
私の見る夢は、よくこういう薄ぼんやりした光に照らされているような気がします。
すべてをあばき出す、まひるの太陽の光と違って、闇も、忘却も、びろうどのように、優しくやわらかく包み込む光です。
そしてそこには、シューベルトが響いていなければなりません。
あの、どこかに冷たく優しい死の腕(かいな)をひそめた、蒼ざめた微笑みがなければなりません。
今日の夕方、商店街をぶらぶら歩きながら、私は、昨日ある人に「あなたは何を考えているかわからない」と言われたことを思い出していた。
その時、私はギョッとしたのだった。「驚いた」とか「唖然とした」ではなく、まさに「ギョッとした」のである。そうとしか言いようがない。晴天の霹靂であった。
ふとそこで気になったのは、この「ギョッ」なるコトバの正体は一体何だろうということである。なぜ「ギョッ」なのか?私はしばらく考えて、一応もっともらしい推論を導き出した。つまり、目を見開いて驚くさまであることから、「凝(ギョウ)」が訛ったものではないかと思われるのだ。
しかし、私の頭にまず浮かんだのは、凝ではなく、魚のギョであった。魚屋の店先に横たえられた大きな灰色の魚が、虚空に向けて、ぎょろりと丸い目を見開いている様がまざまざと思い起こされたのである。冷たく、青臭い「ギョ」である。昨夜の私も、たぶんそんな目をしていたのではないかと思われる。そういえば、「魚屋さんが驚いた。ギョッ」なる駄ジャレがあったことなども思い出す。
ああKさん。今、私の脳ミソの中身を披瀝しましたが、私が普段考えていることなんて、こんなもんなんです。あまりの浅ましさに、書いていて自分でも悲しくなります。
私の幾らかヌーボーとした面差しが隠しているのは、悪鬼がおぼろに蠢く深淵でも、目も眩む高峰でも、飢えた狼が跋扈する荒れ野でも、稲妻のごとく閃く狂気でもありません。そこではただ、ひとつの小さな魂魄が、あなたの言葉の周りを、フワフワと行く当てもなく漂っているばかりなのです。