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 伯父の葬式から3日が過ぎた。私の忘れっぽさは恐ろしいほどのもので、およそ十年ぶりに親戚一同と過ごした二日間の記憶は、既に所々ぼやけ始めてしまっている。残っている記憶すらも、その場で生起した様々な感覚や感情はほとんど脱色されてしまい、ただの映像のごときものになっているのである。全てを忘れ果てる前に、ここに記録を残しておこうと思う。
 その日の午前中は、葬儀場の入り口で、弟や従兄弟らと一緒に受付の席に座っていた。私が背にしている薄い仕切板の向こうでは、別の家族の葬儀の準備だか後片付けだかが行われており、こちらではお坊さんが参列者が焼香する間お経を唱えつづけているというのに、遠慮なくガタガタと大きな音を立てて椅子を移動させている。開放された入り口の外では、時々小雨がぱらつく中、黒い人影がいくつもの大きな流れとなって、アナウンスの放送に促されて行きつ戻りつしたり、隅でタバコを吹かしていたりする。この斎場は都内でも有数の規模を誇っているという話で、葬儀場はコの字形をした建物の両翼に5室づつ、合わせて10室もあるのだ。そして今日は、全ての部屋がフル稼働している様子である。
 こういうのも悪くはないな、と私は思った。死は個人や家族から見れば一大事だが、社会全体からすれば日常的な営みのひとつに過ぎないのだ。私の目の前を、草食動物のようにおとなしい会葬者の列が、次々とベルトコンベア式に通り過ぎてゆく。何とはなしに安らかな気分になる。死ぬということが、そんなに恐ろしいことではないような気がしてくる。
 しかし、伯父の晩年は、相当に淋しいものであったようだ。私の前にある芳名帳は、まだ一頁分も埋まっていないのである。昨日の通夜の方がまだにぎやかだったように思う。伯父は5年程前に大病をして倒れてから、ずっと病院暮らしだった。最後は子供に戻ったようになって、週に何回か看病に訪れる娘に、ずいぶんわがままを言ったようである。娘に向かって「ママさん」と呼びかけたこともあったそうだ。伯父は生前の伯母をそう呼んでいたのだ。
 その伯父が頼り切っていた娘であり、一児の母であり、頼りにならぬ喪主の妹である私の従妹は、昨日は洋装だったが、今日は和装である。この平板でくすんだ群像劇にあって、なぜか私の目には、彼女の姿だけが血の通った一個の人間として、周りから浮き上がって見えるのである。彼女は焼香が始まるまで、控え室と会場の間を機敏に動き回っていたが、今は会場の最前列で静かに頭を垂れている。ここからは彼女の表情は見えない。木魚のリズムは昨日より明らかにせわしくなっていて、読経にも何か激しい調子が含まれている。よくわからぬが、今が供養のクライマックスなのだろう。確かにお坊さんは、伯父の魂を成仏させるために、一所懸命に何かと戦っている感じである。すると隣の部屋でも読経がはじまった。こちらの部屋まで筒抜けである。最後の参列者が焼香を終えると同時に読経は終わった。今度は何の解説もなく、お坊さんは一礼すると退席した。期待していたので残念である。
 棺が火葬場に運ばれる直前に、参列者全員で棺の中を花で埋めた。そのとき初めて伯父の死に顔を見た。昨日もその機会はあったのだが、薄情な私は何か億劫で避けていたのだ。伯父の顔は、生きているものと、単なる物体との中間にあった。私は美しいと思った。青白いその顔は、泣き寝入りをした幼い子どものように、悲しげで、かつ満ち足りているように見えた。彼は世界に対して完全に無防備だった。何の垣根もなく、そのまま宇宙と地続きだった。私は、ドロドロとした現生の苦しみの果てに、つかのまであれ、こういう美しい物体に変わるのであれば、死ぬことは悪くないなと思った。またしても私は、彼の死ではなく私の死を思ったのである。
 しかし、そのような瞑想的な気分も、棺の後に続いて火葬場に入った途瑞に吹き飛んでしまった。コの字の斎場の中央に位置するそこは、広いエレベーターホールにそっくりの空間である。ただし、数えて九つ並んでいる金属製の四角いドアはエレベーターではなく、それぞれ九基の火葬炉の扉なのだ。互いの間には何の仕切りも設けられていない。私たちが並んだのは中ほどの火葬炉の前だったが、左右にも何組かの参列者が並んでおり、棺を炉に送り出したり、炉から遺骨を取り出したりしているのだった。私たちの隣の炉は一仕事終えたばかりで、灰色の制帽をかぶった係の人間が、事務的な手つきで灰を掃き出していた。普通の箒を使っている。すると会場係らしき女性が足早にやってきて、扉の横の壁に掛けられていたネームプレートと、そのそばに立てられていたポールの先の遺影を手早く差し替えて、やはり足早に去って行った。全てに無駄がない。その他の炉も全て稼動中で、それぞれの前に掲げられたネームプレートと遺影が、今まさに焼かれているのがどこの誰なのかを無表情に告げている。ひと昔前のSFが描いた未来の風景がそこにあった。ユートピアとも、アンチ・ユートピアともいいうるその無機質な空間に、私は感心した。ここには虚飾がない。命を失った人体は単なるモノに過ぎぬ。それは社会体の巨大な歯車の連なりの末端で、単に老廃物として処理されるのである。何かここには、涼やかで軽やかな優しさがないだろうか。無慈悲な懐かしさがないだろうか。
 私たちは火葬に付される棺を見送った後、一旦SFの世界を離れ、2階の座敷でビールを飲みながら待った。1時間ほど後に、再び炉の前に並び、扉が開かれると、係の人間が火葬台の上に散らばった遺骨を手早く大きなアルミのトレーに移し、私たちを会場の隅に誘導した。そこで遺骨を壷に移すのである。振り返ると、既に伯父のネームプレートと遺影は見知らぬ他人のものに差し替えられ、次の火葬の準備が始まっていた。私たちが二人一組で長い箸で壷に遺骨を移す間、初老の係の男は、大きな金属製のへらでトレーの遺骨をならしていた。まるで屋台の焼きそばのようである。骨は真っ白だった。もう悲しむことも悲しませることもない。そんな罪のない無垢な色である。係の男は、最後に「これが頭蓋骨。これが耳の骨。これが喉仏。ちょっと崩れてしまってますが」などと慣れた口調で解説しながら壷の蓋を閉じた。悪くない。死んでこうなるのであれば、まったく悪くない。私は中原中也の「骨」という詩を思い出した。
 私たちは遺骨と共に葬儀場に戻った。お坊さんがまたお経を上げた。今度は昨日の通夜の時のように緩やかなリズムを持ったお経だった。解説はやはりなく、お坊さんは「ではこれで」とビジネスライクとも取れる挨拶をして去った。その後は飲みどおしだった。二階の座敷で「精進落とし」と呼ばれる食事をした後、皆でマイクロバスで移動して遺骨を従妹の家に納め、近くの酒屋の座敷を借り切ってまた飲んで食べた。皆いい具合に酔っ払ったが、座が乱れるというほどでもなかった。葬式だから遠慮したというより、私たちの一族は、みな穏やかな気質をしているのである。それにしても十年ぶりに会った年下の従弟たちは、皆中堅どころの社会人に変貌していて驚かされた。十年前、従妹の結婚式で会ったときの彼らは、まだあどけなさを残した学生だったのである。こちらもそれなりの紆余曲折を経て今に至っているのだけど、どうも十年を眠るように生きてしまったという気がしないでもない。従妹はあいかわらず座から座に立ち回ってビールを注いでいる。彼女は私より一才歳下である。これからも法事が続いて大変だろうというと、これからのことは全部予測がつくから楽だという答えが返ってくる。私の母が、Yちゃんはお父さんにやってあげられることは全部やったねえとほめると、首をかしげてそうかなあ、そうだといいけど、まだやってあげられたんじゃないかと思うんだけどねえと言って笑う。涙は影もない。俺はこの娘の足元にも及ばないなあと思う。十年無駄飯を食って生きてきてしまった。まあいいさ。俺は俺。
 こうしてフルコースで親戚づきあいを堪能したので、帰りは一人になりたいと思って、家族や親戚とA駅の前で別れ、冷たい雨が降る中古本屋を探す。一軒見つかる。そこそこ広いけど汚くて乱雑な店である。もう遅い時間だったが、店の隅のテーブルで、十代の少年達が数人、なにやらカードゲームのようなものに熱中している。埃がこびりついて黒ずんできているビジネス本の間に、なぜか一冊だけ挟まっていた岩波文庫を救出する。

『北村透谷選集』 勝本清一郎 校訂 岩波文庫 1970年 280円

 500円出して220円のおつりである。こんな日にひとりじゃらじゃらと小銭のやり取りをしているのが、何だかやりきれなかった。


おまけ
中原中也 「骨」
http://akinao.at.infoseek.co.jp/chuya/a1.html#61
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『津軽』 太宰治 新潮文庫 平成元年改版

 この絵に描いたようなハッピーエンドこそ、太宰の力の源であり、同時に弱さなのだろう。
 旅とはまず、土地や事物や人物を隔てる諸々の距離、想念と現実を隔てる距離、どこまでも物質的で残酷な、充ちた徒労感で埋められる距離のことであるはずなのに、「津軽」では、最後の最後に至って、これまでの全行程が嘘のように消えうせてしまう。距離の甘美なる廃棄。自らのルーツとの、嘘のような合一。これは旅行記として始まり、口づけにきわめて近い何かとなって終わる。
 これでいいのか。よくわからぬ。たぶんこれでいいんだろう。

 05/01/27


『女生徒』 太宰治 角川文庫 昭和59年改版
 
 女性の一人称で書かれた短編を集めたもの。
 「女生徒」も「燈籠」も「葉桜と魔笛」も好きだけど、一番は「饗応夫人」。これは図抜けている。
 心理の美ではなく――心理など、所詮理解だの共感だのの対象に過ぎぬ――行為の美。唯物論的な鑿で彫刻された人物の美。太宰のいつもの饒舌な自己憐憫がない。これはハードボイルドなのである。
 「燈籠」のクライマックスが、少女が盗みを犯した後の独白であるのに対して、「饗応夫人」は行為そのものを描く。
 「奥さま」は、何も言わずに切符を「そっと引き裂い」て、自らの退路を絶つ。たった一つのつつましい身振りで、破滅に向かって身を投じる犯罪映画のヒロインのように。
 行為は理解も共感も呼ばない。そんな水っぽいものではない。
 それは憧憬を、予感を呼ぶ。

 05/01/29


『人間失格』 太宰治 新潮文庫 昭和42年改版

 奥野とかいう馬鹿者の巻末解説を、イライラしながら読み終えたところ。
 「太宰に対しては全肯定か全否定しか許されない」だと?
 「太宰治は『人間失格』一編を書くために生まれて来た文学者」だと?
 何て恥知らずで愚鈍な言葉の群であろうか。
 太宰が生きていたら、さぞやきまり悪げに顔を背けたのではないかと思う。
 何だか今、小説なんて、かなりいいかげんなものなんじゃないかという気がしてきた。
 ちょっと長い戯れ歌なのだ。夏目もドストも太宰も。もちろん、放言である。いま少し、酔っ払っています。
 言いたいのは、小説は生き物であって、神様ではないということだ。
 太宰は、その死は神格化しちゃいけない。
 同時に、作中の女性たちのように、グダグダに同情するのも違う。
 そうした態度へのウンザリ感こそが、太宰の小説のモチーフなんだし。
 馬鹿な友達が一人いる。しょうもないやつだが放っておけない。
 多分、これが太宰に対する付き合い方なのではないかと思う。

 05/01/31


『グット・バイ』 太宰治 新潮文庫 平成元年改版

 表題作が未完なのが、あまりに惜しい。すごく面白くなりそうなのに。
 「饗応夫人」「男女同権」などを読むにつけても、太宰の死は惜しいと思う。
 必然の死などそうそうあるものではなく、結果としての人の死は、自殺であろうと他殺であろうと、本質的には不幸な偶発事か、理不尽な暴力によってもたらされるのではないか。
 もちろん、死への意志は一つの必然でありうるが、それと結果としての死とは、実は何の関係もない出来事なのではないか。

 05/02/27


『太宰治全集 6』  ちくま文庫 1989年

 『右大臣実朝』『新釈諸国噺』等。
 『右大臣実朝』について 。

 アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。

 こう述べる実朝の「アカルサ」とコントラストをなしている「暗さ」は、実朝を暗殺する公暁の芝居がかった堕落ではなく(あの蟹の場面の半ば通俗に足を踏み入れた鮮やかさ!)、相州のいくぶんくすんだ影に他ならない。
 存在の耐えられない醜悪さ、というものを、話者はこの生真面目な実務家の横顔に、これ以上ないほど簡潔に、容赦なく、提示して見せる。
 意味や心情としての悪や堕落(公暁の人物像は、この範疇を出ない)ではなく、ただ物質的に、打ち消しようも、遁れようもなく存在している、唯物論的な醜悪さ。
 アカルサは、暗さによって滅ぼされるのではなく、自らのアカルサによって滅ぶのであって、相州の暗さは、本質的にはその劇に交わることがない。ただそれは、鼻先にゴロンと異物として存在しているだけなのだ。これは、鴨長明のどこまでも不透明な人物像にも当てはまる。どこまでも透明であろうとする読者の視線をさえぎる影としてのコトバ。「知」ではなく、「知られ得ないもの」の周囲をなでさすり、その感触を生きるコトバ。
 この異物感こそ、おそらく文学のふるさとなのだろうかと、ふと思う。
 郷愁を拒む、荒荒しいふるさと。
 たぶん、『斜陽』に何度となく出現する蛇も、こうした領域に住んでいるのだろう。

 05/03/07


『太宰治全集 2』 ちくま文庫 1988年

 「創世記」から『愛と美について』まで。
 感想のかわりに幾つかの引用。

 むりもないことだ、なぞと理解せず、なぜ単純に憎むことができないのか。
 「姥捨て」より

 「ひとことでも、ものを言えば、それだけ、みんなを苦しめるような気がして、むだに、くるしめるような気がして、いっそ、だまって微笑んで居れば、いいのだろうけれど、僕は作家なのだから、何か、ものを言わなければ暮らしてゆけない作家なのだから、ずいぶん、骨が折れます。僕には、花一輪をさえ、ほどよく愛することができません。ほのかな匂いを愛ずるだけでは、とても、がまんができません。突風の如く手折って、掌にのせて、花びらむしって、それから、もみくちゃにして、たまらなくなって泣いて、唇のあいだに押し込んで、ぐちゃぐちゃに噛んで、吐き出して、下駄でもって踏みにじって、それから、自分で自分をもて余します。自分を殺したく思います。僕は、人間でないのかも知れない。(…)」
 「秋風記」より

 彼は、そのような状態に墜ちても、なお、なにかの「ため」を捨て切れなかった。
 「花燭」より

 「(…)真理は、感ずるものじゃない。真理は、表現するものだ。(…)」
 「火の鳥」より

 好きな文を打ち込むのは精神衛生によい。

 2005/06/24


『太宰治全集 3』  ちくま文庫 1988年

 ここに収められている25篇の短編の中に、かの有名な「走れメロス」が入っている。
 この作品といい、『人間失格』といい、世間は、太宰のきらびやかな作品群の中で、何故ことさらに出来の悪いものだけを選んで崇め奉るのだろうか?
 理解に苦しむ。
 これは何かの陰謀に違いない。

 2006/01/29


『太宰治全集 4』 ちくま文庫 1988年
 
 長編『新ハムレット』他、「ろまん燈籠」「東京八景」等、短編12編。
 太宰の最初の書き下ろし長編が、シェイクスピアの翻案物だというのはちょっと面白い。
 しかも巻末の解題の資料によれば、この作品にかける太宰の意気込みは並々ならぬものだったらしい。
 これから、久々にオリジナルの『ハムレット』を読み返し、ついでに積読になっている大岡昇平の『ハムレット日記』なぞも読んでから、この作品をもう一度読でみるつもり。
 とりあえず、面白かったハムレットの台詞より。

「(…)どだい僕には、どんな人が偉いんだか、どんな人が悪いんだかその区別さえ、はっきりしない。淋しい顔をしている人が、なんだか偉そうに見えて仕様が無い。ああ、可哀想だ。人間が可哀想だ。僕も、ホレーショーも可哀想。ポローニヤスも、オフィリヤも、叔父さんもお母さんも、みんな、みんな可哀想だ。僕には、昔から、軽蔑感も憎悪も、怒りも嫉妬も何も無かった。人の真似をして、憎むの軽蔑するのと騒ぎ立てていただけなんだ。実感としては、何もわからない。人を憎むとは、どういう気持のものか、人を軽蔑する、嫉妬するとは、どんな感じか、何もわからない。ただ一つ、僕が実感として、此の胸が浪打つほどによくわかる情緒は、おう可哀想という思いだけだ。僕は、この感情一つだけで、二十三年間を生きて来たんだ。他には何もわからない。(…)」(青空文庫よりコピー)

 これでいいのかハムレット(笑)

 2006/03/02
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 今日は、数日前に急に亡くなった伯父の通夜だった。
 伯父とは十年以上前に、彼の娘(つまり私の従妹)の結婚式で会ったきりである。死んだと聞かされても、どうもぴんとこない。私がまだ小さいころは、よく両親に連れられて伯父の家に遊びに行ったものだったが、今の私には、彼の死は、ニュースで見る他人の死亡事故と同じくらいに遠いのである。喪主である従兄とその妹に、どういう顔で会えばよいのかわからない(彼らの母親は、十数年前に既に他界している)。彼らとも、幼いころはよく遊んだものである。でも、今は彼らも私には伯父同様に遠い存在なのだ。全てがただ茫洋としてつかみどころがない。何も考えずに、とにかく喪服だけ着込んで外に出た。
 アパートから数十歩の距離に、住宅街の中にぽつんと残された小さな田んぼがある。私は毎日そこを通り過ぎて駅へと向かうのである。今日は道路に面して見慣れぬ看板が立っていた。見れば、田んぼを潰して宅地にするという旨の告知である。がっくりきた。例年に比べて、やけに田植えが遅いと気になっていた矢先なのである。ここに越してきて数年になるが、毎年今ごろから秋口にかけて、稲が苗から青々と生長し、やがて金色に色づいて行く様を、日々眺めるのが好きだった。それも終わりである。
 私はそのとき初めて気がついた。倉庫と住宅街が相半ばしてどこまでもだらだらと続いているこの土地に、私が少しでも愛着を抱いていたとしたら、それはただ、このささやかな田んぼゆえだったのだ。私は駅への道々考えた。私がこの場所に引っ越してから、すでに5年目を迎えている。しかし私の住むアパートの住人は、私を含めて皆ひとり住まいの学生か勤め人で、入れ替わりが激しく、互いに挨拶することすら稀である。周りの住人と接する機会などはなおさらない。アパートの隣に住んでいる大家の老人と時折立ち話をするのが、私の唯一の近所づきあいなのである。つまり、私をこの場所につなぎとめる絆は、一枚の小さな田んぼに対する、これまたちっぽけな感傷に過ぎなかったのだ。私はアハハと笑った。あまり他人には見せたくない笑いである。

 通夜が終わった。私は家族や久々に会った親戚たちと斎場の二階の座敷でしばらく飲食した後、ころあいを見計らって挨拶し、ひとりその場を辞した。ほっとする。従兄弟達と再会できたのがうれしくなかったわけではないのだが、やはりひとりで知らない街を歩いているほうが心地よいのである。斎場の最寄駅である私鉄のM駅からJRのN駅まで、夜の街道をぶらぶら歩くことにする。結局私は最初から、悲しもうという努力さえ放棄していたのだ。私が薄情なのは今に始まったことではないが、例えば十年前の私であれば、そういう自分を認めることができず、とにかく涙の一滴でも無理に搾り出そうとしたはずである。しかし私はいまや自分に何の幻想も抱いてはいない。私はそういう人間なのだ。私はただじっと、カメラのように目の前の儀式を凝視していた。喪主の兄妹をはじめ、親族はみなしっかりしていた。ときおり高齢の女性達がハンカチで目頭を抑えるくらいで、号泣するものもなく、式は淡々と進んだ。
 日本の儀式のよいところは、神だの天国だのと死を肥大化させることなく、むしろ死を日常生活の持続の中に解消してしまうことだと思う。木魚の一定のリズムに乗って、不明瞭で平板な読経が小一時間ほど続く。それは決してキリスト教のように天を指して高ぶることなく、死にゆるやかな水平の歩みを与える。感心したのは、参列者の焼香が済み、読経を終えた坊さんが、おもむろに振り返って、今までに読んだ経文の意味をわかりやすく解説してくれたことである。恰幅よく、頭の剃り跡も青々としたまだ若い僧侶が語るには、それは仏陀が死ぬ直前に弟子達に遺した言葉なのだそうである。私がさらに感心したのは、さも常人には計りがたい意味があるかのように、今さっきまでもったいつけて唱えられていた経文の内容が、実は生と死に対する深遠なる洞察、などではさらさらなかったということだ。欲を少なめに保て、とか、精進せよ、とか、自分を見据えよ、とかその全部で八か条あるという教えは、すべて具体的で現生的でわかりやすい。さすが仏陀である。人間ができている。
 座敷に集まった親族達の顔を眺めるのは興味深かった。弟の口元が従兄のそれに良く似ている。父親の白髪の生え方がだれそれにそっくりだ。兄弟でも親子でもなく、何親等も離れた者どうしが同じ顔をしている。それは気質にも現れており、われわれ一族は、ばらばらのパーツに分解されて渦を巻きながら、全体で一つの漠然とした星雲状のまとまりをなしているのである。しかし、風景としてみれば、私の心を和ませないでもないそれらの人物たちが、「まあまあどうです」とビール瓶を差し向けてくると、私はたちまち苦痛を感ずるのだ。私は聞かれれば、愛想よく近況を語るのだが、その後が続かない。私が相手に何も質問しないからである。私は一体に他人に興味がないのだ。それに同じ血を分かち持っているという感覚は、季節の変わり目に蒲団のぬくもりがむずむずと鬱陶しくなる感じによく似ている。相手にも何となく私の冷たさが伝わるらしく、私の父の目つきと、下の弟の口元と、真中の弟の声を持つキメラであるその人物は、そそくさと隣の卓に移ってゆく。
 喪主の妹と私はあまり年が離れていないので、昔はよく遊んだ仲である。彼女は既に結婚しており、母親似の姉御肌の苦労人で、私にはどことなくつれない。この種の女性の眼力は、私のような頼りがいのない根無草の底を即座に見破ってしまうのだろうと思う。あるいはもっと単純に、ごく幼いころのお医者さんごっこを未だに根に持っているだけなのかも知れぬ。今は気が張り詰めているから大丈夫だと語る彼女は、美しい。その張り詰めた心が、きらきらと目から放射されている。彼女は、まだ30代なのに、両の親を失ってしまったのだ。私はその目の輝きから目をそらす。ちなみに彼女の兄は、私と同じく世間から1メートルくらい浮き上がっているタイプである。私が明日の葬式で何か手伝うことはないかと聞くと、じゃあ喪主をやってくれと気弱に笑っている。顔つきも、物腰も、声も、何かの冗談じゃないかと思うくらいに、亡くなった伯父によく似ている。
 とにかく伯父は死んだ。伯母に先立たれた後の15年にもわたる長い晩年は、辛く淋しいものだったと聞く。しかし宴席ではそんな話題は一切出ない。皆互いの近況を報告しあい、昔話に笑いあっている。それでいいのだろうと思う。葬儀は生きているもののためにある。しかし、この億劫さは何としたことか。早く帰らねば。明日は明日で葬式に出なければならないし。
 N駅への道々何軒かの古本屋を覗く。今日の収穫は以下の通り。『文章教室』は既に文庫本で持っている。金井の作品の中では一番好きな小説である。

『少年と川・島の狐』 
アンリ・ボスコ 天沢 退二郎 訳 福音館土曜日文庫 1985年初版 200円
『文章教室』
金井美恵子 福武書店 1985年 重版 300円


 駅からの帰り道、田んぼはひっそりと静まり返っていた。去年までなら、この時期はカエルの大合唱でうるさいくらいだったのだ。隣家の窓から漏れる明かりを受けて、闇の中、生え放題の雑草がぼんやりと浮き上がっている。引っ越そう。それもなるべく早いほうがいい。そう思いながら、そそくさと通り過ぎた。
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 雨が嫌いである。
 いや、雨が嫌いというよりも、傘が嫌いなのだ。
 さらに正確にいえば、傘を持つのが大嫌いなのである。
 だから私は、天気予報の降水確率がたとえ100%だろうと、朝家を出るときに降ってさえいなければ、絶対に傘は持たない。
 朝はなぜかいつも、今日は絶対降らないぞという何の根拠もない確信に満ち溢れているのである。
 朝から雨が降っていて、やむをえず傘をさして出かけたときも、帰りにやんでいたら出先に置き傘をしてそれっきりである。電車の中に置き忘れた傘も数知れない。
 少々の小雨なら濡れて歩くのもいとわないが、今日のように本当に大雨になって、にっちもさっちも行かなくなったときだけ、コンビニでいやいやながらビニール傘を買って急場を凌ぐのである。
 そんなわけで、一日に二度傘を買ったこともある。
 今月に入って買った傘は、すでに十本を越えてしまった。
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『長鼻くんといううなぎの話』
イオシーホフ作 福井研介 ほか共訳 講談社 昭和48年


 今日、古本屋で見かけて思わず買ってしまったのである。小学生のころ、本が擦り切れるほど何度も何度も読み返した愛読書であるが、いつのまにかどこかに消えてしまってそれっきりの本の一つ。
 いい年こいた男が、そんなものを見つけて他愛もなく喜んでいるのも、あまり誉められた姿ではないのだが、まあいいのだ。200円だったし。
 節操のない好奇心と食欲の持ち主である鰻の長鼻くんが、サルガッソ海で生まれ、大西洋を横切って、地中海にわたり、さらに黒海をへてロシアの川をさかのぼり、そして再び海に帰って行くまでのお話である。いくつかのイメージ、例えば長鼻くんが、ひょんな偶然から地下水脈に迷い込んでしまい、白くて目のない「魚の幽霊」が徘徊する暗闇の中を、地上への出口をさがして幾日もさまようエピソードなどは、私の夢想の底に横たわる「原型」として、今も私の精神の「地下水脈」を成しているとは言えないか。近頃、小学校低学年のころの読書が、人のイメージの原型を作り出すような気がしてならない。
 で、今読み返しても、なかなかのものなのである。

 …しかし、魚たちは、健康とか、健康でないとかという話は、おたがいに、ほとんど口にしません。どうしてそうなのか。それには、わけがあるのです。ぐあいが悪いからといって、それをいいふらそうものなら、海の底のほうから、すぐに救急隊と名のる魚がうかび上がってきて、
「ははあ、病気っていうのはおまえだな。じゃ、応急手当をしてあげよう。さあ、わたしの口の中におはいり。」
 これで、魚の苦しみもおしまいになります。
 魚は、自分が死ぬときがやってきた、と感じたばあい、ようすはすっかりちがうのです。ありったけの声でなきさけんで、なかまや友だちにきけんを知らせます。
「ぼくは、ころされそうだ。みんな、にげろ!」
 でも、人間が生きたままの魚をしおづけにするたるの中になげこんだり、生きたままうろこをはいだり、切ったりしても、魚は声一つたてません。なぜでしょう。
 そんなことをしても、むだだからです。


 名文である。

2005年7月21日
 私は窓から離れ、ベッドにどかっと倒れこんだ。
「そうだ、あの子は僕を楽しませたくてあんなことをしてるわけじゃないんだ」
私は仰向けになって天井をにらみながら思った。かすかな風が薄暗い部屋の中に彷徨いこんできて、汗が薄い膜のようにはりついた私の額を、涼やかな手で撫でた。私は頭をめぐらして再び窓を見た。暗がりの中で、映画のスクリーンのように明るく開いた窓の外では、夕日を浴びて長々と横たわる軍艦のへさきで、相変わらずチカチカと信号がまたたき、私には永久に知られることのない暗号を伝えつづけていた。平野では風が吹き始めたらしく、今まで一枚の鏡のようだった広い水田のあちこちを、無数の細かなさざなみがかき回していた。さっきまでの私の幻想は、まったく破れ去ってしまった。熱による疲れが、待ち構えていたかのように私の両肩をがっしりとつかんで、ベッドに深深と押さえつけた。発光信号は、最後にへたくそな三三七拍子を打ったかと思うと、それっきり途絶えてしまった。もう帰る時間なのだ。年男は夕子にさよならを言い、船尾のS字坂に向かってまっすぐに続く崖の上の道を走っているのだろう。いや、礼儀正しい年男のことだ、玄関口で、夕子の母親に一言あいさつをしているのかも知れない。どのみちそれは私じゃないのだ。
 案の定、へさき近くで整列をしている、同じ形をした五軒の家の真中あたりから、白い米粒のような人影が現れ、甲板のへりの手すりぞいに、船尾に向かってのろのろと動き始めた。それでも年男は、楽しかった今日一日の余韻に顔を火照らせながら、全力疾走で家に向かっているに違いないのだ。米粒は、ときおりぴょこんと小さく跳ね上がった。私に向かって手を振っているのだろう。私はまた考えた。「あれは年男が言い出したことなんだ。あの子はその思いつきが面白くてつきあっただけなんだ。僕なんかどうでもよかったのだ。でも、本当にそれだけだったんだろうか?」
 窓から吹き込んでくる風が次第に強くなってきた。私は肌寒さを感じ、窓を閉めるためにのろのろと起き上がった。年男に向けて、一度だけ手を振った後、カーテンを閉めた。私はそのまま夜更けまで死んだように眠った。今度は何の夢も見なかった。
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『失踪日記』 
吾妻ひでお イースト・プレス 2005年


 作者の実生活を淡々と描いた実録漫画である。
 しかし、描かれる生活そのものは、決して淡々とはしていない。
 作者は何本もの連載を抱える中で、ある日突然失踪してホームレスにまで身を落とし、拾われて肉体労働者となり、その後漫画家として再起するも、こんどはアル中になって幻覚症状を起し、ついには精神病院に強制入院させられてしまうのである。
 思い出すのは山頭火と坂口安吾のことである。
 まず、漫画の表現する堕落が、とうとう安吾の『古都』に追いついてしまったという驚きがある。これは大事件ではないか。
 では堕落とは何だろうか。ここで安吾と一緒に思い起こすのが山頭火なのだ。
 もっとも私は、今まで山頭火を読んだことがない。
 ではなぜ山頭火かと言えば、つい最近、たまたまある人から、「どうしようもないわたしが歩いてゐる」という一句を教えられたからだ。
 私は、山頭火はこの句しか知らないけど、ああ、たしかに堕落とはこういうことなのだと思った。
 「どうしようもないわたしが歩いてゐる」
 つまり、「わたしは歩いてゆく」でも「わたしは歩いてきた」でもない。山頭火は「どうしようもないわたし」を客体視しているのである。「わたしがあるいてゐる」現在のさまを、斜め上方あたりから、じっとカメラのように見つめているのである。ドキュメンタリーである。つまり、堕落とは認識の別名ではないのか。
 吾妻ひでおは、彼独特の、柔らかで丸っこい四頭身の絵で、「どうしようもないわたしが歩いてゐる」様を描き出す。しかし、堕落が見つめるものは自分だけではない。堕落は、自分と同じ地平で、他人をもじっと見つめるのである。それはもう、ただじーっと見つめるのだ。
 『失踪日記』が『古都』に匹敵する傑作たりえているのは、正にこの点だ。安吾は、長編小説『吹雪物語』の執筆に行き詰まって京都に逃げ、貧民窟のような安宿で、ただ碁を打って安酒を煽るだけで1年を過ごす。その目に写った安宿の住民の面々の描写が『古都』の白眉で、そこでは「どうしようもない」人々が、というよりは、人間そのものが持つ「どうしようもなさ」が、同情されることも裁かれることもなく、ただ「歩いてゐる」のである。
 吾妻ひでおが、路上や労働現場や精神病院で出会った人々を描くやりかたにも、安吾と全く同じ精神が通っている。もちろん吾妻が安吾を真似したとか、そういうことではない。ここでは個々の人格ではなく、堕落そのものが思考しているのであって、安吾と吾妻が別々にその地点に達したということに過ぎない。
 で、漫画は何を描きうるのか。その単純化された線が語るのは、人物の「心理」ではない。ごく単純に、その人物がおおよそどんな容姿をしていて、何を語り、どう行動するか、ということである。全てが外面的に、即物的に語られる。吾妻ひでおは恐るべきことに、大体1ページほどの簡単な人物紹介で、その人物の「存在」の全体を描き切ってしまうのだ。そして、この「存在」とは、「どうしようもなさ」と同義である(特に184頁で描かれるアル中患者の「ミニラ」氏のどうしようもなさには、滑稽も悲惨も通り越して、何か厳粛な気分になってくるから不思議です。何かを「見てしまった」という感じ)。存在することそのものがどうしようもないのだ。
 この本の帯には、大きく「全部実話です(笑)」吾妻、とある。そう、笑いとは、視線が存在することのどうしようもなさに反射するときに生まれるものではないのか。『失踪日記』も『古都』も、とにかくムズムズするようなおかしさに溢れている。悲惨なのに楽しい。笑い、たぶん、これが芸術の人生に対する効能の一つなのだと思う。あはは。

2006年1月14日
 それは小さいけれど、強烈に明るい純白の光だった。しかし狂った金星のようなその光は、私の目を数秒の間針のように突き刺した後、突然ふっと消えてしまった。私は思わず窓に駆け寄ると、その正体を見きわめようと身を乗り出した。すると、それを待ち構えていたかのように再び光が瞬いた。それは不思議な間隔をおいて、消えたり閃いたりし始めた。信号だ!軍艦から誰かが私に発光信号を送っているのだ。私はさらに目を凝らした。明滅する白熱した光にくらまされながらも、私は辛うじて、豆粒のような人影が、甲板のへりに二つ並んで立っているのを認めた。一人はこちらに向かって、さかんに飛び跳ねながら万歳の仕草を繰り返していた。そしてもう一人が、その謎の発光体を持っているのだった。二人!私はある予感に、急にぎゅっと心臓をつかまれたような心持がした。私は机に駆け戻ると、引出しを探って父親からもらったオペラグラスを取り出した。私は何かが胸の奥からせりあがってきて、次第に息が苦しくなるのを感じながら窓際に戻った。
 まず両目に飛び込んできたのは、一面の深いコバルト色だった。私は慌ててグラスを下げた。すると家々が下から空を突き上げて現れ、そして、残照を受けて薄いオレンジ色に色づいた壁を背にして、男の子と女の子が立っていた。
 女の子は背筋をぴんと張り、両腕を高く伸ばして、頭の上にまばゆく輝く円盤を掲げていた。彼女はすこし腰をひねって円盤の向きを変えた。すると急に光が消え、円盤は空と同じ色になった。それは大きな丸い鏡だったのだ。彼女はまた体をひねった。再び私の目にしゅうしゅうと白熱する太陽のひとかけらが突き刺さった。目の奥がくらくらするようだったが、私は我漫した。その隣の男の子は大きな双眼鏡を目に当てて、盛んにこちらに手を振っている。何か叫んでいるようだったが、声はここまでは届かない。私も思わず右手を上げて、大きく振った。すると男の子は、双眼鏡をはずし、傍らに立っている女の子に向かって何か話しかけた。女の子はようやく鏡をおろし、男の子から手渡された双眼鏡を目に当てた。彼女は私に大きく手を振った。私は、胸がつぶれるような思いだったが、やはり手を振り返した。彼女は双眼鏡を男の子に返すと、また鏡を持ち上げ、前にも増した激しさで、光を瞬かせ始めた。私はオペラグラスを下ろした。そうだ、グラスを覗く前から、とっくに私は知っていたのだった。男の子は児玉年男。私と同じクラスで、軍艦の丘の向こうに住んでいる。女の子の名前は白浜夕子。今はクラスは違うが、いわゆる幼馴染である。そして彼女は、いま彼女が立っているすぐ後ろの家、甲板の上の、へさきから数えて三軒目の家に住んでいるのだった。
4、小説の言葉

 拙からうが、旨からうが、自分の思つたことを書き得たと信じ得られさへすれば、それで文章の能事は立派に終るのである。何も難しい字句を聯ねたり、色彩ある文字を拾ひ集めたりして、懊悩煩悶するには少しも当らぬ。
『露骨なる描写』 田山花袋
(『小説――いかに読み、いかに書くか』42-43頁の引用より)

 当時、坪内先生は少し美文素を取り込めといはれたが、自分はこれが嫌ひであった。否寧ろ美文素の入つて来るのを排斥しようと力めたといつた方が適切かも知れぬ。そして自分は、有り触れた言葉をエラボレートしようとかゝつたのだが、併し逐う逐う(原文では繰り返し記号)不成功に終わつた。恐らく誰がやつても不成功に終わるであらうと思ふ、中々困難だからね。
『余が言文一致の由来』 二葉亭四迷 (同上、43頁の引用より)

 後藤は、それぞれ日本近代小説の始祖といってよい二人の作家の言葉を引いて、それらを以下のように「読み直す」。

 そして、これをわたし流に解釈すれば、要するにそれまでのいわゆる「文学らしい」といわれた「文学的」修辞のほぼ全否定であって、当時としては、革命的と呼んでいいくらいの(実際それは、現代流行の「記号論」にも通じるような新しさではないかと思う)散文論が前提になっているのではないかと思う。(44頁。斜字は引用者)

 つまり、存在するのは、言葉=日本語だけであって、そもそも「文学的」言葉とか「非文学的」言葉という区分があるわけではない。(44頁)

 これは、当り前のようで、実はよく誤解されるようであるが、小説の言葉というものは、どの国語辞典にでも載っている、ふつうの日本語以外のものではない。(102頁)

 言うまでもないことだが、後藤の小説は、この「わたし流」の「解釈」を徹底的に実践したものである。特に「ですます」調を取り入れた後期の作品の「ふつうの日本語」っぷりは、その見かけの地味っぽさに反して(あるいはとことん地味だからこそ)、まさに「革命的」である。二葉亭によって性急に開始された「言文一致」という名の「革命」が、約一世紀の年月の果てに、ようやく後藤明生において完成したのだ。
 では、後藤のいう「ふつうの日本語」は、いかにして小説の言葉になるのか。後藤は、一番下の引用部分に続けてこう述べる。

 その、ふつうの日本語のどれを選び出して、どう組合わせるか、ということである。その選び方が、その小説家の「自分の言葉」ということであり、その組合わせ方が、その小説家の「自分の文章」ということなのである。(102頁)

 木で鼻をくくったようなふつうさ、あたりまえさである。ここに書かれているのは小学生でもわかる理屈である。いやになるほど「普遍的」で、「一般的」である。しかし、このあたりまえさにこそ、後藤の過激なマニュフェストがあるのだ。後藤は、文学は言葉と言葉の「組合わせ方」にしかない、つまり、より後藤的な表現にいい換えれば、言葉と言葉の「関係」にしかない、と言っているのである。問題は、その「関係」がいかなるものかである。その「関係」が、いかなる亀裂を孕んだ概念であるかである。
 ここで、前章の冒頭に引いた、志賀の「いい色をしてゐた。」という表現と、後藤の「明るくもないし、真暗でもない。」という表現を再び取り上げてみよう。両者ともに「ふつうの日本語」である。しかし、志賀の「いい色」という言葉は、作者=主人公である志賀直哉という存在に直接結びついており、ゆえにそれをとりまくその他の言葉と「関係」を持たない。絶対的で、「神格」化された「いい色」である。
 一方、後藤の「明るくもないし、真暗でもない。」という表現は、志賀の「いい色」の正反対の極北に位置するものである。文学が、いわゆる「文学的」なるものから、これほど離れた地点に達した例を私は知らない。ここにはただ言葉と言葉の「関係」があるだけで、語り手=観察者である「作者」の特権的な視点など、どこにも存在しないのだ。これは「わたし」の言葉でもないし、「われわれ」の言葉でもない。それは「よい」表現でもないし、「悪い」表現でもない。「文学的」言葉でもないし、「非文学的」言葉でもない。ただの「ふつうの日本語」である。のっぺらぼうの言葉である。「誰か」の言葉である。つまり他者の言葉である。ここでなぜか、「ふるさと」という言葉が思い浮かぶ。安吾のいう意味での「ふるさと」である。そう、こうした地点こそ、文学の「ふるさと」ではないか。「ふるさと」とは何か。それは、もはやそこを越えると虚無しかないような地点のことではないか。
 わたしなりに読み換えてみよう。つまり、後藤の言う「方法」とは、言葉と言葉の「関係」そのものであり、「一般」や「普遍」は、その「関係」が成立するような環境のことである。そして「他者」とは?わたしはそれは結局言葉そのものではないかと思う。誰のものでもない、そして誰のものでもありうる、むきだしの、のっぺらぼうの言葉のことである。つまり「ふるさと」のことである。

2005/12/31
3、小説の普遍性

 わたしは、二匹の猫が一目散に駆け降りて行った芝生を見下ろした。芝生は、道路端の水銀灯と、向かい側の棟の階段昇り口の電灯に照らされている。明るくもないし、真暗でもない。
『めぐり逢い』 後藤明生 集英社文庫版(昭和56年)157頁

 自分は何気なく傍(わき)の流れを見た。向こう側の斜めに水からでてゐる半畳敷程の石に黒い小さいものがゐた。蠑虫原(ゐもり)だ。未だ濡れてゐて、それはいい色をしてゐた。
『城の崎にて』 志賀直哉 (『小説――いかに読み、いかに書くか』84頁の引用より)

 おそらく、今までに存在したあらゆる小説の情景描写は、後藤明生と志賀直哉を両極とする間に納まるのではないか、と言いたくなるくらいに、この二つの文章が作り出すコントラストは強烈である。
 そして本書では、「明るくもないし、真暗でもない。」と書いた後藤が、「それはいい色をしてゐた。」と書いた志賀を激しく糾弾しているのである。実際、「いい色って一体どんな色なんじゃい!われぃ!」と、時代も何も飛び越えて、直に志賀直哉の胸倉を掴みかねないほどの勢いなのだ。

 たかがイモリの色ではないか、といってしまえば、もちろんそれまでだろう。しかしそうなれば、他ならぬ志賀直哉が黙ってはいなかったと思う。つまり、これはそのくらい重大な「いい色」なのである。実際、志賀文学評価の分れ目といってもよいくらいだ。いや、ひょっとすると、日本近代文学史の流れにかかわる問題だといっても、けっして大袈裟ではないような気もする。
(85-86頁)

 後藤がこうもイキリ立っているのは、結局「いい色」という言葉が、一切の分析や異論を拒否した、絶対的な「いい色」であって、それが作者=主人公である志賀直哉の「神格」化(後藤自身の言葉)に結びついているからである。「いい換えれば、志賀直哉の「文学」「小説」の中には、作者=主人公と異なる「目」を持った「他者」は存在できない」(87頁)

 私小説は小説の仮構性を排斥した結果、その社会性をも喪失してしまったので、それは作者が「誰」であるかについての予備知識をすべての読者から要求する点で、発表を目的としないで書かれた日記や私信に近づいて行つたのです。
『風俗小説論』 中村光夫 新潮文庫版 昭和44年改版 61-62頁

 これは中村の『蒲団』批判の一部だが、後藤は、この部分を引いて、章の最後で、お前、断罪すべきは『蒲団』じゃなくて志賀直哉だろ!と叫んでいる。だが、中村と後藤の本質的な違いは、志賀をどう見るか、ということではない。後藤は上の中村の言葉に対して、私小説一般に対する批判としては同意を示しているのだが、中村が「社会性」という言葉を使っている同じ場所に、後藤は「他者」という言葉を用いている。これも後藤の言う「読み直し=パロディ」の一つと言っていいだろう。しかし、この読み直しが横切る亀裂は、一見微かなものであっても、おそらく底無しである。「社会性」とは、「同じ」社会であるとか、「同じ」文化であるとか、「同じ」時代であるとか、とにかく同一のグループ内の関係である。つまり「わたし」→「われわれ」の包括関係である。しかし「他者」とは、もはや誰とも知れない相手、必ずしも価値観を共有しているとは限らない「知らない人」のことである。つまり「わたし」←→「誰か」の対立関係である。前者は集団的であるが、後者は個別的である。そしてこの亀裂は、「現代」と「近代」を分かつ亀裂と、たぶん同じ物だ。
 我々は、この亀裂に敏感でなければならない。後藤の「あたりまえさ」は、この亀裂のために、ある種の罠を潜ませている(これを「難解さ」といってもいいかもしれない)。例えば以下の部分である。
 
 「神格」化し「神話」化するということは、分析を拒絶するということである。分析を拒絶することは、一般化、普遍化を拒絶することである。一般化、普遍化を拒絶することは、特殊化することである。そして特殊化することは、すなわち「神格」化することであるが(…) (83頁)

 いい換えれば、これは、いわゆる「文は人なり」ということかもしれない。つまり、志賀直哉の文学が「方法」でない以上、それを凡人たちが抽出して学ぶことは、不可能だろう。(90頁)

 後藤はとにかく志賀に対して怒りまくっている。しかし、上記の怒りはちょっと学者的な本末転倒に見えなくもない。つまり、後藤は志賀の作品が「一般化、普遍化を拒絶する」=「『方法』でない」から怒っているのである。だいいち、方法化できないからイカンというのは、ずいぶん「文学」の通念に反した理屈ではないのか。
 実は、後藤の使う「一般」「普遍」「方法」という、それ自体一般的で普遍的な言葉は、すでに「社会性」と「他者」を分かつ亀裂を内部に含んでいるのだ。それはオーソドックスな意味での「一般化」「普遍化」「方法」ではなく、それらの「読み換え=パロディ」と見なければならない。この説明がちょっと抽象的でわかりにくいと思われたら、何でもいい、後藤自身の書いた小説を一つ思い浮かべていただきたい。何でもいいのだが、例えばそれを『めぐり逢い』として、「『めぐり逢い』は一般的で普遍的な小説である」というテーゼを立ててみる。つまり、後藤の「一般」「普遍」とは、そのような「一般」「普遍」なのだ。ずいぶん奇妙な「一般」であり「普遍」なのである。では、後藤の小説は、いかに一般的で普遍的であるのか。それは、一言でいえば後藤の小説が「ふつうの日本語」で成り立っているということである。からかっているのではない。

2005/12/31
2、「そして」の文学史

 (…)しかし、同じ「喋るように」書かれたものでも、谷崎潤一郎の『盲目物語』が、いかにも物語らしくストーリーを進めてゆくのに対して、『蔵の中』のモノローグは、けっして直線的に進行せず、脇へ脇へとズレてゆく。いったい何を話そうとしているのか、肝心の語り手自身が忘れてしまっているようにさえ見える。いったいどこへたどり着くのやら、皆目見当のつかないアミダクジ式の迷路のようだ。 (107-108頁)

 (…)それはいわゆる意識の流れ、ともいえるが、流れといっても一定の方向に流れるわけではないから、むしろ意識の運動と呼ぶ方がよいと思う。そしてその運動は、いつどこで、どんな記憶と結びつくかわからない。われわれの意識とは、そういう迷路のようなものではないかと思う。この迷路の中では、「時間」もけっして直線的には進行しない。アミダクジ式に折れ曲がり、また、行きつ戻りつ循環するのである。 (109頁 下線は原文では傍点。以下同)

 上に引用したのは、宇野浩二の『蔵の中』についての記述である。
 しかし、後藤の小説を読んだことがある人間なら、これがそのまま後藤の自作の解説であっても、全く違和感がないことに気がつくだろう。
 後藤と宇野の作風が似ているというのではない。また、後藤が宇野を模倣したと言うのも少し違う。やはり、後藤が『蔵の中』を「読み直した」としか言いようがない。では、この「読み直し=パロディー」において反復されているのは何か。「読みとられた」ものは何か。後藤は、それは「方法」なのだと語る。

 (…)しかしいかにドストエフスキーが「天才」であったとしても、ゴーゴリの「天才」を、自分のものにすることはできない。先にも書いた通り、「才能」や「天分」や「個性」は、一般化も普遍化もできないからだ。それでは彼は、ゴーゴリの何を読み取ったのか。彼はゴーゴリの「方法」を読みとったのである。「方法」は一般化、普遍化できるものだ。つまり、読みとって、自分のものにすることができるものだ。逆にいえば、一般化、普遍化できないものは「方法」とはいえない。 (14頁)

 何か難解で独創的なことが語られているどころか、ここで示されているのは、きわめてあたりまえで誰にでもわかる理屈である。しかし、後藤の真骨頂はこの「あたりまえさ」にあると言ってよい。そして、このあたりまえの言葉の連なりが我々を連れ去る世界は、決してあたりまえの姿はしていないのである。
 後藤は「方法」は「一般化、普遍化できる」と語っているが、これは例えば「自然主義」の「主義」や、「耽美派」の「派」のようなものとは全く異なる概念であることは注意すべきだろう。それは哲学と言うよりは、「手つき」に近い何かであり、集団的なものではなく個人的なものである。つまり、「方法」を媒介として見ると、近代日本小説史は、芸術家集団の変遷を追ったいわゆる通史とは似ても似つかない、奇怪な姿に変貌してしまうのだ。
 ちなみに本書の構成は、田山花袋→志賀直哉→宇野浩二→芥川竜之介→永井荷風→横光利一→太宰治→椎名鱗三の順に、それぞれ彼らの代表作が章を分けて語られるというものである。つまり、明治から敗戦に至るまでに活躍した作家が、オーソドックスな時系列に従って並べられている、一見きわめて普通の構成だと言ってよい。しかし、本書が例えば中村光夫の『風俗小説論』や『日本の近代小説』『日本の現代小説』二部作に似ているのはそこまでである。中村の著作においては、社会と芸術家集団とのせめぎあいを軸とした変遷の全体が、一貫したパースペクティブの元に、見事に視界に浮かび上がってくるのだが、本書をいくら読んでも、全体の見取り図のようなものは見えてこない。中村の歴史把握が視覚的だとすれば、後藤のそれは、徹頭徹尾触覚的なのである。手触りによる歴史と言ってよいかも知れない。
 『蒲団』と、そこで読み直され、パロディー化されているハウプトマンの『寂しき人々』、芥川の『藪の中』と『今昔物語』、宇野の『蔵の中』とゴーゴリの『外套』、『墨東綺譚』とジッドの『贋金作りの日記』…こうした「関係」の中で立ち現れてくる「歴史」は、横から眺められるものではなく、あくまで具体的実践に関る何かである。それは時間軸に沿って進行する歴史ではなく、「読む←→書く」の循環運動によって無方向に増殖して行く歴史である。それは大きな歴史ではなく、小さな分子状の歴史である。それは「正しい」歴史ではなく、「唯一の」歴史でもなく、何度でもそのつど「読み直し」され、姿を変えて行く歴史である。この視点から、後藤の以下の「あたりまえの」言葉は理解されねばならない。

 もちろん以上はすべて、断るまでもなく、あくまでもわたしの読み方である。(64頁)

 さて、このような小説群のおりなす時空は、「そして私は質屋に行かうと思ひたちました。」という書き出しで始まる『蔵の中』の世界に何と似通っていることか。それらは「けっして直線的に進行せず、脇へ脇へとズレてゆ」き、「いったいどこへたどり着くのやら、皆目見当のつかないアミダクジ式の迷路」であり、「行きつ戻りつ循環する」のである。後藤は、『蔵の中』の書き出しの「そして」に注目する。

 (…)したがって、この書き出しの「そして」は、はじまりであって同時に終わりであり、終わりであって同時にはじまり、でもある。すなわち、もっとも意味のない接続詞「そして」によってはじまり、迷路的、アミダクジ式に語られてきたこの小説は、ちょうど自分の尾をくわえた宇宙蛇のように、ぐるりと循環して、ふたたび書き出しの「そして」に戻る。 (111頁)

 後藤や宇野の小説の中で、いや、あらゆる小説の中で読み取られるべく眠っている「歴史」とは、このようなものではないかと思う。これらの「歴史」は、一直線に流れ去るのではなく、「読む」という「現在」と際限のない循環運動を起こすのである。あらゆる小説は「蔵」ではないか。

 (…)そして作者は、その「三日間」の中に、「私」の四十何年かの過去を、ちょうど質屋の中の蔵の中にとじ込められた着物や蒲団のように、詰め込んだのである。(110頁)

2005/12/29
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『小説――いかに読み、いかに書くか』
後藤明生 講談社現代新書 1983年


 著者が行なった講義を、自身でリライトしたものである。
 この、あまりに直球的なタイトルを持つ本書の冒頭で、著者はこれまたあまりに直球的な問いを放つ。
 すなわち、「なぜ小説を書きたいのだろうか」
 恐るべきことに、答は直ちに示されるのだ。
 「それは小説を読んだからだ」
 
1、読む←→書く

 「なぜ小説を書きたいのだろうか。それは小説を読んだからだ」
 これが本書の中核をなすテーゼである。
 しかし、ここに学者くさいディレッタンティズムや「ポストモダン的」ニヒリズムは微塵もない。これは、あくまで実践にかかわる問題なのだ。
 その上、後藤が使う言葉は、皆平易で、誰でも知っている言葉ばかりである(ここにむしろ後藤の野心が存在することは後で述べる)。
 後藤はここで「パロディー」という言葉を持ち出す(これも誰でも知っていながら、使い方を誤りやすい言葉だ)。
 後藤は「パロディー」をこう定義する。

 つまり、自分たちの先輩によって書かれた先行作品を、いかに読みとるか、いかに読み直すか、ということである。そしてそれを、いかに自分流に「変形」「発展」させるか、ということである。(13-14頁、下線は原文では傍点)

 つまり、ドストエフスキーの『貧しき人々』はゴーゴリの読み直し=パロディーであり、花袋の『蒲団』はハウプトマンの『寂しき人々』のパロディーであり、芥川の『藪の中』は『今昔物語』のパロディーであり…というわけだ。本書は、この「読む←→書く」という関係を、ひたすら列挙し続ける。そこに現れるのは、ある種の歴史である。実は、本書全体が一つの読み直し=パロディなのだ。そして読み直されるものが何かと言えば、それは日本近代小説史の全体に他ならない。さらに言えば、後藤は明らかに、本書で中村光夫の『風俗小説論』のパロディーを試みているのだ。

2005/12/29
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『首塚の上のアドバルーン』
後藤明生 講談社文芸文庫 1999年


 この小説が書かれたのは1986年から89年、バブル真っ盛りの時代である。
 著者は幕張の新築マンションの14階に引っ越してくる。小説は、その14階のベランダから眺められる急速に変貌してゆく千葉の湾岸地域の風景を出発点にしている。ちなみに今調べたら、この時期はちょうど京葉線の開通前後にあたる。幕張メッセがオープンしたのが89年、ついでに東京ディズニーランドの開業は83年である。このイケているようないないような極めて散文的なロケーションからして、何と言うか、非常に後藤明生的だと思う。
 著者は眼下に見下ろされる湾岸道路沿いの、どう贔屓目に見ても個性的とは言いかねる風景のディテールを、奇妙な情熱を込めて語り出す。その中で、屋内テニス場である「黄色い箱」の背後に見える「こんもり繁った丘のようなもの」が次第に著者の興味を惹きつけてゆく。やがてそれは「馬加(まくわり)氏」なる室町時代の地方領主の首塚であることがわかる。そこから小説は、様々な「首」をめぐって、「太平記」や「平家物語」をはじめとする膨大な文書の海に漕ぎ出してゆくのである。
 後藤明生の面白いところは、現在の千葉の慌しく変化してゆく時間と、文書によって掘り起こされるいわば考古学的、地層的な時間の間に何の垣根も設けていないことだと思う。この意図的な遠近法の廃棄はまず高層マンションから眺められる地表の風景として予告される。そこに現れる特権的な色彩は「黄色」である。後藤はクレーの絵「建造中のL広場」についてこう語る。

 (…)それらの家や塔やドームはL広場の周りに、すでに存在しているようにも見える。同時に存在のPlanに過ぎないようにも見える。存在と存在予定(原文では傍点)の中間といった不安定な存在の仕方です。
 未定、予定、未完成、不確実、不安、変化の予兆、存在と非在の中間、緑と茶あるいはオレンジの境界。黄色というのは、そんな色かも知れません。つまり「建造中」です。建築現場の色です。横にひょろ長いS字に囲まれた黄色い地面に書かれた、L・Platzの文字は、建築現場の資材にエナメルで塗られた標識のようにも見える。

(70-71頁)

 上の引用に後藤の文学精神を読み取ることはたやすい。後藤の小説は、このニュアンスを欠いた「建造中」の黄色で端から端まで塗りたくられている、というか、書かれている言葉そのものがそういう性格を持っている。後藤の後期の小説をしだいに占めてゆく書簡風の「ですます」調は、まさに「クレーの絵」と「建築現場」をなかだちする機能を担わ されているのではないか。
 でもここに現れているのは、全ての差異や遠近が撤廃された平坦な空間なのではないと取リあえず言っておきたいと思う。後藤のよく口にする「楕円」理論においても、二つの 「焦点」そのものが消失するわけではないからだ。「黄色」は、それ自身としてはニュアンス を欠いていながら――むしろ、そのために――他のあらゆる色彩とそのニュアンスを通過するのである。先の引用の直後から続けて見る。

 黄色い地面のところどころに、薄い黄緑の塊が見えます。その一つが、S字道路に面した真正面の、黄色い四角い家のすぐうしろにあります。黄緑の塊は黄色い家の半分くらいです。しかし、黄緑と黄色は互いに境界を無視して、相手の領域内にはみ出しています。つまり緑の下半分は黄色い家の屋根にかぶさっており、一方、四角い四階建ての黄色い家の、三階および四階の窓は緑の領域に割り込んでいます。
(71頁)

 この「互いに境界を無視して、相手の領域内にはみ出」る運動が、後藤の全ての小説を貫いていることは言うまでもない。でも後藤の真骨頂は、この後に続く一言にあるように思われてならない。

 ここで、あっとおどろきました。L・Platzとはどこにあるのか。もちろん、どこだって構いません。クレーの『建造中のL広場』は一九二三年作となっています。しかし、それは一九八七年の十四階のベランダからの眺めそっくりです。S字型六車線に面した巨大な黄色い箱とその後ろの首塚の丘にそっくりです。(71頁)

 後藤のすごさは、ここで「あっとおどろきました」などという、むしろ読者の緊張に水を差すような、調子外れで素人くさいフレーズをさしはさむところにある。 なんせ「あっとおどろきました」である。しかも、読者は先行する風景描写で、とっくに二者が「そっくり」なことには気がついているのだ。そこで、白々しくも真剣に「あっとおどろ」いてみせること。作者と作中人物との関係にも「楕円」を持ち込むこと。この反=韜晦とでも言うべき困難な身振りに、後藤の抱える危機と、そこから生まれる創造の秘密が隠されているように思う。全て平均化された黄色の世界のただ中において、あらゆる色彩を見出すこと。しかし、それらの色彩を決して固定せず、常に黄色に立ち戻ること。こうして、むしろ各々の色彩は、固定して死んだ状態ではなく、純粋な運動として立ち現れてくるのである。
 そう、新田義貞の首も平家物語の数々の首も馬加氏の首も、現在の湾岸地域の殺伐とした日常と、確かに繋がっているのだ。これは「文学上」の関係ではない。むしろ、その「関係」のために文学がある。しかし、その関係を生きるためには、決してある出来事を特別なドラマに仕立て上げてはならない。全てを語り終わり、またもとの黄色に戻った後に「あっとおどろきました」などとトボけてみせればよいのだ。

2005/11/14
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『四十歳のオブローモフ』 
後藤明生 文藝春秋 昭和四十八年


 作者自身の影と見られる団地住まいの作家の日常を、とりとめもなく綴った小説、とまずは言えるのだが、さてその先が難しい。
 とにかく、面白いのです。でも、その面白さの質を説明するのが、これほど面倒な作家も珍しいと思う。
 主人公の作家は、色々な次元で「宙吊り」の状況を生きている人物である。
 まず、東京近郊のマンモス団地の104号棟の303号室という、彼とその家族の住居がいかにもという感じだ。5階建てのちょうど真中なわけである。
 次に表題にもある彼の年齢。四十歳が「不惑」とされるのも、人生五十年と見なされていた時代の話で、例えば、主人公を襲う「二日酔いからさめかけの不安」なるものは「何故だかわからないが、世界中の一切のものから自分一人が忘れ去られてしまうのではないか、といった不安なのである。生きながら、土中に葬られるような、恐怖なのである、叫んでも、訴えても、誰一人振り向こうとはしない」といったものである。
 この感情は主人公が小学生時代、だれもいない夏休みの校庭でぽつんと一人で立っていた時の記憶とはるかに連なっている。少年時代を朝鮮半島で過ごした主人公は、終戦で福岡に引揚げ、そこで青春時代を送るのだが、彼はその「第二の故郷」にはついに馴染むことがない。主人公は講演のために福岡に帰省し、母親や兄弟の家族と一緒に花見に出かける。そこで主人公がノスタルジーに襲われるとすれば、当然それは極めて屈折した姿を取らざるを得ない。

 西公園は宗介の故郷ではなかった。その西公園の展望台から、埋め立てられて石油コンビナートになった博多湾を見下ろしながら、宗介は北朝鮮の小学校の、夏休みの校庭を思い出していた。そして、それは何故だろうかと考えていたのである。それは失われたものだからであろうか?それとも、どうしても失うことのできぬものだからだろうか?(268頁)


 これまでクスクス笑いを伴いながら語られてきた主人公の「宙吊り」状態の水面下で、故郷喪失者の悲しみが途切れることなく基調低音を奏でていることが、次第に明らかになってくる。
 ところで、「宗介」という名前は、夏目漱石の「門」の主人公と一字違いであり、「オブローモフ」は、ゴンチャロフなるロシアの作家の小説に登場する怠け者の名だということである。しかし、本書で作者が最も意識をしているのは二葉亭四迷の『平凡』だろう。(ちなみに以上のことは、後書きで後藤本人が語っていることです)『平凡』の飼い犬にまつわる甘美で悲痛なエピソードが、本書の最後で唐突に再現される。宗助の小学生の長男が子犬を拾って来るのである。当然団地では犬は飼えない。

 お父さんだって我慢しているんだ! と宗介は叫び出したい気持ちだったのである。そして長男を力一ぱい抱きしめてやりたかった。長男はいま、悲しみを経験している。その小学五年生の悲しみが、人間そのものの悲しみであるように思われたからだ。
 (…)
「とにかく、何か食べ物をやろうじゃないか」
 そのとき長男が、とつぜん、しゃくりあげた。宗介は耐えた。四十歳の男として、その人生におけるすべての経験の名において、何としてでも長男の悲しみに耐えなければならない。
「とにかく牛乳を飲ませてやろう。それからお父さんと一緒に、その犬を捨てに行こう」
(334-335頁)

 宗介は、自分の「父親の役を演じている大根役者」ぶりを強く意識しながら、煙草を一本取り出してくわえるのだが、その一瞬の間に、不可思議にも、息子と子犬は彼の眼前から消えうせてしまう。

 玄関のドアは外側に向かってあけ放しのままだった。したがって、宗介の真正面に見えているのは、階段を挟んだ向い側の、閉じられたドアだった。304である。サンマルヨン。火のついていない煙草をくわえたまま宗介は、青ペンキで塗られた鉄製のドアに書かれた、白い数字を見ていた。 (337頁)

 これが小説の結びである。夏目漱石や二葉亭四迷と、後藤明生とを隔てる何かが、ここに現れているように思う。近代の文豪は、やりかたこそ各々違え、とにかくある「全体」を小説に詰め込もうと試みたのではないだろうか。それに対して、後藤明生の場合、「全体」は「外部」にあると言うべきだろう。この「外部」とは、小説に描かれている時制の過去や未来としてあるもの、つまり、失われたものや、来るべきものではなく、また、本を読み終えた我々が再び目にするもの、つまり、この現実でもなく、ある「絶対的な外部」であって小説は、その絶対的な外部の気配を常に背後に感じながら、ひたすら宙吊りの時間を生きてゆくことになる。「全体」は、完成されうるものとして存在するのではなく、むしろその不可能性と不可視性を存在基盤としている。後藤明生にとっての「故郷」とは、そうしたものの化身だとは言えないだろうか。

2005/11/08

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しかし、こういうのはいかがなものかと…
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『麦秋』 小津安二郎 監督 松竹作品 1951年

 『山の音』と『麦秋』は、両方とも鎌倉を舞台にしている。
 それにしても、この二つは本当に同じ土地なのだろうか。ここに描かれているのは実は別の宇宙ではないのか?
 両作品共に、鎌倉そのものの情景描写はそう多くはなく、物語は大抵家庭という限られた空間内で起こる。しかし『山の音』においては、登場人物たちが何度となく行き来する長々と続く竹垣の道が、その場所一つで鎌倉という土地のエッセンスを映画全体に波及させていて、見るものに登場人物たちの家庭の外部に広がっている空間をごく自然に納得させる。小高い鎌倉の山々をすぐ背後に控え、あの丈高い垣の中に閉ざされて、影の多いあのドラマは進行するのである。
 一方『麦秋』はどうか。そこに現れる風景を思いつくままに挙げれば、由比ヶ浜に打ち寄せる波を捉えた冒頭のショット、いかにも観光名所然とした鎌倉の大仏、家出した兄弟が歩いてゆく海岸沿いの国道、駅のプラットフォーム、踏み切り、家の前の路地、あとは鳥かごの背後に立つ山の背を捉えた挿入ショットくらいだろうか。しかしこれらの情景はどれも、鎌倉固有の表情を示しているというよりは、むしろ極度の抽象化によって、ほとんど匿名の空間と化してしまっているように見える。それらは現実の場所であるには、あまりにまばゆすぎるのだ。露光しすぎた写真のように、そこに残されているのはいくつかの輪郭線にすぎない。原と三宅邦子が語らう浜辺も、ただ浜があり波が打ち寄せているというだけで、太平洋岸であればどこでも構わないのではないかと思われる。また、原の部屋を訪れた淡島千景が、こんな所に住みたいとしみじみ語るのだが、そう語る彼女の背後の窓からは隣家の壁しか見えないのだから、むしろこれは相当人を喰った態度だといわねばなるまい。
 しかし、このように根っ子を欠いて浮遊する空間には、何か懐かしい匂いがしないだろうか。地理的、社会的、家族的関係の文脈が織り成す網目から解き放たれ、匿名のままで、ただそこに在る風景。それは、ごく幼い子供が生きる世界に似てはいないだろうか。彼らは、曲がり角や壁の向こうに何があるのかを知らず、何かがあるだろうという事さえも考えない。彼らには過去も未来もない。永遠に続く現在のみがある。彼らにとって、自分の家は名前をもたぬ単なる家であり、そして唯一の家である。もちろん『麦秋』が子供の視点から描かれているなどと主張したいわけではない。しかし、子供の即物的な視線は、無機質なキャメラの眼にきわめて近い場所にあるのだ。例えば『麦秋』の兄弟にとって、耳の遠い祖祖父は、尊敬を受けるべき年長者ではなく、紙と一緒にキャラメルを反芻する草食動物のようなものに過ぎないのである。
 おそらく、子供に対する視点は2つある。一つは子供を大人に至る段階の一つと見なす視点である。つまり、子供とは未完成の大人に他ならない。これは一般的で、成瀬も共有している態度である。もう一つは、子供はそれ自体全きものであって、大人とは本質的に異なる、独自の世界を持った生き物だという考えである。小津がこの思想の体現者であることは、『突貫小僧』や『生まれてはみたけれど』を見れば明らかだろう。
 『麦秋』の幼い兄弟の最大の関心事は、鉄道模型のレールを買ってもらえるかもらえないかという事である。彼らは、『山の音』の出戻り娘の連れ子と何と違っていることか。彼女はまだ幼いながら、現在不幸であるばかりか、この先もずっと不幸でありつづけるだろうという逃れがたい運命が、あらかじめ額に深く刻印されているかのようである。彼女は長じて、杉葉子が演じる山村聡お付きの事務員のような女になるのだろうか?あの仮面のように硬直した白い顔の奥で、黒目がちの瞳だけギラギラと光らせて、ただ醜悪な世界を眺めているような女に?しかし彼女はいまだ発言権を持たず、情景の一つであるばかりで、ドラマの本筋に介入することはない。いわば彼女は登場人物たちの社会的=家族的力学関係が成すヒエラルキーの末尾に、子犬のように、辛うじてしがみついているだけの存在なのだ。
 一方『麦秋』においては、物事の重大さを区別するヒエラルキーがそもそも存在しないのである。出来事は原節子の縁談話からレールを買ってもらえないことに憤慨した兄弟の抗議行動へと、何の分け隔てもなく連鎖してゆく。むしろ、父親との口論の果てに長男が畳に投げつける食パンが、映画全体の中で最も暴力的なショットとなって、見るものの瞳をうつだろう。
 この違いには一見平凡な説明がつくように思われる。つまり、これは基本的には平穏無事な中流家庭の物語と、崩壊の危機にさらされている家庭の物語との違いなのだ。子供をかまってやれる状況と、そうでない状況が生み出す差なのだと。この説明は、確かに間違ってはいない。おそらくここで、小津の題材選択の「ブルジョア的」態度に対する批判が起こりもするのだろう。しかし、これは映画の構造そのものに関わる問題なのだ。映画にじっと目を凝らせば、小津の世界に対する眼差しは、ブルジョア的であるどころか、むしろアナーキストのそれに近いことが分かる。そして、小津の映画においては、子供こそがそのアナーキズムの体現者となり、拡散する光の徴を帯びるのである。
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『山の音』 成瀬巳喜男 監督 東宝作品 1954年

 小津安二郎と成瀬巳喜男について、この場を借りて考察してみたい。フォルムの問題はひとまず置いておこう。まず、小津と成瀬の人物の造形と演出を比べてみる。

 成瀬であれば、ある人物とはその出自と歴史そのものだと、とりあえず言っていいかと思う。これは成瀬に限らず、多かれ少なかれ大抵のドラマに当てはまる言葉でもあるのだが、成瀬はこのテーゼを見事に映画的に結実させた数少ない一人だと言うことはできる。成瀬の映画ほど出身地不明の風来坊に縁遠い環境はない。登場人物は端役に至るまで、その社会的、経済的な環境と、その中でどう生きてきたのかが、最初の一瞥で分かるような造形がされている。そして、それぞれの人物の転変=歴史が、そのまま映画の物語と一致している。大抵その転変=物語はペシミスティックで、結末は現状の肯定か諦念か悲劇かであって、主人公の主体的な努力が新しい展開を生むといったカタルシスはまずあり得ない。感動を生むのは、登場人物たちにこうしてやり切れぬまでに蓄積された歴史が、彼らの表情や立ち振る舞いに刻む陰影である。その極北が「浮雲」だと言ってよいだろう。高峰秀子も森雅之も、戦時中の己の歴史に裁かれるかのように、ゆっくりと、しかし有無を言わせぬ足取りで滅びてゆく。
 例えば、成瀬の「山の音」の家族の情景を眺めてみる。
 夫のつれなさと浮気に苦しむ原節子。その夫である身勝手でどこか虚無的な上原謙。彼に既に家督を譲り、家族の崩壊を傍観するほかはない山村聡。そして母親と子連れで家を出てきた小姑。二人はそれぞれに、卑小だが、それゆえにますます癒しがたい悲しみを抱えている。片方の傷は未だ生々しく、片方のそれは久しく諦めのベールを被っている。演出が、照明が、キャメラが、至る所に陰影を、空洞を、距離を、空間に彫り込んで、それぞれの思いを抱えた登場人物たちの姿を文字通り「浮き彫り」にしている。
 ここで唐突に小津の「麦秋」に目を転ずる。すると、先ほど丹念に彫り込まれた陰影が、眩い光によって全て埋め立てられて、平坦になってしまったような印象を受ける。
 例えばこれは一体どういうことなのか。映画の最後の方で、原節子の上司の佐野周二が、別れの挨拶に訪れた彼女の前で、いきなりヒャハハハハッと、ヘンな笑い声を立てる。で、このヘンな笑い声は、いささかの演技的な意味もニュアンスも帯びていない。この人物の出自も、歴史も、性格も、心理も説明しない。ただ佐野周二が、ヒャハハハハと変な声で笑った。それだけである。もしかしたら森雅之も、笑うときはヘンな笑い方をするのかも知れないが、成瀬も、その他の殆どの監督も、こういう意味のないノイズは排除し、劇中人物の造形に相応しい特徴のみを「彫り出して」画面と音声に残すだろう。しかし小津は、そのようにして出来た空隙を、むしろ再び埋め戻してしまうのである。
 成瀬に限らず、古典的なドラマの時空間においては、ドラマに奉仕する重要性の度合いにしたがって事物が選択され、秩序立てられ、それに奉仕しないものは排除される。極端な話、深刻な場面で何の意味もなく役者がクシャミをすれば、それはNGとなるわけだ。
 通常の意味での優れたシーンとは、本来ただの混沌に過ぎないこの世界に対して、役者の演技と照明とキャメラとが全力を挙げて夾雑物を排除し、ある方向性を抽出することによって成立する。重要なのは、この操作が本質的には足し算ではなく、引き算であることだ。キャメラはフレームで回りの世界を排除する。照明とは光と影によって、のっぺりした素材の空間を彫り抜くことである(これは、成瀬の逆光気味の空間には、特によくあてはまるテーゼだ)。役者は、どうだろうか。確かに彼らは無から有を作り出す。しかし、それは無限の選択肢を持つ運動のバリエーションから、ただ一つの動きを選択することによってである。それらの作業によって、世界は初めて沈黙を破り、あるいはわめき続けるのをやめ、「人間的」になって、何かを視覚的に語りはじめる。驚くべきことに、人はそのようなシーンを「リアル」などと呼んだりもするのだ。
 また、編集技術やフェードのような技術も、混沌から有意味な時空間を彫り出すのに奉仕するものであることは言うまでもない。さらに言えば、人間の知覚そのものが、そのような選択と排除に基づいており、映画の歴史とは、本来選択も排除も行わない機械の眼を、何とかごまかしごまかし、人間の目に近似しようと努力をして来た歴史に他ならない。
 ところが、小津はこう静かにつぶやくのだ。
「俺には、こんなゴマカシは容認できない」と。

*しつこく某掲示板のお蔵出しシリーズです。これはかなりの長文なので、何回かに分けて掲載する予定ですが、結局尻切れトンボで終わっているので、これを機に加筆して完結させようかなと思っています。
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『清作の妻』 
増村保造 監督 大映作品 1965年


 3年ほど前に、某掲示板に初めて投稿した長文です。そのときの話題は、増村保造と谷崎潤一郎が共通した資質を持っているか否かというようなものだったと思います。「その1」と「その2」でトーンががらりと変わっていますが、たぶん「その1」を読んだ論争相手から、文体についてなにやら文句を言われたせいだと思います。よく覚えてませんが、たぶん「冗長だ」とか「わかりにくい」とか言われたのでしょう。確かに久々に読み返してみると、我ながらかなり読みづらいので、少し手を加えました。あまり代わり映えはしませんが。(笑)

その1

 『清作の妻』を恋愛映画と呼びうるだろうか。
 恋愛映画が、男女が出会うことによって、彼らが愛や幸福を獲得したり失ったりするドラマだとすれば、この作品は恋愛映画ではないとひとまず断言しておこう。愛や幸福は、大抵の恋愛映画にあっては、ある種の財貨のような動きをする。それらはあらかじめ欠乏していたり、ふいに贈答されたり、逆に失われたりするのだ。
 しかし、『清作の妻』の主人公、かねを演じる若尾文子は、何ものも欠いてはいない。彼女は貧困ゆえに若くして妾に出され、その後も様々な酷い運命に翻弄されるのだが、最初から最後まで、彼女の魂は何も失いはしなかったし、余分な何かを得ることもない。映画の冒頭、彼女が高台から造船所を見下ろすショットから、すでに若尾文子はひとつの全き存在である。彼女は海から吹き上げる風に髪をほつれさせ、造船所が唐突に立てる騒音に顔をしかめる。その顔面の白い肌と黒い瞳は、肉体の一部というよりは、光学的な魂とでもいうべきだ。白黒の画面は、その統一されたトーンゆえに、魂の持続を表すのには最も適した媒体なのだ。それにふさわしく、若尾文子はいつも無表情で一本調子である。
 我々は確かに泣いたり笑ったりするだろう。しかし、我々の魂の在り様そのものは、泣いたり笑ったりはしない。泣くときも、笑うときも、魂は常に同じ基調低音を奏で続ける。これが魂と心理の違いである。カラーには心理が、つまりその時々の状態が現れる。白黒には存在が、つまり魂が現れる。醜くあれ、美しくあれ、魂は持続する。『清作の妻』はひたすら若尾文子の魂が描く孤独な軌跡を追いつづける。この徹底した孤独に比される映画が他にあるとすれば、ブレッソンの『少女ムシェット』くらいだろう。

その2

 こんばんは。
 たしかに夕べのレスは自分で読み返してもチト暑苦しいですな。
 まあ、真夜中にしたためる手紙って、往々にそうなるよねってことでご容赦を。
 じゃあ、さくっと書いちゃいますと、『清作の妻』においては、確かに近代に対する一女性の反抗が描かれている。それは間違ってはいないと思います。しかし、映画の中では、決して快楽や恍惚が至上の価値として置かれているわけではない。むしろ男女の肉体的な愛は、主人公の行う高度に倫理的で残酷な選択の「賭け金」としてのみ、価値をもっているように見えます。これは谷崎とは根本的に異なる態度ではないでしょうか。
 かねと清作の、幸福であるべきふれあいのシーンにおいて、かねはむしろ、切迫する不安に常に怯えているように見えます。そしてそのような場面では、必ずメランコリックで単調な音楽が途切れることなく続いているのです。つまり快楽は、更なる孤独と試練への前奏でしかない。さらに快楽は、かねの全世界を敵に回した闘争への賭け金である以上、常に喪失の危機にさらされているのです。さらにいえば、愛すらもまた、魂の行動への賭け金にすぎないのではないか。
 ところで、『清作の妻』と谷崎潤一郎の『春琴抄』には、共に主人公が眼を突いて失明に至らしめる場面があります。でも、両者の意味合いはかなり異なっているように思えます。
 『春琴抄』では、主人公佐助は、主人である盲目の三味線師、春琴の顔が傷つけられた時、それを見られたくないという春琴の願いを永遠に成就すべく、自分の眼を突きます。

「…程経て春琴が起き出た頃手さぐりしながら奥の間に行きお師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額づいて云った。佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思していた。佐助はこの世に生まれてから後にも先にもこの沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかった…」

 件の場面をそのまま引用してみました。これは性交のシーンではありませんが、二人の人物の心を隔てる垣根が完全に取り払われ、快楽と幸福という、元来そうそう簡単に交じり合う性質にない二つの要素が、奇跡的に一つに溶け合っている(余談ですが、マックス・オフュルス監督の『快楽』という映画のラストの台詞は「しかし幸福は快楽とは違うのです」 というものです)。
 一方『清作の妻』で、かねが清作を兵役から逃れさせるために、出征の日に彼の目を突く場面では、事情は大きく異なっています。彼女は国家と夫の名誉に逆らって、すべてを賭した選択をする。この選択は衝動的なものとして描かれてはいますが、同時にかねにとっては逃れることのできない必然的な選択だったはずです。しかも彼女の行動は、とうてい清作の理解の及ぶものではない。増村は、愛というものに対してこう考えているように思われます。愛は、恍惚でも幸福でも理解でも官能でもない。それはひとつの魂の行動原理であり、その孤独な軌跡だと。つまり、ある決断とアクションなのだと。
 ラストでは、清作は刑務所から戻ったかねを理解し、許します。しかしその相互理解は、たった一度の口づけといった瞬間の官能を通して得られたものではなく、苦痛を極めた経験の末に得られたものです。そして二人は「村から逃げたら負けだ」という倫理観の元に、苦痛と屈辱に満ちた生活を死ぬまで続けて行くのです。

 結局長々と書き連ねてしまいましたが、まあ許してください。ついでに結論じみた感想を書かせてもらえれば、今述べたことは、増村と谷崎の資質の違いということに止まらず、おそらく映画と文学の本質的な違いをも示しているのではないでしょうか。
 『清作の妻』においては、映画はひたすら若尾文子の立ち振る舞いを追いつづけます。彼女の走る姿、けだるげに寝転ぶ姿。そしてぶっきらぼうに時々吐き出される艶消しのアルトの声。彼女のアクションとそれに対するリアクション。映画の骨子はそれだけです。彼女を取り巻く人物たちが、やたらに泣き、大笑いし、大言壮語し、怒号を張り上げるのとは対照的に、彼女は必要なことしか喋らず、自分の魂に照らして必要な行動以外はとりません。つまり、これはある意味で、ハードボイルドなアクション映画だといってよいのではないでしょうか。一方、谷崎の小説にあっては、官能によって達せられる永遠がその頂点をなしている。つまり、そこでは空間や時間、人間の行動といったものは全て廃棄されてしまいます。いずれも、互いの分野では不可能なことではないでしょうか。谷崎は魂がひとつに溶解するさまを描く。『清作の妻』はひとつの魂に寄り添い続ける。
 ..と、あなたの質問をよそに、延々と私の魂の状態を書き綴ったわけですが、まあ所詮そういうものなのです。人は結局孤独なのだ。嗚呼。愛とは理解ではない。断じて。
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『谷間の百合』
バルザック 石井一 訳 昭和48年


 相容れぬ二者の相克を描く、というバルザックお得意の手法は、本書でも肉体対精神という対立の中に余すことなく示される。
 一言でいって、本書は「エロい純愛小説」である。きわどい描写があるのではない。
 不幸な結婚生活に苦しんでいる美貌の伯爵夫人と、やはり不幸な出生の影を背負う純粋な若者が落ちて行く道ならぬ恋は、夫人の堅固な貞操観念に守られ、最後まで精神的なものに止まる。しかし、神ならぬ人間が、地上で無理なくそんな恋を貫徹できようはずもなく、青年は別の人妻と肉体の恋に溺れて行き、それを知った伯爵夫人は嫉妬と抑圧された欲望に身も心も苛まれて、ついには命を奪われてしまうのである。
 バルザック的悲喜劇を体現する人物とテーマは数あれど、対立や矛盾の、死に至るまでの相克を描くのに、この「貞操」というテーマは特権的な位置を占めているように思われる。興味深いのは、バルザックが結局は、この観念に対して、価値判断を放棄しているように思えることだ。バルザックの小説において、貞操を最後までつらぬく女性は、必ずといっていいほど悲劇的な結末を迎えることになる(例えば『従妹ベット』のユロ夫人がそれである)。しかしバルザックは、貞操は不健康な偽善であるなどとは決して唱えはしない。もちろん貞操万歳とも言わない。それは良し悪しを超えて、とにかく「そこにある」ものである。それは、バルザックの小説世界を作動させる情け容赦もない歯車であって、高貴な魂を(それが高貴であればあるほどなお残酷に)バリバリと噛み砕いてゆくのである。バルザックはそれを、一応はキリスト教的な受難の過程として描き出している。伯爵夫人は臨終の場になって信仰と己の尊厳を取り戻し、神々しく死んで行く。しかし、私にはこの結末は、時代がバルザックに強いたアリバイ作りのように思われる。おそらく、バルザックの本音は、伯爵夫人が青年にあてた手紙の中に見られる、以下の部分に集約されているのではないか。

「…私は社会が神さまから由来するものか、人間がつくりだしたものかは知りません。それがどちらの方にむかって動いているのかもわかりません。ただ私の目にたしかなことは、社会が存在しているという事実です。社会からひとりはなれて暮すのをやめ、社会をうけ入れようとおきめになったら、その日からあなたは社会のよって立つ種々の条件を、すべてそのままよきものとお考えになることが必要です。…」(p195)

 この身も蓋もない認識こそ、バルザックの人間喜劇の底流を成しているのではないか。神とは社会である。しかしこの新しい神は精神を持たず、自分がどこにたどり着くかも知らぬまま、ただひたすら自らの王国の民に暴虐を強いるのである。
 もちろん、ここにはまぎれもない愉悦が、快楽がある。バルザックもその読者も、自らの宗教的=社会的信条と欲望の間に立って煩悶する伯爵夫人を、青年の欲望の目を借りて、ムラムラしながら見守ることになるからだ。夢見るような風景描写をはじめとして、この書物全体のかもしだす雰囲気は、どこまでも清烈でありながら、とにかく激しく色情的である。
 この「善悪の彼岸」にある快楽と悲劇をあまさず楽しむ我々は、では神の視座にいるのか?「見えざる手」を持たず、ただ「目」と化した神に?
 バルザックの小説においては、「人間的努力」によって、事態が解決することがない。悲劇や葛藤は、登場人物の死によってしか解決(ないし中断)されないのである。
 これはバルザックの「宗教」なのだろうか。悲劇が救済の対象ではなく、悦楽の対象であり、その悦楽こそが救済であるような世界。これはあんまりキリスト教的な世界観ではないように思える。さらに人間喜劇を読まねばならない。

2006年3月14日
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『セラフィタ』
バルザック 蛯原徳夫 訳 角川文庫 平成元年 (昭和29年の初版の復刻版)


 色々な意味で難物。というか、正直ヤバい。
 舞台はノルウェーの海際の寒村。登場人物は5人だけ。つまり、パリの雑踏の中を多くの登場人物が交錯する「人間喜劇」シリーズとは真逆を行く小説である。
 主人公、セラフィタ・セラフィトゥス(なんという名前!)は、この世の全てを一歩高いところから見下ろしているような、神秘的な人物である。ものすごい美形であるが、性別は判然としない。あるときは男のようであり、あるときは女のようである。いわゆる両性具有ということらしい。
 そして、彼/彼女にそれぞれ激しい恋心を抱いている一組の若い男女、その女の方の父親である懐疑主義者の牧師、セラフィタの無口な老下僕。以上が登場人物の全てである。
 物語はある意味単純で、セラフィタがこの男女に、延々と神の実在と神への恭順を説き、最後には熾天使なる存在となって昇天してゆくというものである。何だかよくわからないが、この熾天使(セラフ)というのは、天使の中では一番偉いらしい。
 要するに、21世紀の極東に生きる無神論者たる私には、かなり縁遠い話と言わねばならぬ。文庫本にして約200ページという分量は決して長いものではないのだが、結局読み通すのに一週間ほどかかってしまった。数十ページにわたって繰り広げられる複雑で深遠な神学を、旧漢字で、それも、昭和二十年代の劣悪な印刷をそのまま再現した復刻版で読まされたのが、中々読みすすめられなかったことの原因の一つである。それは明らかだ。
 でも、これを読んでいるときに常に感じていた何とも言えない焦燥感は、おそらくその内容から来るものであって、私はこの一週間、数頁、時には数行読んだだけで溜息と共に本を閉じ、何か満たされない気持ちのまま、焼酎をラッパ飲みしたり、落ち着きなくPCを起動させては、よからぬページを覗いたり、ムシャクシャまかせに馬鹿なことを書き込んだり、といったことを繰り返していたのである。
 唐突だが、私は神の実在は信じられないけども、やはり美の実在は信じているのだ。その目に、本書の中で折に触れて語られる、フィヨルドに縁取られた北国の早春の風景は、神々しいくらいに美しい。神々しい、と書いたが、何か、ほとんど麻薬的な美しさなのである。薬物や極限状況によってハイになった精神が見る世界はかくやという感じである。ところで、私はこの美を心底から信じられるだろうか。それともこうした「法悦」は脳内物質がひきおこすまやかしのデンパに過ぎないのか。前者だとすれば、私の今の生活は全否定されざるを得ないし、後者だとすれば、この宇宙はあまりにも味気なさ過ぎる。かくて焼酎の瓶に手が伸びて悪酔いが始まるのである。
 バルザックはやはり怪物なのだ。少し前に『「絶対」の探求』の読了報告で、バルザックは相容れない二者の間で引き裂かれた存在だと書いたが、本書にもこうした二項対立のダイナミズムは顕著である。男と女、肉体と精神、天界と地上、信仰と懐疑、神の単一性とこの世の多様性。。。そして恐るべきは、本書一冊が他の全ての「人間喜劇」シリーズと、深淵を挟んで対峙しているように思われることである。バルザックはその深淵の底で悠々と玉突きでもしているのではないか。
 もっとも、私はまだバルザックの巨大な長編群のうち、まだ数冊しか読んでいないので、これは勇み足かも知れない。他の作品をもっと読んだ後に、本書を再読して見ようと思います。とにかく疲れた。。。

2005年12月6日
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『「絶対」の探求』 
バルザック 水野亮 訳 岩波文庫 1978年改訳版


  19世紀の始め頃のフランドル地方を舞台に、万物の共通元素である「絶対」を求めて、錬金術めいた化学実験に没頭し、そのために、経済的にも、社会的にも、一家の家長としても破滅してゆく貴族を描いた小説である。主人公は、その名もバルタザールという。
 知性の書である。と言っても、バルタザールの探求が「知的」なものであるからではない。むしろ、バルタザールは娘に全財産をつぎ込んで没落してゆく、愚かしくも崇高なゴリオ爺さんの同類と言ってよい。ゴリオ爺さんにとっては娘の幸福が「絶対」であった。その意味で、この「絶対」という言葉は、極めてアイロニカルに使われている。「絶対」は究極の安定をもたらすどころか、決してたどり着けず、それを求める者に、際限もない精神と肉体の浪費を強いるものだからだ。
 そして、この「絶対」の様相は、おそらく19世紀から現在にいたるまで続く、何ものかを語っているのだ。終着点を持たず、絶えず強さと圧迫を増大させながら無限に継続されるもの。これは資本主義社会そのものだ、とまで言い切れば極論かも知れないが、バルタザールとゴリオ爺さんを苦しめるのは第一に金銭の問題なのだし、バルタザールの当面の目標は炭素からダイヤモンドを合成することであることは心に留めておいていいだろう。明らかに言えることは、屋根裏部屋で、当時でも既に時代遅れであった錬金術に没頭するこの世捨て人は、しかしバルザックのまぎれもない同時代人として存在していることである。
 本書が知的であると書いたのは、本書がこうした時代精神への強靭な批評になっているからだ。「強靭」と書いたのは、バルザックにおいては、知性がそのまま膂力の発露になっているように見えるからである。本書は様々な二項対立で占められている。高貴さと卑俗さ、男と女、誠実と打算、理想と現実、妻と母親、母親と娘、旧時代と新時代、秩序と破滅に至る混沌…。これらの対は、一組の人物として体現されることもあれば、一人の人物の中の相矛盾する要素として描かれることもある。感動的なのは、バルザックがそれらの対立を距離を置いて眺めているのではなく、正に彼自身がそれらの対立の中で引き裂かれそうになるのを、強烈な精神力で耐えているように思えることである。
 冒頭のフランドルの屋敷の丹念な描写を読めば、バルザックがいかにこの地方の旧時代の秩序立った風俗を愛惜していたのかがよくわかる(私はふとフェルメールの絵を思い出した)。一方、バルタザールの屋根裏の実験室は、「学者の専心没頭というものが惹き起こす乱脈ぶりが、いたるところ、整理一方のフランドルふうのしきたりをぶちこわしていた」(240頁)のである。
 私は歴史には暗いので、はっきりとは言えないのだが、多分バルザックの生きた19世紀の前半は、おそらく新旧の時代の境目だったのではないか。新時代の狂熱を体現するのがバルタザールなら、旧時代の秩序の体現者は、彼の妻ジョゼフィーヌである。この貞淑で高貴で従順で…とにかく昔風に言えば妻の鑑とでもいえそうな女性は、あるとき意を決して夫に抗議する。
 
「…そうですとも、私はほかの女をみんな寄せ集めたよりも、ただひとつの思想のほうをずっと嫉妬しますわ。愛は大きなものです。けれど無限というわけには行きませんものね。だのに学問には底の知れない深さがあります。あなただけがひとりでそこに入っていらっしゃるのを、だまって見ているわけにはまいりません。私は、私たち二人のあいだに入ってくるものは、どんなものでも憎みます。…」(112頁)

 そう、人間の生命は有限だから、愛は無限というわけには行かないのだ。それを身をもって証するように、ジョゼフィーヌは衰弱して死んでゆく。無限はただ人を喰らい潰し、不毛の荒野を広げるだけではないか。バルザックは、この有限と無限という相容れない二つの様相を、腕力にものを言わせて、最後にシンバルのように打ち鳴らす。
 その結節点が、バルタザールの死の瞬間でしかありえないことはもはや明らかだろう。
(余談ですが、トリュフォーの長編映画第一作「大人はわかってくれない」に、以下の部分が思いもかけない形で引用されています。興味のある方はぜひぜひ)

 息も絶えだえの病人は突然、握りしめたこぶしにからだを支えて起きあがった。ギョッとしたこどもたちに投げかける視線は、まるで稲妻のように彼らのすべてに突き入った。首筋にわずかばかり残っている髪の毛がそよいだ。しわがピクピクふるえた。顔は火のような精気をおび、そこを、ある霊感の息吹が通りすぎて、この顔を崇高なものとした。激怒のために引きつる片手を高く差し上げると、われるような声でアルキメデスの有名な言葉を叫んだ、――「EUREKA!(わかったぞ!)」思うように動かないからだは、重そうな音を立てて寝台に落ちこんだ。彼は恐ろしいうめき声をあげながら死んだ。(348頁)

 おそらくこの死には、ある小説の、ある特殊な登場人物の死以上の何かがある。我々もまた、バルタザールとは別の様相の元にではあるが、ある「絶対」に捕らわれているのだ。これを「死」と呼び変えてもよい。つまり我々も、有限である生を、ただあるがままのものとして享受できる時代には生きてはいないのだ。我々は、返す当てのない無限の負債を抱えているかのように、あるいは決して癒されることのない乾きに突き動かされているかのように、踊りながら死に向かってまっしぐらに行進して行く。
 バルタザールはそれでも個人として生き、そして死んだ。しかし我々の絶対なるものは、もはや高貴さの影も止めておらず、ハメルーンの笛吹きよろしくわけもわからずに馬鹿踊りを無理強いするのみなのだ。
 バルザックの小説の登場人物を捉える様々な狂熱と、我々の今生きる社会の持つ狂熱。その共通点と違いを同時に見究めなければならない。それにはバルザックそのひとの凶暴な知性が必要とされる。そしてそのために、もちろんバルザックは読み続けられなければならないのだ。

2005年11月25日
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『ゴリオ爺さん』 
バルザック 平岡篤頼 訳 新潮文庫 昭和47年


 この小説には、主人公を名乗る資格を持つ人物が二人いる。
 一人は野心家の若い学生であるラスティニャック。彼の上流階級でのサクセス・ストーリーが本書の重要な柱となっている。
 もう一人は二人の娘に全財産をつぎ込んだあげく、貧民窟のような下宿屋で孤独のうちに死んでゆくゴリオ爺さんである。
 でも、バルザック自身の思想を最も強烈に体現してるのは、「不死身」という渾名を持つ悪党ヴォートラン、この男性の権化である脱走徒刑囚なのだと思う。
 彼はゴリオ爺さんを評してこう語る。

「…感情てのは、思考と化した世界そのものじゃないのかな?ゴリオ爺さんを見ろ。彼にとっては、ふたりの娘が宇宙のすべてであって、彼女たちこそ、被創造物の世界をすすんでゆく爺さんの導きの糸だ。…」

 これは、この小説全体の構造にもあてはまる話である。ゴリオ爺さんの崇高なる妄執は、多様な登場人物の多様な欲望が複雑に交錯するこの小説のアリアドネの糸なのである。
 本書のクライマックスは、下宿屋でヴォートランが警察に逮捕される瞬間である。
 バルザックは、その時の彼の倣岸不屈の態度をこう描写する。

「…そのぞっとすろような偉大さ、なれなれしさ、卑俗さが、不意に、そんな言葉によって、そしてまたこの男によって、あますところなく表現され、この男はもはやただのひとりの男ではなくて、堕落した一人種、野蛮で論理的で、獰猛でしなやかな一種族の典型となった。一瞬にしてコラン(引用者注:ヴォートランの本名)は、ただひとつの感情、すなわち悔恨の感情を除いて、あらゆる人間感情が描き出された地獄的な詩篇となった。…」

「あらゆる人間感情が描き出された地獄的な詩篇」とは、この小説そのものではないか。
 強靭で凶暴な言葉の夢そのものではないか。
 その夢に突き動かされて、言葉は一分の隙もなく、息せき切ったように溢れ出す。
 なにせ世界を、宇宙をまるごと記述しようというのだ。
 バルザックの何という傲岸不遜。言葉は支配であって、同時に反逆なのだ。貴族にして犯罪者なのである。そこに「平民」はいない。おそらくこの言葉の正負両方向の特権性こそ、バルザックの生きた時代と現代とを分かつ指標なのだ。
 
 などと理屈をこねたが、一言で言えばとにかく面白い。
 どうもドストエフスキーの「罪と罰」なんかは、この小説の影響を強く受けているような気がするのだけど(ラスティニャックとラスコリーニコフは兄弟のようによく似ている)、「罪と罰」に比べて「ゴリオ爺さん」があまりメジャーじゃないのは、題名が災いしてるのではないか。
「俺いま『罪と罰』読んでいるんだ」というのと「俺いま『ゴリオ爺さん』読んでるんだ」というのでは、何かが決定的に違うのである。
 この小説は題名で損している。もっと読まれるべきだと思う。

2005年9月28日
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『知られざる傑作 他五編』 
バルザック 水野亮 訳 岩波文庫 1965年


 表題作と「砂漠の情熱」と「ざくろ屋敷」が好きである。
 特に「ざくろ屋敷」。
 気高く美しい母親と幼い息子二人が、「ざくろ屋敷」と呼ばれる質素だが美しい別荘に、世間に寄る辺ない身をつかの間落ちつかせることになる。地上の楽園とでも言うべきこの美しい土地で、病身の母親は季節の移り変わりと共に衰えて行き、晩秋のある日に息を引き取る。そして二人の息子は浮世の荒波に放り出される。
 太宰の『斜陽』を連想させずにはいられない筋立てである。
 ロワール河畔の卑猥なまでに陽光溢れる光景は、東京を追われた母子が住むことになる、伊豆の山荘から見晴らせる景色、海が「ちょうど私のお乳のさきに水平線がさわるくらいの高さ」に迫ってくる景色とどこか似ていないだろうか。両方とも、悲しくて思いっきり泣きじゃくって涙が枯れ果てた後に訪れる、不思議な恍惚と平穏に似ているのである。たぶん、滅び行くものと、未だ人生を知らないものだけが、死を宣告された者と子供だけが、一時こういう楽園に住むことを許されるんじゃないかと思う。
 なんでも、「ざくろ屋敷」は今でも実在する場所らしい。
 一度行ってみたいものである。

2005年7月26日
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『今はむかし ある文学的回想』 
中村光夫 講談社 昭和45年


 還暦に近い著者が、学生時代からフランス留学直前までの交友を回想したもの。
 枯れた味わいの青春記、というか、正直ダシを取った後の鶏ガラみたいな、パサパサと味気ない印象を受けた。
 ところが最後の方、中原中也との交流を描いた部分だけ、急に桜色に血の気が差してくるようで面白かった。
 著者は、酔った中也にビール瓶で殴られたエピソードを、かなり嬉しげに回想したりなどした後で、こんなエピソードを披瀝している。

 …遠慮なくいえば、僕は、この実践的な(引用者注:中原の)純粋性が、作詞の母胎としては実に有効だが、自己と現実との関係で或る短絡(ショート・サーキット)をおこしているのではないか、一度所有した絶対を手放して、相対の人間世界にもどることが必要なのではないかと思っていました。
 あるときそれをいうと、(中原)氏はしばらく瞑目して黙っていましたが、やがて首をゆっくり左右にふって、大きく両眼をあき「お前の評論はこうだからな。お前にはそう見えるのだろうな」ともいいました。
 氏の「批判」はさすが正確で、僕は二の句がつげませんでした。氏が自分の道をまっしぐらに歩いて、詩に殉職してしまってから三十年たちますが、氏の倍の年齢に手のとどく今になって「絶対」を欠く人生の無意味がようやく実感されます。「どうだ、大分無駄飯を食ったな」と、うっかりあの世に行くと氏に言われそうです。


 残酷で美しい体験だと思う。著者はその後の生涯、ずっと中也の大きく見開かれた両眼に見つめられていたのではないか。

2005/11/03
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『日本の近代小説』 
中村光夫 岩波新書 1964年改版
『日本の現代小説』 
中村光夫 岩波新書 1968年


 こうしたおおざっぱなタイトルを掲げる書物は、どこまでも弛緩した精神のなせる業か、強靭な知性の緊張の賜物であるかのどちらでかでしかありえない。
 もちろん中村の著作は、ごく稀な後者に属するのだ。私は一般に、こうした「ガイドブック」的な本に対しては本能的な不信感を抱いてしまう性なのだが、そもそも混沌と逸脱を本質とする歴史が、それも文学者という個々人によって紡がれる文学史が、 かくもブレのない一貫した視点の元に、その多様性を失うことなく嘘のように平明に描かれていることには驚かされる。もっともその驚きにはなぜか、くやしさに似た感情が幾分か混じってはいるのだけど。
 正確に言えば、この2冊の本は「文壇文学史」である。つまり、作家個人というよりは、明治から昭和に至る諸々の流派の興亡が主に語られている。この限定というか割り切りが、ある意味中村の面目躍如なのだと思う。岩波新書というコンパクトな媒体で文学史を通観するには、こうした限定が不可欠なのは言うまでもないが、その限定の仕方そのものを、著者の文学精神の表現としているところ、やはり中村光夫は只者ではない。
 で、それら各流派の変遷は、ごく大雑把に言って、作家が「自己」と「他者」(観念的次元)ないしは「社会」と「個人」(これは現実的次元)をどう捉えて きたか、という足跡をたどることで語られている。
 このざっくりとした抽象化も、現実の歴史が持つ複雑さや多様性を損なうことなく、中村の語る歴史の道筋に、強い説得力を与えている。
 要は、中村は自分に何ができて、何ができないか、自分が何をすべきで、何をすべきでないかを明確に心得ている、全き成熟の人なのだ。でも、いい年してガキっぽさを脱することのできない私は、こうした知性にかすかな反発を覚えてしまう。
 「中村史観」によれば、文壇から見て傍流に位置する作家は、夏目漱石や森鴎外ですら、「例外的存在」として扱われてしまう。太宰や安吾などについては言わずもがなである。勿論、それらの作家が軽んぜられているわけではなくて、中村は的確な評論を沿えて、自らのパースペクティブの中に、彼等各々に、相応しい位置を与えることに成功してはいる。
 引っかかるのは、中村が歴史というバケモノを料理する際の、あまりの破綻のなさなのだ。岩波新書という性格を考慮に入れるにしてもである。
 まあ、ガキっぽい駄々ではある。「じゃあ、どうすればいいの?」と問い返されても私には答えはない。たぶん、「個人」と「社会」に対する経験と思索と諦念において、中村と私には天地の開きがあるということなのかも知れない。いずれにしても、私はくやしいのである。いつか倒すぞ。

2005/11/02
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『平和の死』 
中村光夫 講談社 昭和48年


 大人の小説である。というか、おじさんの小説というべきか。
 つまり、子供や青年の甘さが微塵もない。
 ある意味、前に報告を上げた『戦争まで』の姉妹編と言って良いのかも知れない。
 『戦争まで』は著者のフランス留学の実体験に基づいたもの。
 『平和の死』はそこから発想されたフィクション。
 『戦争まで』はトゥールでの滞在記が大部分を占めているが、『平和の死』ではそこに語られなかったパリでの生活が、フィクションではあるが語られている。
 『戦争まで』はフランス人観察記としての一面を持つが、『平和の死』はパリの日本人社会が鬱陶しいほど詳細に描かれている。
 『戦争まで』は中村の留学中から帰国直後にかけて書かれたものだが、『平和の死』は、その後三十余年を経て書かれている。等々。
 つまり、主人公は留学当時の中村本人を連想させる若い学生だし、舞台も大戦直前のフランスで、大戦の勃発と共に物語が終わるのも一緒だが、それを描き出す手つきは完全に壮年のそれなのだ。
 これは、著者の実年齢のことを必ずしも指すのではない。大概の作家には、年齢と関係なく、どこかに子供じみたところがあり、それが魅力の一部をなしていることも多いのだが、中村は、そうした甘さを(おそらく明確に意識して)きっぱり捨てている。
 こうしたタイプの作家で、私が他に知っているのは森鴎外くらいか(あるいは後藤明生もそうしたタイプに分類されるのかも知れない)。
 私はいつまでも子供なので、こうした作家には違和感というか、何か重苦しく鬱陶しい感じを持ってしまう。

「日本にいたころ、パリへの憧れが生きる目標であったころ、彼はともかく前方をむいて歩いてきた。しかし、それが生活になり、さらに強引に打ち切られようとしている現在、彼はいわば内面の配置を変えずには、これに応じられない。憧れを実現したものは、生きている人間から、生きてしまった人間になる。そのことで生命を失わぬまでも、少なくとも若さは失う。もっとも充実した生はもはや彼の後方にあるからだ。」

 こんなあからさまな文句は、五十をこえてから「処女作」を書いた批評家にしか書けないのかも知れない。

2005/10/19
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『戦争まで』 
中村光夫 垂水書房版 昭和35年


 著者が大戦直前のフランスに留学した時の体験記である。
 私の乏しい読書履歴の中でも、日本人のフランス滞在記がいくつかあるのだけれど、大好きな阿部良雄の『若いヨーロッパ』、そして一時期座右の書だった山田宏一の『友よ映画よ』と並んで、この本もこれから何度となくページを捲る本になりそうだ。
 『二葉亭四迷論』『風俗小説論』と、壮年期の代表作を読み進めて来たあとに、著者が二十代後半の時に書かれた本書を読むと、北国からいきなり南国にやってきたというか、モノクロの風景がいきなり総天然色に変わったような眩暈に襲われる。後期の著作の強靭な理知は、本書でも隠れなく示されているけれども、大半をトゥーレーヌ地方での滞在の記録に割かれている本書は、とにかくずっと読みつづけていると、頭の芯がじんじんしてくる位に官能的で瑞々しい。
 この官能性と瑞々しさは、二つの「青春」に由来しているのだと思う。一つは憧れの異国の地を踏んだ著者自身の青春。もう一つはトゥーレーヌ地方を発祥の地とするフランスのルネッサンスそのものである。この二つは本書の中で、ほとんど分かちがたい一つのものとして存在している。中村は、この地に16世紀に花開いた文化を評して「いわばこの短い過渡期は永続するにはあまりに美しすぎたのです(原文旧漢字)」と述べているが、これはそのまま1年余の中村のフランス滞在にも言えることではないか。中村は1939年の8月、大戦の勃発で留学の中途で日本に引き揚げざるを得なくなるのである。
 著者は戦争の開始を決定的なものにした独ソの不可侵条約締結の知らせをトゥールの下宿で耳にするのだが、その時の下宿屋の家族や、その後著者が行きつけのカフェで出会った欧州各国の留学生が示す狼狽や絶望の様は生々しく、痛々しい。
 ずっと夢を見るような口調でトゥーレーヌ地方の風物と歴史を語ってきた本書は、最後にこう締めくくられる。

「…そしてカフェのオーケストラに気のない拍手を送つたりしながらしばらく時間を潰し、十二時に音楽が終わるのをしほに、そろそろ客の空きかけたテラスを引上げましたが、帰り途に人影のまばらになつた暗い広場を横切ると、突当たりの市役所の玄関の脇に、いつの間に貼られたのか、非常の事態に鑑みて国民の財産を政府が臨時収用することがあらうといふ徴用の布告が、夜目にも白くくつきり壁に浮かんでゐました。(原文旧漢字)」

2005/10/14
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『風俗小説論』 
中村光夫 新潮文庫 昭和33年


「…しかもその『写実』の対象が作者自身に限定された結果、小説は作家のあらゆる苦行と精進に関わらず、結局彼の『生きた人生』の再現に止まり、彼が『生き得た筈の』人生の表現に達しなかったのです」

 これはいわゆる「私小説」が批判されている一節だが、同時に中村光夫の批評の態度をも端的に表していると思う。『二葉亭四迷伝』でもそうだったが、中村光夫はいわく言いがたい、優しい苛立ちのようなものに突き動かされている気がする。
 中村は、ある作品を既に完成された不動のものとは見ずに、常にその潜在的な可能性の方に眼差しを向ける。つまり「生き得た筈の」作品の姿に照らし合わせて今ある姿の作品を裁断するのだ。
 ごく乱暴に、私なりの言葉で中村の態度を要約すれば、「文学は文学で完結するべきではない」ということにでもなるだろうか。中村は、そのために文学に必要なのは「感覚」ではなく「思考」なのだと主張しているように思われる。感覚は「生きた人生」を捉えるのみであって、「生き得た筈の」人生を描くには、強靭な思考が必要とされるのだ。中村は、田山花袋の「布団」に始まる私小説の興隆が、日本文学から思考を奪ってしまったことを強く批判する。この批判が感動的なのは、既に起ってしまったことを現在において批判するのではなく、近代リアリズムが発生した当時に日本文学が持っていた様々な可能性に立ちもどってなされていることにある。つまり、これは老人ではなく、青春の側からなされている批判なのだ。
 そして、青春の特権的な徴は孤独である。中村は、「破戒」を書いた藤村についてこう語る。

「この『言いがたき秘密』を胸底に抱いていたとき、彼はおそらく自身で意識したよりもずっと、西欧の近代小説家の秘密に近づいていたので、フローベールも、ゾラも、バルザックも、己自身を人間の形をとり得ぬ怪物と信じていたからこそ、作品のなかにつくりだした人間典型を通じて、自我の社会性を恢復することを願ったのです。
 彼等の多くは、ただ彼等よりはるかに平凡な作中人物を通じて、ともかく社会に伍することができたほど孤独な存在であったので、僕等もまたボヴァリー夫人や、ジュリアンを経て、はじめてフローベールやスタンダールの生きた精神の像に触れ得るのです。」


 何だか無性に胸が熱くなる。

2005/10/11
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『二葉亭四迷伝』
中村光夫 講談社 1966年


 二葉亭四迷は、優しい。
 優しい人間は、無理して「全て」を抱え込もうとするので、結局足が竦んだままだったり、いたずらに右往左往したままで一生を終えてしまうことがままあるようだ。
 中村光夫は、こうした「なり損ねの偉人」の一人である二葉亭の一生、「理想を嫌悪する理想主義者、文学を否定する文学者」(原文は旧漢字、以下同)という、他ならぬ当人自身にとって最も荷やっかいな存在の一生を、明晰な筆致でざっくりと掬い上げる。
 中村によれば、「自分の思想を、『堂々と正面から』表白するのをどこか恥ぢるやうな」彼独特の羞恥心と、「僕には昔から何だか中心点が二つあって、始終其二点の間を彷徨してゐるやうな気がしたのです。だから事に当って何時も狐疑逡巡する、決着した所がない」(『其の面影』の主人公哲也の告白)という懐疑精神が始終二葉亭の人生に付きまとっている。
 それが彼のもう一つの資質である大きすぎる理想とぶつかった結果、二葉亭は文学においても政治においても生活においても流産をくりかえしたので、大抵の作家とは逆に、「二葉亭にあつては、彼の文学者としての業績は、その生活の『働き』の色あせた反映」に過ぎず、「したがって二葉亭の作品を論ずることは、彼の生活を描くことなしに不可能であり、また彼の生活の内面への手がかりはその作品以外にないので、この両者の触れあひから彼の精神の『働く』姿を見究めるには伝記といふ形式が一番適当なのです」と結論付ける。
 これは極めて野心的な試みではないだろうか。人一人の人生は(特に二葉亭のようにあちらこちらを彷徨いっ放しで終わった人生などは特に)生のままで差し出されれば、ほとんど無意味に近い混沌にしか見えないに違いない。そこから「明治という時代が抱くことを許したかぎりの最も美しいもの」である「彼が生かさうと試みた理想」を抽出する作業は、そのまま二葉亭が頓挫した試みを引き継ぐことに他ならない。
 二葉亭は「小説総論」の中でこう述べる。

「…実相界にある諸現象には、自然の意なきにあらねど、夫の偶然の形に蔽はれて判然とは解らぬものなり。小説に模写せし現象も、勿論偶然のものに相違なけれど、言葉の云ひ廻し、脚色の模様によりて、此偶然の形の中に明白に自然の意を写し出さんこと、是れ模写小説の目的とする所なり」

 つまり、これは「僕は人生の批評家、日本国民生活の批評家になりたいと思ふのだ」(矢崎鎮四郎による伝聞)という態度に一致する。『浮雲』で果たされようとしたこの試みは、中村によれば、当時の作者の若さも手伝って「失敗」に終わっているのだが、「批評家」中村光夫は、二葉亭が『浮雲』や『平凡』の主人公において成し得なかったことを、この『二葉亭四迷伝』という評伝の中で、長谷川辰之助、すなわち二葉亭四迷本人を描き出すことで完結させるのだ。
 結局、批評とは知性による魂の救済ではないだろうか。

2005/10/10
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 休日である。
 目黒線、池上線、大井町線と、狭いエリアに三つの東急線が交錯して走っているあたりを歩く。
 この近辺は商店街が網の目のように広がっていて、その全部を継ぎ足せば軽く10キロを超えるのではないかと思われる。
 魚屋、八百屋、惣菜屋、衣料品店、飲食店、皆そこそこにぎわっているようである。地方の商店街によく見られるような荒廃の影がない。私はこういう場所を地元の人間みたいな顔をしてぶらぶら歩くのが好きだ。
 その中にぽつぽつと古本屋が点在している。いわゆる新古書店を別にすれば、狭くて小汚くて、本も店番のじいさんばあさんも、一緒に色あせて埃をかぶっているような店が殆どである。私は半年から1年くらいの間隔をおいて、思い出したようにこの界隈を訪れる。そしてその度に、もうつぶれているんじゃないかと心配になるのだが、どの店も相変わらずやる気なさげに、通りに向かって暗い間口を開いているのだ。そこに私はほっとしたような、がっかりしたような脱力感とともに吸いこまれて行く。
 今日の収穫。

『気球に乗って五週間』
ジュール・ヴェルヌ 手塚伸一 訳 集英社文庫 1993年 初版本 300円
『必死の逃亡者』
ジュール・ヴェルヌ 石川湧 訳 創元推理文庫 1972年 再版本 150円
『新世界ルルー』
手塚治虫 角川文庫 平成7年 初版本 400円
『大洪水時代』
手塚治虫 角川文庫 平成7年 初版本 350円
『メトロポリス』
手塚治虫 角川文庫 平成7年 初版本 360円
『物語ソウル』
中上健次 荒木経惟 PARCO出版 1984年 初版本 900円
(いずれも現在絶版)

 で、『物語ソウル』だが、カバーがちょっと黒ずんでいるものの、本体の状態は悪くない。しかし帰宅して袋から出したとたん、かび臭い勾いがあたりにぷんと漂うのであった。古本屋の加齢臭としかいいようのない独特の勾いである。この本が薄暗い店の片隅で、棚ざらしになって耐えていた年月は10年か?20年か?
「おおよしよし、よくがんばったね」
 私はほおずりをして、本棚にしまいこむ。
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『八十日間世界一周』
ジュール・ヴェルヌ 田辺貞之助 訳 創元SF文庫 1976年


 この小説の魅力は、つまるところ主人公の英国貴族、フィリアス・フォッグ卿の人物造形に尽きるのではないかと思う。
 ヴェルヌの小説には、自分の人生哲学を頑固に貫く、強靭な意志を持った奇人がよく登場する。『海底二万里』のネモ艦長、『地底旅行』のリーデンブロック教授、『月世界旅行』のバービケイン氏等々、彼ら偉大なるパラノイア達は、ヴェルヌの物語世界のいわば生きた動力機関であり、それぞれの冒険をまるごと双肩に背負い込んで、あらゆる困難をものともせず、ゆるがぬ足取りで進んで行く。
 フィリアス・フォッグもそうした超人の一人なのだが、彼の奇人ぶりは、ある意味上に挙げたいずれ劣らぬツワモノ共の、さらに一段上を行っているように思われる。
 と言うのは、上の三人も含めた他の登場人物が、探究心や野心や復讐心等の強烈なモチヴェーションを与えられているのに対して、常に正確さとポーカーフェイスを失わないこのイギリス紳士は、世間話から始まったささいな論争をきっかけに、ただ「数学的正確さ」なる自分の行動哲学を証するためだけに、涼しい顔で己の全財産を投げ出して、勝算の薄い賭けに出るのである。それにしても「80日間で世界を一周する」などという試みは、よく考えてみれば、何に役立つこともない究極のヒマツブシではないか。
 ヴェルヌは潔いことに、そこに心理的説明を一切挟まない。こういう人がいます。それで終わりなのである。

「フィリアス・フォッグはいわば数学的な正確さをもつ人びとのひとりで、どんなときにもいそがず、つねにおちついていて、歩行や動作を節約した。けっして大股で歩かず、つねにいちばん近い道をとおった。むだに天井をあおがず、よけいな動作をつつしんだ。彼が感動したり度を失ったりするのを見たものはひとりもなかった。世界中でいちばんいそがない人間だったが、つねに正確な時間にやってきた。とはいえ、彼がたったひとりで暮らし、いわばあらゆる社会関係の外に生きてきたことはいずれわかるだろう。彼は人なみに生活すると他人との摩擦をさけることができず。しかも摩擦は時間をおくらせることを知っていたので、だれとも交際をしなかった」

 こんな面白みのない人物を冒険物語の主人公に据えること自体、ひとつの賭けではなかっただろうか。また、この小説を他のヴェルヌ作品と分かつ点は、題名が示す通り、主題が未知なる空間の征服ではなく、「時間」の征服であるところなのだけれど、その点でもフォッグ卿は天晴れな徹底ぶりを示すのだ。彼は、旅行がスケジュール通りに進んでさえいれば満足で、眼前を通り過ぎるエキゾチックな風景にはまるで目をくれず、ひたすら汽船や汽車のなかでトランプに熱中するばかりなのだ。「彼は旅行をしていたのではなく、いわば円周をえがいていたにすぎなかった。力学理論の法則にしたがって、地球の周りを走る物体にほかならなかった」という人物が主人公だと、例えばインドの情景はこのように描写されることになる。

「こうして、彼はボンベイ市内の名所をなにひとつ見ようとしなかった。市役所も、立派な図書館も、要塞、ドック、綿花市場、バザール、回教寺院、ユダヤ教会、アルメニア教会はいうにおよばず、多辺形の二つの塔にかざられたマレバール丘の壮麗なバゴダすら見ようとしなかった。また、エレファンタの傑作も、湾の東南にある地下の秘跡にも、サルセット島のカンヘリアの洞窟にも、あの仏教建築のすばらしい遺物にも好奇心をおこさなかった。」

 全編を通してこのありさまで、読者はリズミカルに続く「あれも見なかった」、「これも見なかった」というフレーズに導かれて、この不動の動者たる奇妙な人物の背後を、世界全体があれよあれよと回り舞台のように通り過ぎて行く様を見守るばかりである。
 では、どうしてこの小説が面白いのか?どうしてこんな朴念仁の主人公が魅力的なのか? 
 大衆作家であるヴェルヌは、いくつかのエピソードで、この無感動な主人公が、「実はいい奴」であることを抜け目なく強調したりもしている。しかしフィリアス・フォッグの素晴らしさはそこにあるのではない。おそらく彼は、近代の想像力が生み出した、究極の自由人なのだ。
 彼は知っている。自分の内なる倫理と矜持以外に、この世に頼る価値のあるものなど存在しない。それを貫くことが人生である。つまり人生は、イノチガケの遊戯なのだ。遊戯においては、価値は、崇高さは、倫理=規則の内容そのものにはなく、それを貫く態度から生まれてくる。ついでに言えば、規則は単純であるに越したことはない。彼の場合、「ゲームの規則」は金でも愛でも美でも信仰でも権力でもなく、「時間」である。
 この選択に、「近代性」を見るのはいともたやすい。でも、フィリアス・フォッグを日帰りで海外出張するサラリーマンの先祖と見るのは間違いだろう。彼は根っからの貴族なのだ。

2005年10月3日

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原書(エッツェル版)の挿絵
Le Tour du monde en quatre-vingts jours 1872