯する「人間喜劇」の世界に、唯一垂直の次元をもたらすのである。ゴリオ爺さんの盲愛、モルソフ夫人の純愛、バルタザールの探究心、ユロ夫人の貞節、シャベールの寛容がもたらす底知れぬ受難劇は、彼らの破滅に至るまで、ブラックホールのように周囲の事象を飲み込み続ける。実はこれらの小説世界を運動させる原動力となっているのは、様々な登場人物たちの様々な正の値を持つ欲望ではなく、ある特異点をなす人物の、無限の負の値を持つ受難なのだ。しかし彼らは皆生身の人間である。無限の受難が、彼ら有限の存在を食らい尽くしたところで物語は終わる。だから彼らは皆、キリストのなりそこないである。復活も、昇天もない。
 このようにしてシャベール大佐も破滅する。物語の最後にわれわれが彼を目にするのは、貧民相手の養老院においてである。しかし、上に挙げた「人間喜劇」の他の受難者に比べて、彼の最後には、そこはかとない明るさが漂っているような気がする。たぶんそれは、彼ひとりがナポレオン帝政時代の最後の生き残りであるからなのだろう。他の人物たちは、それに取って代わった王政復古期のブルジョア社会の住人である。バルザック自身が、この時代を「それは寒々とした、けち臭い、詩に欠けた時代であった」と評している。それが過去形ではなく、現在まで継続していることは言うまでもない。それにしても21世紀の住人であるわたしが、200年も前に終わった時代の挽歌に打たれるのはなぜだろう。たぶん、バルザックの時代を境にして物語=叙事詩(ロマン)が死に、小説(ノヴェル)が生まれたからだ。バルザックの作品は、叙事詩の死にして小説の誕生なのだ。シャベール大佐は最後の叙事詩の英雄として、彼の妻をはじめとする、小説の時代の登場人物たちに滅ぼされたのである。
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『谷間の百合』
バルザック 石井一 訳 昭和48年


 相容れぬ二者の相克を描く、というバルザックお得意の手法は、本書でも肉体対精神という対立の中に余すことなく示される。
 一言でいって、本書は「エロい純愛小説」である。きわどい描写があるのではない。
 不幸な結婚生活に苦しんでいる美貌の伯爵夫人と、やはり不幸な出生の影を背負う純粋な若者が落ちて行く道ならぬ恋は、夫人の堅固な貞操観念に守られ、最後まで精神的なものに止まる。しかし、神ならぬ人間が、地上で無理なくそんな恋を貫徹できようはずもなく、青年は別の人妻と肉体の恋に溺れて行き、それを知った伯爵夫人は嫉妬と抑圧された欲望に身も心も苛まれて、ついには命を奪われてしまうのである。
 バルザック的悲喜劇を体現する人物とテーマは数あれど、対立や矛盾の、死に至るまでの相克を描くのに、この「貞操」というテーマは特権的な位置を占めているように思われる。興味深いのは、バルザックが結局は、この観念に対して、価値判断を放棄しているように思えることだ。バルザックの小説において、貞操を最後までつらぬく女性は、必ずといっていいほど悲劇的な結末を迎えることになる(例えば『従妹ベット』のユロ夫人がそれである)。しかしバルザックは、貞操は不健康な偽善であるなどとは決して唱えはしない。もちろん貞操万歳とも言わない。それは良し悪しを超えて、とにかく「そこにある」ものである。それは、バルザックの小説世界を作動させる情け容赦もない歯車であって、高貴な魂を(それが高貴であればあるほどなお残酷に)バリバリと噛み砕いてゆくのである。バルザックはそれを、一応はキリスト教的な受難の過程として描き出している。伯爵夫人は臨終の場になって信仰と己の尊厳を取り戻し、神々しく死んで行く。しかし、私にはこの結末は、時代がバルザックに強いたアリバイ作りのように思われる。おそらく、バルザックの本音は、伯爵夫人が青年にあてた手紙の中に見られる、以下の部分に集約されているのではないか。

「…私は社会が神さまから由来するものか、人間がつくりだしたものかは知りません。それがどちらの方にむかって動いているのかもわかりません。ただ私の目にたしかなことは、社会が存在しているという事実です。社会からひとりはなれて暮すのをやめ、社会をうけ入れようとおきめになったら、その日からあなたは社会のよって立つ種々の条件を、すべてそのままよきものとお考えになることが必要です。…」(p195)

 この身も蓋もない認識こそ、バルザックの人間喜劇の底流を成しているのではないか。神とは社会である。しかしこの新しい神は精神を持たず、自分がどこにたどり着くかも知らぬまま、ただひたすら自らの王国の民に暴虐を強いるのである。
 もちろん、ここにはまぎれもない愉悦が、快楽がある。バルザックもその読者も、自らの宗教的=社会的信条と欲望の間に立って煩悶する伯爵夫人を、青年の欲望の目を借りて、ムラムラしながら見守ることになるからだ。夢見るような風景描写をはじめとして、この書物全体のかもしだす雰囲気は、どこまでも清烈でありながら、とにかく激しく色情的である。
 この「善悪の彼岸」にある快楽と悲劇をあまさず楽しむ我々は、では神の視座にいるのか?「見えざる手」を持たず、ただ「目」と化した神に?
 バルザックの小説においては、「人間的努力」によって、事態が解決することがない。悲劇や葛藤は、登場人物の死によってしか解決(ないし中断)されないのである。
 これはバルザックの「宗教」なのだろうか。悲劇が救済の対象ではなく、悦楽の対象であり、その悦楽こそが救済であるような世界。これはあんまりキリスト教的な世界観ではないように思える。さらに人間喜劇を読まねばならない。

2006年3月14日
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『セラフィタ』
バルザック 蛯原徳夫 訳 角川文庫 平成元年 (昭和29年の初版の復刻版)


 色々な意味で難物。というか、正直ヤバい。
 舞台はノルウェーの海際の寒村。登場人物は5人だけ。つまり、パリの雑踏の中を多くの登場人物が交錯する「人間喜劇」シリーズとは真逆を行く小説である。
 主人公、セラフィタ・セラフィトゥス(なんという名前!)は、この世の全てを一歩高いところから見下ろしているような、神秘的な人物である。ものすごい美形であるが、性別は判然としない。あるときは男のようであり、あるときは女のようである。いわゆる両性具有ということらしい。
 そして、彼/彼女にそれぞれ激しい恋心を抱いている一組の若い男女、その女の方の父親である懐疑主義者の牧師、セラフィタの無口な老下僕。以上が登場人物の全てである。
 物語はある意味単純で、セラフィタがこの男女に、延々と神の実在と神への恭順を説き、最後には熾天使なる存在となって昇天してゆくというものである。何だかよくわからないが、この熾天使(セラフ)というのは、天使の中では一番偉いらしい。
 要するに、21世紀の極東に生きる無神論者たる私には、かなり縁遠い話と言わねばならぬ。文庫本にして約200ページという分量は決して長いものではないのだが、結局読み通すのに一週間ほどかかってしまった。数十ページにわたって繰り広げられる複雑で深遠な神学を、旧漢字で、それも、昭和二十年代の劣悪な印刷をそのまま再現した復刻版で読まされたのが、中々読みすすめられなかったことの原因の一つである。それは明らかだ。
 でも、これを読んでいるときに常に感じていた何とも言えない焦燥感は、おそらくその内容から来るものであって、私はこの一週間、数頁、時には数行読んだだけで溜息と共に本を閉じ、何か満たされない気持ちのまま、焼酎をラッパ飲みしたり、落ち着きなくPCを起動させては、よからぬページを覗いたり、ムシャクシャまかせに馬鹿なことを書き込んだり、といったことを繰り返していたのである。
 唐突だが、私は神の実在は信じられないけども、やはり美の実在は信じているのだ。その目に、本書の中で折に触れて語られる、フィヨルドに縁取られた北国の早春の風景は、神々しいくらいに美しい。神々しい、と書いたが、何か、ほとんど麻薬的な美しさなのである。薬物や極限状況によってハイになった精神が見る世界はかくやという感じである。ところで、私はこの美を心底から信じられるだろうか。それともこうした「法悦」は脳内物質がひきおこすまやかしのデンパに過ぎないのか。前者だとすれば、私の今の生活は全否定されざるを得ないし、後者だとすれば、この宇宙はあまりにも味気なさ過ぎる。かくて焼酎の瓶に手が伸びて悪酔いが始まるのである。
 バルザックはやはり怪物なのだ。少し前に『「絶対」の探求』の読了報告で、バルザックは相容れない二者の間で引き裂かれた存在だと書いたが、本書にもこうした二項対立のダイナミズムは顕著である。男と女、肉体と精神、天界と地上、信仰と懐疑、神の単一性とこの世の多様性。。。そして恐るべきは、本書一冊が他の全ての「人間喜劇」シリーズと、深淵を挟んで対峙しているように思われることである。バルザックはその深淵の底で悠々と玉突きでもしているのではないか。
 もっとも、私はまだバルザックの巨大な長編群のうち、まだ数冊しか読んでいないので、これは勇み足かも知れない。他の作品をもっと読んだ後に、本書を再読して見ようと思います。とにかく疲れた。。。

2005年12月6日
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『「絶対」の探求』 
バルザック 水野亮 訳 岩波文庫 1978年改訳版


  19世紀の始め頃のフランドル地方を舞台に、万物の共通元素である「絶対」を求めて、錬金術めいた化学実験に没頭し、そのために、経済的にも、社会的にも、一家の家長としても破滅してゆく貴族を描いた小説である。主人公は、その名もバルタザールという。
 知性の書である。と言っても、バルタザールの探求が「知的」なものであるからではない。むしろ、バルタザールは娘に全財産をつぎ込んで没落してゆく、愚かしくも崇高なゴリオ爺さんの同類と言ってよい。ゴリオ爺さんにとっては娘の幸福が「絶対」であった。その意味で、この「絶対」という言葉は、極めてアイロニカルに使われている。「絶対」は究極の安定をもたらすどころか、決してたどり着けず、それを求める者に、際限もない精神と肉体の浪費を強いるものだからだ。
 そして、この「絶対」の様相は、おそらく19世紀から現在にいたるまで続く、何ものかを語っているのだ。終着点を持たず、絶えず強さと圧迫を増大させながら無限に継続されるもの。これは資本主義社会そのものだ、とまで言い切れば極論かも知れないが、バルタザールとゴリオ爺さんを苦しめるのは第一に金銭の問題なのだし、バルタザールの当面の目標は炭素からダイヤモンドを合成することであることは心に留めておいていいだろう。明らかに言えることは、屋根裏部屋で、当時でも既に時代遅れであった錬金術に没頭するこの世捨て人は、しかしバルザックのまぎれもない同時代人として存在していることである。
 本書が知的であると書いたのは、本書がこうした時代精神への強靭な批評になっているからだ。「強靭」と書いたのは、バルザックにおいては、知性がそのまま膂力の発露になっているように見えるからである。本書は様々な二項対立で占められている。高貴さと卑俗さ、男と女、誠実と打算、理想と現実、妻と母親、母親と娘、旧時代と新時代、秩序と破滅に至る混沌…。これらの対は、一組の人物として体現されることもあれば、一人の人物の中の相矛盾する要素として描かれることもある。感動的なのは、バルザックがそれらの対立を距離を置いて眺めているのではなく、正に彼自身がそれらの対立の中で引き裂かれそうになるのを、強烈な精神力で耐えているように思えることである。
 冒頭のフランドルの屋敷の丹念な描写を読めば、バルザックがいかにこの地方の旧時代の秩序立った風俗を愛惜していたのかがよくわかる(私はふとフェルメールの絵を思い出した)。一方、バルタザールの屋根裏の実験室は、「学者の専心没頭というものが惹き起こす乱脈ぶりが、いたるところ、整理一方のフランドルふうのしきたりをぶちこわしていた」(240頁)のである。
 私は歴史には暗いので、はっきりとは言えないのだが、多分バルザックの生きた19世紀の前半は、おそらく新旧の時代の境目だったのではないか。新時代の狂熱を体現するのがバルタザールなら、旧時代の秩序の体現者は、彼の妻ジョゼフィーヌである。この貞淑で高貴で従順で…とにかく昔風に言えば妻の鑑とでもいえそうな女性は、あるとき意を決して夫に抗議する。
 
「…そうですとも、私はほかの女をみんな寄せ集めたよりも、ただひとつの思想のほうをずっと嫉妬しますわ。愛は大きなものです。けれど無限というわけには行きませんものね。だのに学問には底の知れない深さがあります。あなただけがひとりでそこに入っていらっしゃるのを、だまって見ているわけにはまいりません。私は、私たち二人のあいだに入ってくるものは、どんなものでも憎みます。…」(112頁)

 そう、人間の生命は有限だから、愛は無限というわけには行かないのだ。それを身をもって証するように、ジョゼフィーヌは衰弱して死んでゆく。無限はただ人を喰らい潰し、不毛の荒野を広げるだけではないか。バルザックは、この有限と無限という相容れない二つの様相を、腕力にものを言わせて、最後にシンバルのように打ち鳴らす。
 その結節点が、バルタザールの死の瞬間でしかありえないことはもはや明らかだろう。
(余談ですが、トリュフォーの長編映画第一作「大人はわかってくれない」に、以下の部分が思いもかけない形で引用されています。興味のある方はぜひぜひ)

 息も絶えだえの病人は突然、握りしめたこぶしにからだを支えて起きあがった。ギョッとしたこどもたちに投げかける視線は、まるで稲妻のように彼らのすべてに突き入った。首筋にわずかばかり残っている髪の毛がそよいだ。しわがピクピクふるえた。顔は火のような精気をおび、そこを、ある霊感の息吹が通りすぎて、この顔を崇高なものとした。激怒のために引きつる片手を高く差し上げると、われるような声でアルキメデスの有名な言葉を叫んだ、――「EUREKA!(わかったぞ!)」思うように動かないからだは、重そうな音を立てて寝台に落ちこんだ。彼は恐ろしいうめき声をあげながら死んだ。(348頁)

 おそらくこの死には、ある小説の、ある特殊な登場人物の死以上の何かがある。我々もまた、バルタザールとは別の様相の元にではあるが、ある「絶対」に捕らわれているのだ。これを「死」と呼び変えてもよい。つまり我々も、有限である生を、ただあるがままのものとして享受できる時代には生きてはいないのだ。我々は、返す当てのない無限の負債を抱えているかのように、あるいは決して癒されることのない乾きに突き動かされているかのように、踊りながら死に向かってまっしぐらに行進して行く。
 バルタザールはそれでも個人として生き、そして死んだ。しかし我々の絶対なるものは、もはや高貴さの影も止めておらず、ハメルーンの笛吹きよろしくわけもわからずに馬鹿踊りを無理強いするのみなのだ。
 バルザックの小説の登場人物を捉える様々な狂熱と、我々の今生きる社会の持つ狂熱。その共通点と違いを同時に見究めなければならない。それにはバルザックそのひとの凶暴な知性が必要とされる。そしてそのために、もちろんバルザックは読み続けられなければならないのだ。

2005年11月25日
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『ゴリオ爺さん』 
バルザック 平岡篤頼 訳 新潮文庫 昭和47年


 この小説には、主人公を名乗る資格を持つ人物が二人いる。
 一人は野心家の若い学生であるラスティニャック。彼の上流階級でのサクセス・ストーリーが本書の重要な柱となっている。
 もう一人は二人の娘に全財産をつぎ込んだあげく、貧民窟のような下宿屋で孤独のうちに死んでゆくゴリオ爺さんである。
 でも、バルザック自身の思想を最も強烈に体現してるのは、「不死身」という渾名を持つ悪党ヴォートラン、この男性の権化である脱走徒刑囚なのだと思う。
 彼はゴリオ爺さんを評してこう語る。

「…感情てのは、思考と化した世界そのものじゃないのかな?ゴリオ爺さんを見ろ。彼にとっては、ふたりの娘が宇宙のすべてであって、彼女たちこそ、被創造物の世界をすすんでゆく爺さんの導きの糸だ。…」

 これは、この小説全体の構造にもあてはまる話である。ゴリオ爺さんの崇高なる妄執は、多様な登場人物の多様な欲望が複雑に交錯するこの小説のアリアドネの糸なのである。
 本書のクライマックスは、下宿屋でヴォートランが警察に逮捕される瞬間である。
 バルザックは、その時の彼の倣岸不屈の態度をこう描写する。

「…そのぞっとすろような偉大さ、なれなれしさ、卑俗さが、不意に、そんな言葉によって、そしてまたこの男によって、あますところなく表現され、この男はもはやただのひとりの男ではなくて、堕落した一人種、野蛮で論理的で、獰猛でしなやかな一種族の典型となった。一瞬にしてコラン(引用者注:ヴォートランの本名)は、ただひとつの感情、すなわち悔恨の感情を除いて、あらゆる人間感情が描き出された地獄的な詩篇となった。…」

「あらゆる人間感情が描き出された地獄的な詩篇」とは、この小説そのものではないか。
 強靭で凶暴な言葉の夢そのものではないか。
 その夢に突き動かされて、言葉は一分の隙もなく、息せき切ったように溢れ出す。
 なにせ世界を、宇宙をまるごと記述しようというのだ。
 バルザックの何という傲岸不遜。言葉は支配であって、同時に反逆なのだ。貴族にして犯罪者なのである。そこに「平民」はいない。おそらくこの言葉の正負両方向の特権性こそ、バルザックの生きた時代と現代とを分かつ指標なのだ。
 
 などと理屈をこねたが、一言で言えばとにかく面白い。
 どうもドストエフスキーの「罪と罰」なんかは、この小説の影響を強く受けているような気がするのだけど(ラスティニャックとラスコリーニコフは兄弟のようによく似ている)、「罪と罰」に比べて「ゴリオ爺さん」があまりメジャーじゃないのは、題名が災いしてるのではないか。
「俺いま『罪と罰』読んでいるんだ」というのと「俺いま『ゴリオ爺さん』読んでるんだ」というのでは、何かが決定的に違うのである。
 この小説は題名で損している。もっと読まれるべきだと思う。

2005年9月28日
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『知られざる傑作 他五編』 
バルザック 水野亮 訳 岩波文庫 1965年


 表題作と「砂漠の情熱」と「ざくろ屋敷」が好きである。
 特に「ざくろ屋敷」。
 気高く美しい母親と幼い息子二人が、「ざくろ屋敷」と呼ばれる質素だが美しい別荘に、世間に寄る辺ない身をつかの間落ちつかせることになる。地上の楽園とでも言うべきこの美しい土地で、病身の母親は季節の移り変わりと共に衰えて行き、晩秋のある日に息を引き取る。そして二人の息子は浮世の荒波に放り出される。
 太宰の『斜陽』を連想させずにはいられない筋立てである。
 ロワール河畔の卑猥なまでに陽光溢れる光景は、東京を追われた母子が住むことになる、伊豆の山荘から見晴らせる景色、海が「ちょうど私のお乳のさきに水平線がさわるくらいの高さ」に迫ってくる景色とどこか似ていないだろうか。両方とも、悲しくて思いっきり泣きじゃくって涙が枯れ果てた後に訪れる、不思議な恍惚と平穏に似ているのである。たぶん、滅び行くものと、未だ人生を知らないものだけが、死を宣告された者と子供だけが、一時こういう楽園に住むことを許されるんじゃないかと思う。
 なんでも、「ざくろ屋敷」は今でも実在する場所らしい。
 一度行ってみたいものである。

2005年7月26日