知人の撮る映画のロケハンを手伝うことになり、中央線沿線のM駅周辺を午後いっぱい歩きまわる。
その後久々に古本屋にて買い物。
今日の収穫:
中村光夫『明治文学史』筑摩叢書 昭和38年 800円
中村光夫『文学のありかた』筑摩書房 昭和32年初版 1200円
吉田喜重『小津安二郎の反映画』岩波書店 1998年初版 1500円
フェルメールの「牛乳を注ぐ女」を見に、国立新美術館に行く。
東京のアパートで暮らしていたころ、古本屋で買った美術本からこの絵を切り取って壁に飾り、何年もの間眺め暮らしたものである。
国立新美術館を訪れるのは初めてである。入った途端、いやな建物だと思う。ここは立ち止まって何かと向き合う場所ではない。ただ通り過ぎる場所に過ぎない。その意味でこの建物は、巨大で清潔な公衆便所によく似ている。
目指す「牛乳を注ぐ女」の前では、人波が途切れることなく流れ続けている。係の女性が、絵の前で立ち止まらないようにと呼びかけている。予想はしていたことなのだ。誰のせいでもない。この羊のように従順に、のろのろと移動し続ける群衆に向かって、「消えろ!」などと怒鳴る権利は私にない。そもそも私自身が他ならぬ羊の一匹に過ぎない。3度列に並んで絵の前を通りすぎる。ごく小さい絵で、柵と絵との距離は2メートルほどもある。しかも照明の当たり具合でテカりが大きい。これでは、実物に触れることをあれほどにも夢見ていた、女の背後で慎ましく輝いている壁の肌触りも、壁にかけられた金物の容器が反射する光の粒も、女が腰に巻いている衣服の鮮やかな青色も、何一つ満足に見られはしない。何かが決定的に間違っている。しかしその誤りは、ここにいる私自身をも巻き込んだ巨大なものなので、抗う術がないのである。ふと実験映像作家のジョナス・メカスの言葉を思い出す。
「ある時あなたはフェルメールかヤン・ファン・アイクかジョーゼフ・コーネルの作品の前に立つ。ふいにあなたは目覚め、あなたの内部で何かがざわめきだす。あなたの本質的部分がこれまで日一日、ゆっくりと音もなく死につつあったのだということに思いいたって、あなたは恐怖に身震いする」 私はそういう体験がしたくてここに来たのだ。そのかわりに見出したのは、レミングの死の行列の中にいる自分自身である。情けない。まったくもって情けない。東京のアパートに掛かっていた絵は引越しのときに破れてしまったので、ミュージアムショップで500円の複製画を買う。
美術館を出たら、何だかグダグダに酔っ払いたくなってきたので、友人に電話して新橋で落ち合い、安酒場にもぐりこむ。
その友人が言うには、
「貴君は我輩をいつも上から見下ろしておる。だから我輩はリラックスできないのである」
「貴君は酔っ払うといつも同じことばかり言う」
「貴君はツマミと酒を摂取するリズムがなってないのである」
「タコワサ400円は高いのである」
「サバは焼くもんじゃないのである」
「我輩がかくも苦しんでおるのに、貴君は本気で同情してくれぬ。貴君は冷たい男である」
素晴らしい友人である。