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『神秘の島』(上)(下)
J・ベルヌ 作 清水正和 訳 福音館書店 1978年 読書の快楽というものには、大雑把にいって二種類あるように思う。
一つは続きが知りたくて知りたくて、急き立てられるように頁をめくる読書である。
もう一つは逆に、惜しむように文字の連なりを追いながら、どうかこの時間が永遠に続きますように、この物語に終わりが来ませんようにと、願わずにいられない読書である。
前者は未来に引っ張られ、後者は現在に釘付けにされる。もっとも、現在というものが既に未来を含んでおり、未来がきたるべき現在に他ならないのと同様に(そうでなければ時間は流れないだろう)、この二つの快楽は、必ず交じり合った形で存在していて、完全にどちらか一方ということはありえない。
それでも私は、昨日の遅い午後、窓の外で降りしきる霧雨に目をやりながら、思わず呪わずにはいられなかったのだ。もうすぐ『神秘の島』の最終頁に行きついてしまうことを。「物語」にはすべからく「終わり」があるということを。これはあまりに理不尽な仕打ちではないか?
『神秘の島』の物語は、至って簡単に要約できる。南北戦争時代、気球に乗って太平洋上の名もない孤島に漂着した五人の男と一匹の犬が、知力と意志だけを武器に、力を合わせてその島を開拓し、ついには理想郷とさえいえる土地を作り出す。しかし島は、急激に活発になった火山活動の末、跡形もなく爆発してしまう。男たちは九死に一生を得て、アメリカに帰還する。
彼らを最初におそった感情は、深い悲しみだった。直接身にふりかかる危険については、ふしぎに考えなかった。彼らが住みついたこの土地、豊かにしてきたこの島、心から愛し、いつかもっと繁栄させようと夢見ていたこの島が破壊されてしまうことの沈痛な思いだった。汗水たらしたのはすべて無駄骨だったのか! あの仕事、この仕事、すべてが無に帰してしまうのか!
ペンクロフはあふれる涙をおさえることができなかった。頬を流れるのをぬぐおうともしなかった (下巻435頁) 男たちによって「リンカーン島」と名づけられたこの楽園の、無残な行く末を知らされたとき、無学で人の良い水夫が流した涙は、そのまま、あと二十数ページを残すばかりとなった、この書物の読者の流す涙ではないのか。
ベルヌが、「物語は必ず終わるものである」という残酷な命題を、常に強く意識してきた作家であったことは、既に何度か述べてきた。『気球に乗って五週間』でも、『海底二万里』でも、『月世界へ行く』でも、『地底旅行』でも、未知の世界に旅立った探検者たちは、最後に決まって住みなれた現実世界への帰還を余儀なくされる。しかし、この「失楽園」とも「失物語」ともいえるテーマは、本書において、とりわけ悲痛なトーンを帯びるのだ。
この書物の前半は、一つの創生神話とでもいうべき、無垢で力強いイメージに貫かれている。島に漂着した男たちは、まずはとにかく食べるのだ。岩にはりついている二枚貝を食べ、海に注ぎ込む川の水を飲み、岩バトの卵を食べ、小鳥を食べ、大雷鳥を食べ、海草を食べ、松の実を食べ、ウサギを食べ、サトイモを食べ、牡蠣を食べ、竜血樹の根を食べ(どんなものかよくわからないけど、おいしいらしいです)、カンガルーも食べる。私はこの本を読みながら、しばしば強い空腹感に襲われたものである。
さらに男たちは火を起こす。太陽を観測して緯度と経度を割り出す。島の地図を作り、川や山や森に名前を付ける。レンガを焼き、かまどを作り、陶器を焼き、溶鉱炉で製鉄をし、道具を作りだす。火薬で大地を穿って新しい川を流れさせ、岸壁の洞窟に快適な住まいを作る。猟をし、牧場と畑を拓き、橋をかけ、風車を建て、船を建造し、未踏の森の中に道を切り開く。羊の毛から衣服を作る。ついでにタバコも作ってしまう。
永遠に続け、と私は思う。この幸福感は何だろう、とも思う。いわゆる「人間ドラマ」に類する要素は皆無に近く、登場人物を結びつける友情は、全編を通して一度も揺らぐことがない。彼らは葛藤も軋轢もなく、嬉々として目の前の困難に立ち向かうのみである。つまり彼らには「キャラクター」は存在しても、ちまちました近代的自我だの心理だのの持ち合わせはないのだ。一同のリーダーである技師のサイラス・スミスは、超人的な知力と意志の持ち主である。参謀役の新聞記者、スピレットもまた知性と豪胆さを兼ね備えた人物である。水夫のペンクロフトは陽気な働き者。黒人の召使であるナブはひょうきんだが機転が利き、スミスへの忠誠心はどこまでも深い。ハーバートはひたすら利発で明るい少年、といったぐあいである。 これは猟犬のトップが主人のサイラスに忠実であるのと、本質的に何の違いもない。
ここには、古代の英雄譚の香りすら漂ってはいまいか。あるいは、近代性そのものの中に、こうしたアルカイズムが潜んでいるのかもしれない(この簡素な美しさは、二十世紀の巨匠であるハワード・ホークスの映画群と、遥かに通低しているように思われる)。ここでの「人間」は、例えば梃子のような力学的支点であって、そこを様々な非=人間的な原初の緒力が稲妻のように駆け抜けるのだ。すなわち大地の力、火の力、水の力、風の力である。私は喝采を叫ぶ。想像の中で木こりになる、鍛冶屋になる、大工になる、水夫になる、大地の底に降りて行く。ウサギの肉で作ったハムにかぶりつく。この書物は極めて健康に良いのだ。何より「人間」という容易に癒しがたい病への解毒剤として有効である。
このように、男たちの楽園を、幾度かの四季がメリーゴーランドのように経めぐってゆく。ここでは冬の厳しさすら一つの幸福である。堅牢な岩盤に穿たれた洞窟の住居は、雪まじりの嵐も、とどろく高波もものともしない。
七月じゅう寒さはきびしかったが (引用者注:リンカーン島は南半球にあるので、七月は冬である)
、たきぎも石炭もふんだんにあった。サイラス・スミスは広間にもう一つ暖炉をつくり、みんなは長い冬の夜をそこで過ごした。仕事をしながらのおしゃべり、手がすいたときには読書と、時間が有益に過ぎて行った。おいしい夕食のあと、ローソクに明るく照らされ暖炉であたたまった広間で、湯気の立つニワトコの実のコーヒーをすすり、片手に香りのよいパイプをくゆらしながら、戸外の嵐のうなりをきいているときなど、みんなのこのうえない楽しいひとときだった。もし幸福というものが、同胞から遠く離れ、なんの連絡もとれない人びとにもあるとすれば、彼らはまさしく満ちたりた幸福を味わっていたと言えよう。 (下巻9頁) 親密な人や物と共に、小さくて安全な空間に閉じこもる快楽を、ベルヌは繰り返し描いてきた。男たちが「グラニッド・ハウス」と呼ぶ、このほの暗い小宇宙も、ノーチラス号や、月に向かう砲弾や、気球に吊るされたゆりかごのようなゴンドラの系列に連なっていることはいうまでもない。その外が雪嵐だろうと、光もささぬ深海だろうと、真空の宇宙空間だろうと、それらの脅威は、鉄や岩でできた堅固な壁の内側にいる者たちの安らぎと静かな喜悦を、かえっていや増しにするものなのだ。
この快楽を、読書の快楽と重ね合わせることは、あまりに性急に過ぎるだろうか。それでも、一つのことは言えるように思う。『神秘の島』の登場人物たちを脅かす一つの影と、『神秘の島』を読む者に鈍い悲しみの予感を抱かせる影は、同じ一つの人物に集約されているのだと。この人物は、四季と共にゆっくりと循環する、終わりなき楽園の「現在」に、ぬぐうことのできぬ染みのような瑕疵を、点々とつけて回るのだ。刻まれた各々の徴は、いずれもこう告げているようである。「時間は『未来』に流れる。物事には『終わり』がある」
「脅かす」という表現は、あるいは適当ではないのかも知れない。なぜなら「神秘の人」とも「島の守護神」とも呼ばれるその人物は、主人公達が危機に陥ると、すぐさま救いの手を差し伸べる、救世主のような存在だからだ。「神秘の人」は、姿を一切見せないまま、一行の生命を救ったり、貴重な援助を与えたりするのである。最初はごくおぼろげな気配でしかなかったその人物は、次第にその存在感と難船者たちへの干渉の度を強めて行き、ついに彼らは、自分達の行動が逐一、全能に近い未知の存在に見守られていることを確信するに至る。だが、彼らがその人物に抱く感謝や畏怖の念には、つねにいくばくかの苛立ちがつきまとうのだ。
「さがそう、その方を!」ペンクロフがさけんだ。
「もちろんさがす」サイラスが答えた。「だが、このような奇蹟をやりとげるその神秘な人物は、その方のほうからわれわれに会う気にならないかぎり、われわれには見つけられそうにはないな!」
彼ら自身の活躍の場を取り去ってしまう、目に見えない援助に、技師は感動すると同時に苛立っていた。保護されていることが、かえって従属させられているみたいで、自尊心を傷つけられた思いだった。こちらの感謝の気持ちをうけとるのを、あくまで避けようとする寛大な心づかいは、むしろ恩をうけた者を見くだしている態度とも感じられた。そして、せっかくの善行なのに、その価値をあるていど減じているようにサイラスの目に映った。
「さがすのだ」かれはつづけた。「この尊大な守護者に、われわれが恩知らずでないことを示す日の到来を神に祈ろう!われわれの生命をかけても、その人に恩返しをするのだ!」 (下巻339-340頁) 読者は、「神秘の人」の気配が最初に訪れた瞬間から、おそらくその正体が明かされる時がこの物語の終わりなのだろうと、漠然とではあれ、予感するのではないだろうか。島の生活を流れる南国的な、けだるくも輝かしい永遠の現在の時間の只中に、「神秘の人」は、北方的で父権的な、未来へと、終わりへと、矢のように突き進んで行く直線状の時間を吹き込む。救世主とは、物事を解決する人のことである。「神秘の人」は、主人公たちに道具や火薬を与える。海の上に漂う彼らの灯台となる。彼らに襲いかかる海賊を目にもとまらぬ早業で倒す。死に瀕した病人の枕もとに特効薬を置いて去る。つまり、解決するとは、時間を短縮すること、「終わらせる」ことなのだ。そして、その人物そのものが体現している「謎=神秘」も、解決されるためだけに、つまり物語に終わりをもたらすためだけに、存在しているのである。
サイラスはそれを予感している。「神秘の人」こそが「物語」であり、同時にその「終わり」なのだと。だとすれば、その物語の登場人物でしかない彼らに何ができるだろう。また、われわれ読者に何ができるだろう。物語は終わる。幸福は終わる。サイラスの苛立ちには、ヴェルヌの諸作品の物語を貫くテーゼが、最も抜き差しならない形で現れているのではないか。彼は先に引用した個所のすぐあとでこう繰り返す。
「われわれは人間として、やれるかぎりのことはやろう……しかし、くりかえすが、われわれが会えるとしても、その人がそれを望むときだけだろう」 そう、物語の終わりは、登場人物たちの思惑を離れたところで、常に残酷に訪れるのだ。「神秘の人」は、ある時、一方的に会見を申し出てくる。ついにその正体が明かされる。同時に島の火山活動が活発となり、ついに島は粉々に消し飛んでしまう。もちろん、これは偶然の一致などではない。「そうあらねばならぬのか? そうあらねばならぬ!」
「神秘の人」の正体が明かされる場面には、何か妙な生々しさがある。感動というよりも、鈍い痛みに近い何かだ。地底の湖に浮かんでいる潜水艦の中に導かれたサイラスたちは、大広間の長椅子に、一人の死を前にした老人が横たわっているのを見出す。サイラスは声をかける。
「ネモ艦長、お呼びでしたか? ただいままいりました」 ここでわれわれを捕らえる眩暈に似た感覚の説明として、『神秘の島』と『海底二万里』の作品世界が一つにつながっている、というのは誤りである。違うのだ。正確に言えば、サイラスは、『海底二万里』の「読者」だったのである。
サイラスとネモ艦長の会話の中で、『海底二万里』は、ノーチラス号を辛くも脱出したアロナックス教授が書いた手記だという説明がされているが、そうしたつじつま合わせは重要ではない。『海底二万里』と『神秘の島』は、同一世界に並置されているのでも、それぞれ独立した作品なのでもない。二作品は複雑な入れ子構造を成しているのだ。物語の登場人物が読んだ物語の登場人物が、自らの尻尾を飲み込む蛇のように、自らの死と共に物語を終わらせようとしているのである。この宇宙大の破局が、死火山だったはずのフランクリン山をも爆発させたのだ。ネモ艦長の遺体はノーチラス号を棺として地下深く沈んで行く。同時に火山は噴煙と溶岩を溢れさせ、島と、そこにサイラスたちが築き上げた一切を破滅させてしまう。サイラスたちは船を建造して脱出を急ぐ。
「先生」数日後ナブがたずねた。「もしネモ艦長が生きていたとしても、こんなことになったでしょうか」
「なっていたよ、ナブ」サイラスは答えた。
「わたしはそうは思わないぞ」ペンクロフはナブの耳もとでささやいた。
「わたしもそうなんです」ナブはまじめな顔で答えた。 (下巻446-447頁) さて、最後に主人公達は、九死に一生を得てアメリカに帰還するのだが、そこにはもう一つの「物語」が絡んでいる。実は『神秘の島』には、ネモ艦長の他に、もう一人の異邦人がまぎれこんでいるのだ。それは、ヴェルヌの『グラント船長の子どもたち』の登場人物であるエアトンである。同作では悪役であり、孤島に置き去りにされたエアトンが、廃人同然の状態でサイラスらに救助され、徐々に人間性を取り戻して行く過程が、『神秘の島』の後半部分の一つの柱となっているのである。
ネモ艦長が、死に向かって直進することによって「物語の終わり」を体現しているとすれば、この人物は、「帰還すること」によって、一連の冒険が円環となって閉じるという、これもまたヴェルヌの世界にはおなじみの「終わり」を担っているのだ。この円環状の時間と直線状の時間のはざまで、つかの間(とはいえ、作品の中では四年という月日が過ぎ去るのだが)この世の楽園が姿を見せ、そして永久に消え去ってしまう。
しかし、リンカーン島は本当に永久に消え去ってしまったのか? 否、とヴェルヌは言っているようである。サイラスたちは、アメリカに帰りついた後、ネモ艦長から贈られた財宝で、「アイオワ州の広大な土地」を買い、そこにリンカーンの名を与え、森や山や川にも、かつて島でつけた名前を授けて、そこを開拓し、繁栄させるのである。
この「ハッピーエンド」はどこか物悲しいが、その物悲しさは、「物語を読む」という行為について、何かを語ってはいないだろうか。
つまり、われわれは読んだ物語を実際に生きることはできないが、それをいつでも反芻して生きる糧にできるのだし、それに何より、書物は何度でも読み返して楽しむことができるのだ。
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夜、饂飩をすすっていると、ピンポンと玄関のベルが鳴った。
物売りにしては非常識な時間帯だったので、さては大家のじいさん、また何か文句をつけに来たなと身構えてドアを開けると、そこに銀色の四角いロボットが立っていた。
ロボットは、丸い目玉をチカチカと点滅させ、手錠のような二本指をカチカチと鳴らしながら、挨拶もなしにこう言った。
「心セヨ ・ ガガッ ・ 時ハ既ニ満チタリ ・ ガガッ ・ 米味噌醤油ヲ絶ヤスナ ・ ガガッ」 私は何とも答えようがなかったので、ロボットの頭の上で渦巻き型のアンテナがくるくる回転しているのを黙って見つめていた。するとロボットは、ふいにくるりと私に背を向け、ガシャガシャと歩み去りかけた。
私は特にかける言葉もなかったが、何とはなしに、ロボットの背中を二、三度叩いてやった。堅牢なボディの中に、機械類がぎっしり詰まっているのかと思いきや、空のブリキ缶を叩いたような、妙にうつろな音が響いた。私は訳もなくどぎまぎして手を引っ込めた。
ロボットは振り向いて、飛び出た目玉をまた点滅させた。
「涙ヲ流ス者 ・ ヲ ・ 探セ」 四角い格子状のスピーカーから最後の音節が流れ出ると、目玉のランプがすーっと光を失った。ロボットは再びきびすを返し、ガチャンガチャンと重たげな足音を立てて、夜の闇の向こうに消えていった。


花々が、秘かにオウム貝との婚約を夢見たことがない、などと
一体だれに断言できるというのか。
友人二人と飲む。
仕事から疲れて帰ってきて、家にアンナ・カリーナがいたら、それはそれで困るよね、
という話題で盛り上がる (あるいは盛り上がっていたのは私一人かも知れぬ)。

男は、これじゃあとても12時5分の電車に間にあいっこないな、と思い、
世界を滅ぼすことをあきらめた。
怪物は、またひとしきり耳障りな馬鹿笑いをした後、こう続けた。
「だがわしにも情けはあるぞ。そちの趣向に付き合うのも、ひとときの退屈しのぎにはなろうて。さればこそ、わしもこのようにめかしこんできたのじゃ。さあ、早く案内せい。わしは待たされるのを好まぬ。もたもたしておると、今ここで食ろうてやるぞ」
花嫁は、怪物に向かってぺこりと頭を下げると、こわごわ遠巻きに見守っている親族達に笑顔を向けた。
「さあさあ、みんな中に入ってください。ほら、叔父さんは叔母さんを起こしてあげて。腰を抜かしてしまってるじゃありませんか。武雄もぼっとしてないで手伝うの。お母さんも早く早く。あ、お父さんはここに残ってください。あとよっちゃんとめぐもね。二人には入場のお手伝いをしてほしいの。花屋さん、私にブーケを下さいな、さあ、楽隊の皆さんもしゃんとしてください。トランペットの音がぶるぶるふるえていたら、せっかくの式が台無しよ。」
花嫁は、皆を励ますように、てきぱきと指示を与えた後、怪物に向き直った。
「あなたには、神父さんといっしょに先に入場していただきます。でも、どうかみんなを怖がらせないでください。お願いします」
怪物は、にやにやと笑いながら花嫁を眺めていたが、「よし」と一声言うと、鉤爪の生えた両の手を胸の前でがちがちと組みあわせ、なにやら複雑な印のようなものを結んだ。すると皆の耳がきんと鳴って、あたりが一瞬さっと暗くなった。再び景色が明るくなると、そこには見上げるような怪物の姿はなく、かわって長身の男がすっくと立っていた。
「これでよかろう」
男が言った。黒のタキシードに包まれ、あごひげを生やしたその壮年の男は、一昔前の紳士然とした風貌をしていたが、痩躯にみなぎる精悍な力と、その表情に表れた倣岸さは、まさしく怪物のそれと知れた。そしてその胸元では、相変わらず大きな鬼百合の花が、笑うように身を揺らしながら、毒々しい赤色に輝いているのだった。
昼寝中に見た夢。
何冊か本を買って帰宅すると、母親が待ち構えていた。
早速買い物袋の中を見せろと迫られる。私は先日の離婚騒ぎ以来、母の信頼をまるで失っており(あくまで夢の中での話です。念のため)、それから彼女は私の生活態度のこまごまとした部分にまで執拗な監視の目を光らせてくるようになったのである。
私が半ば冗談、半ばヤケ気味に、エロ本が入っているから見せられぬと答えたのも全く耳に入らないかのように、母は私の手から素早く紙袋を引ったくると、中身をばさばさと床の上にあけてしまい、一冊一冊手にとっては、「これは何?」「これは何なの?」と聞いてくる。
私は適当に返答しながら縁側の外を見やる。庭先から、奥へ奥へと連なってゆく小高い山々がよく見える。そういえば、ここは山のてっぺんだったのだ。遅い春の季節と見えて、庭も山々も、どぎついまでに明るい緑色に染まっていた。しかし大気は重く湿り気をおび、妙に黄ばんだ陽光が、今にもにわか雨がやって来そうだと告げている。
案の定、庭の左手に生い茂っている葉桜の陰から、真っ黒な雨雲がもうもうと立ち上がってきた。谷底から、桜の木の生い茂る斜面を這い上がってきた黒雲は、林と庭の境界線あたりで無数のちいさなちぎれ雲に分かれて、庭を次々と通り過ぎてゆく。一抱えくらいの小さなものから、自動車くらいのものまで、まちまちな大きさの真っ黒な綿埃のような雲が、ちょうど私の目の高さあたりでふわふわと漂いながら、左から右へと通り過ぎてゆくのである。私は山の上だからこういうことも起こるのだろうと納得している。
と、人が歩くほどの速さでしずしずと行進してくる大小の雲にまぎれて、白い大きな瓶がひとつ、宙に浮かんでこちらに漂ってくるではないか。斜めに浮かんだ細長い白磁の瓶の口には、一枝の満開の桜が差されている。いくら山の上でも、こういう不思議はそうそう起こらないだろうと思って、私は母に声をかけた。
「ほら母さん、大きな瓶が流れていきますよ」
しかし母親は、本にはさんであったレシートを調べるのに余念がない。そこに書かれている本の題名を、ぶつぶつと呪文のように唱えている。瓶は私のすぐ目の前をゆっくりと通り過ぎてゆく。すぼまった瓶の口から奇妙に折れ曲った枝が突き出し、そこにびっしりと咲き誇っている小さな花々は、桜というよりもバーミリオンに近い鮮やかな色をしている。
墨汁をたらしたような雲の行列の中で、そこだけ誰に捧げられるとも知れない艶やかな祝祭の空気に包まれて、瓶は庭に繁る雑草の上にくっきりと丸い影を落としながら、段々と遠ざかってゆき、やがて私の視界を限っている、藪とも雑木林ともつかぬ曖昧な黄緑の景色の彼方に消えた。
私は目覚めると、何かもやもやとした不安が襲ってきそうなのを振り払うようにして外に出た。冷気が顔を打つ。なんだ、もう冬じゃないかと思う。

仕事が終わった後、同僚二人と飲む。
他人と会話していて困ることの一つに、その間は自分と会話できない、ということがある。
午前中仕事を休み、実家近くの病院に健康診断を受けに行く。
病院に行くのはたしか、五年以上ぶりである。
しばらく廊下の長椅子で待たされた後、名を呼ばれて内科の診療室に招き入れられる。 まず身長と体重を計られ、次に聴診器を当てられ、その次は血圧、またその次は心電図と、ベルトコンベア―式にテンポよくことが運ぶ。 最後は採血だった。
丸い回転椅子に座り、右腕を伸ばして、見る見るうちに注射器を満たして行く自分の血を眺めながら、何だかどす黒い色だなあ、いやだなあと思っていると、針が引き抜かれ、代わってガーゼの切れはしが押し付けられる。
「強く押し付けていてくださいっ」
と、その女性看護士は「い」の後にちいさな「っ」をつけて言い放ち、私に背を向けた。 二十代半ばから後半くらいだろうか。 なにやら作業をしている手元を休めないまま、私に横顔を見せる。
「次は二階の健康管理室になります。場所はわかりますね?」
「いえ、わかりませんが」
彼女の口元がにっとつりあがった。
「なによ、田舎者ね、二階の健康管理室も知らないなんて」
という風の笑みである。 その上では小さな鼻がちょこんととんがり、その下では 同じく小さなあごがちょこんととんがっている。 青白く、肉の薄い頬にわずかなそばかすがある。
「じゃあそこの階段かエレベーターを使って二階に上がってください」
「はあ、わかりました」
彼女は近寄ってきて、ガーゼを小さな四角い絆創膏と取り替えた。
「このまま2、3分押し付けておいてください…二階に上がったら、吹き抜けがありますから、その周りをぐるっとまわってください。 反対側が健康管理室ですから」
「はい」
座ったままの私を真上から見下ろして、彼女の顔に勝ち誇った笑みが浮かび、小さな鼻とあごが、ますますつんと反り返った。 そのきらきら輝く細長い目がこう言っていた。
「あなたごときに、二階の吹き抜けを回り込んで、反対側の健康管理室にたどり着くことができると思って? 無理ね。 分をわきまえなさい、おほほほほ」
久しぶりに部屋を掃除し、窓を開け放って空気を入れ替える。
ふふふん、へへん。


さて今日も私は無心に仕事をした。
それは罪悪なのだぞ、という声が、どこからか聞こえてくる気がしないでもないのだが、
まあいいや。
黄色。 結婚詐欺師が迎える水曜日の朝。
黄色。 歯医者でわき起こる場違いな高笑い。
黄色。 死人が大真面目で演じるミュージカル・コメディー。
赤。 祝福された孤立。
赤。 全ての喜ばしいものへの予感。
赤。 そこにありながらも、別のどこかに属するもの。
自己満足展覧会その2。
これにてひとまず在庫一掃です。
よろしかったら、それぞれの写真をクリックしてみてください。
頓首。



