一昨日、親戚の一人が死んだと実家から連絡があった。
だから昨日はアパートに篭って静かに喪に服そうと思っていたのである。
ところが何をするでもなくソファベッドに身を横たえていると、昼を過ぎたあたりから何とも居たたまれない気がしてきて、とうとう午後3時を回った頃、夕食の材料を買うという口実を思いつくや、さっと着替えて外に飛び出してしまったのである。
しかしアパートの外階段を下りた途端、私の足は近所のスーパーではなく、まるで先から決まっていたことのように、ためらいなくバス停に向かい、ちょうど坂を下ってきた横浜駅行きのバスに飛び乗ってしまった。道路は空いていて、景色は気持ち良いほど無責任に前から後ろに流れて行く。
何とはなしに関内で降りる。駅前の大きなモニュメントの台座の端で、痩せた男が一人、うずくまって頭を抱えている。彼は薄汚れた濃紺の作業着を身につけ、大きく広げられた両の手の指の間からは、あまりきれいとは言えないもじゃもじゃの髪がはみ出ている。顔は深く沈みこんでいてよく見えない。絶望がそのまま人物の形をとったような光景である。
「いい絵だ」と思った。私はまるで万引きでもするかのように、何食わぬ顔を装いながら、カバンからそっとカメラを取り出した。
その時、私は高架線の下を通る狭い道路の反対側に、いま一人の人物がじっと立っているのに気がついた。その男も一見して労務者ふうである。体格のよい、赤ら顔のその男は、気遣わしげに、頭を抱えている男を見つめている。男の目には、心の底からの同情といたわりが見て取れた。知り合いだろうか? いや、おそらく見知らぬ同士だろう。
その男は、ゆっくりとした足取りで道路を渡ってくると、痩せた男から少し離れた場所に、自分もそっと腰を下ろした。しかし、恐らくは苦労人に時々見られる奥ゆかしさからだろう、もの思わしげにじっと空を見上げているままで、さっきから面を上げようとしない男の方に振り向くことはなかった。
私はカメラをしまい、その場を立ち去った。その男のやさしさを、ついに私は持ち得ない。それに、彼らに正面からカメラを向けるだけの残酷な勇気もない。
思うのは死んだ親戚のことではなく、前の晩、電話口で友人とちょっとした言い争いをしたことである。俺はもっと怒るべきだったのかも知れない。あるいは、もっとやさしくふるまうべきだったのかも知れない。傷つけられたことに、もっと本気で怒るべきだったし、傷つけてしまったことに、もっと本気で悲しむべきだったのかも知れない。全てがいい加減じゃないか。
とにかくここではないどこかに行くことが必要だった。電車に乗り、なるべく汚くて殺伐とした場所を選んで降りた。駅前の通りを抜けると運河に突き当たった。岸辺に沿って、日がすっかり暮れてしまうまで歩いた。つまりはいつもと変わらぬ休日だったわけである。