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2008年08月20日15時55分、豊島区東池袋
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2008年08月20日15時54分、豊島区東池袋
 
 
2008年08月20日15時53分、豊島区東池袋
 
 
2008年08月20日15時52分、豊島区東池袋
 
 
2008年08月20日15時48分、豊島区東池袋

 
2008年08月20日15時46分、豊島区東池袋
 
 
2008年08月20日15時25分、豊島区東池袋
 
 
2008年08月20日15時45分、豊島区東池袋
 
 
2008年08月20日15時39分、豊島区東池袋
 
 
2008年08月20日15時37分、豊島区東池袋
 
 
2008年08月12日18時52分、厚木市温水
 
 
2008年07月30日18時07分、足立区柳町
 
 
2008年07月30日18時54分、葛飾区青戸
 
 
2008年07月30日18時17分、足立区柳町
 
 
2008年07月30日16時25分、足立区千住橋戸町
 
 
2008年08月12日18時41分、厚木市温水
 
 
2008年08月12日18時30分、厚木市温水
Eさんへ。
 
 
2008年08月12日17時47分、厚木市
 
 
2007年07月29日12時36分、三浦市南下浦町金田
 
 
2008年07月30日16時20分、足立区千住橋戸町
 
 
2008年07月30日16時01分、足立区千住橋戸町
 
 
2008年07月30日16時19分、足立区千住橋戸町
 
 
2008年08月05日19時42分、新潟市
 
 
 
 
2008年08月05日22時23分、新潟市、飲み屋Gにて
 
 
 ギャラリーがはねた後、O氏と連れ立って夜の街に繰り出し、何軒かハシゴして朝まで飲む。2軒目に入ったO氏のなじみの飲み屋で、ママから何度も「バカァ!」「バカァ!」と怒られる。なぜ怒られたのかはよく覚えていない。小アジのからあげがやたらうまかったのは覚えている。最後の店には、そのママも一緒にやってきて、O氏と3人でへべれけになる。
 ホテルで昼過ぎに目を覚ますと猛烈な二日酔である。寺泊に寄ろうという計画は即座に捨て、一度ギャラリーに寄って、半死半生の体でO氏に別れを告げると、さっさと新幹線に乗ってしまった。2時間寝て過ごすと、もう東京である。胃は相変わらず重い。でも楽しかった楽しかった。
 
 
2008年08月05日18時21分、O氏、新潟市のギャラリーEにて
O氏。 
 
 
 
2008年08月05日18時25分、O氏、新潟市のギャラリーEにて
 
 
 
 
2008年08月05日18時26分、新潟市のギャラリーEにて
奥にある人形は、O氏の手になる「ノロマ人形新郎1号」である。
 
 
2008年08月05日16時57分、新潟市
 
 
 
 
2008年08月05日17時31分、新潟市、柳都大橋より信濃川をのぞむ
 
 
 
 
2008年08月05日17時38分、新潟市
 
 
 
 
2008年08月05日17時41分、新潟市
 
 
 昨日今日と新潟に出かけてきた。
 友人のO氏が新潟市内のギャラリーで個展を開いているので、久しぶりに会って飲もうということになったのである。私は幼少時を新潟で過ごしているので、里帰りのような意味合いもある。
 新潟駅前は、日本全国どこにでもあるような、無個性で殺伐とした繁華街である。それでも降り立った瞬間に、ああ新潟に帰ってきたなあと思った。気のせいだと言われればそれまでだが、新潟の大気には独特の匂いがあるような気がする。親密で、なおかつ清潔な、豆炭のようにほこほことした、あるかなきかの香りが。
 その感覚は、信濃川を渡って古い町に入り込んで行くと、さらに強いものになる。新潟は空が広い。その茫洋とした空の下で、人間の営みが、平たく、いじらしく、どこまでも続いている。
 その広がりを真っ二つに割って信濃川が流れていて、私は5歳まで、堤防をすぐ背にした木造平屋の社宅に住んでいた。よく堤防のへりから川の流れをぼーっと眺めていた気がするが、河口を目と鼻の先にひかえた大河の流れはごくゆっくりしていて、海から来る微風が立てる細波のせいか、私は川上と川下をすっかり逆にとりちがえていた。
 そこからもわかるように、幼い私にとっての信濃川は、ちょうど家の裏の堤防から目のとどく範囲にだけ存在していた。それは裏庭の背後にそそり立っている昭和橋から始まって、向こうに霞んで見える越後線の鉄橋あたりで尽きていた。その彼方でも川が続き、世界が無限に広がっているであろうことなどは、夢にも考えなかったような気がする。
 今から思えば、ここで過ごした数年間が、私の一生の中でも一番のんびりした時代だったかも知れない。私はここで、確かに何度かの四季を過ごしたはずなのだが、私の記憶の中の信濃川の流れは、いつも春の陽気の中で灰色にまどろみ、満ち満ちて欠乏を知らず、堤防のコンクリに、たぷんたぷんと眠気を誘うリズムで打ち寄せているのだ。私にとってこの頃は、苦しみをまだ知らない、理想郷にも似た原風景として記憶に残っている。もっとも母に言わせれば、この時期の我が家は、まだ若い父の安月給と家庭に対する冷淡さに苦しめられて、暗澹たる時代だったそうである。当時の私はそんなことは夢にも知らず、世界一の母と、ちょっとこわくて得体の知れないところはあるが、やはり世界一の父といっしょに、世界一の家に住んでいると信じ切っていた。狭くて荒れた裏庭も、私にしてみれば運動場のように見えた。そこには小さな空色のプラスチックの池があり、メダカのような金魚が泳いでいた。奥には蜜柑の木が一本立っていて、ある日、どこからか迷いこんできた緑のセキセイインコがとまっていた。春先には小さくて赤いイチゴがとれ、砂糖とミルクをかけて食べるのがごちそうだった。
 このころ見た美しい夢を、いまだに一つ、覚えている。当時の私の疑問は、夜と朝の境い目は、一体どうなっているのだろうということだった。ある日、それを夢に見た。私は夜中、縁側から真っ暗な裏庭を眺めている。すると天空からまぶしく輝く星が一つ飛んできて、ネズミ花火のようにはじけながら、庭のそこら中をはねまわる。すると、オーケストラのジャーンという長調の響きと共に、にわかに空が明るくなって、朝が訪れたのである。
 私は5歳の春、父の転勤で、新潟市内から寺泊という海辺の町に引っ越した。寺泊は今でこそ海産物が売り物の観光名所となっているが、私が住んでいた当時は、まだちっぽけな田舎の漁師町に過ぎなかった。
 私はそこで、生まれて初めて、生きることが苦しいことだと知ったのである。今まで母に守られ、クリスチャンの幼稚園でのほほんと育ってきた私は、寺の境内にあるペンキが剥げかけた木造の保育園で、荒荒しい漁師のせがれたちの格好の嘲弄の的となった。真っ黒く日焼けした顔の中で目と歯だけ白くキラキラ光らせた、これら敏捷で獰猛な小動物たちは、私の動作が一々のろいことを、ことあるごとに笑いものにしたのである。先生も味方にはなってはくれなかった。私は給食を食べるのが遅いと責められ、まずい脱脂粉乳を吐いたので責められ、昼寝の寝つきが悪いと責められ、不器用で折り紙がうまく折れないことを責められた。皆の画帳は、色とりどりの紙で折られた梅の花やうぐいすやふくろうで次々と埋まって行ったが、最初の折り鶴でつまづいてしまった私の画帳は、いつまでも真っ白のままだった。
 廊下にひとり立たされて泣いていると、年長組の、太った細い目の女先生が、私の足元に四角いブリキの缶を置いた。涙がどれぐらいたまるか、ひとつ見てやろうというわけだった。そしてオルガンが鳴り、皆が大声で合唱した。
「オバカサーン、オバカサーン、ドコデショウ!」
「アソコデース、アソコデース、アソコデス!」
 今から思えば笑ってしまうほどひどい話だが、幼く愚かだった私は、それらの仕打ちを、草食動物のようにじっと耐えていた。恨みも、反省もなかった。漠然と、自分とはそういうものなのだと思っていた。幼いながら死について初めて考え、眠れない夜を過ごしたのもこのころだと思う。私に残っている寺泊の記憶の底ではいつも、冬の鉛色の曇天の下、海から吹きつける霙まじりの吹雪が荒れ狂っている。これが私のもう一つの原風景である。
 この情景の彼方に透かして見えるからこそ、信濃川縁ですごした時代がなおさら美しく思い出されるのかも知れない。いずれにしても信濃川は、私にとってある種の聖地である。ギャラリーに向かう途中で、新しくできた大きな橋を渡った。そこから見下ろす茶色くたゆたう流れは、記憶の中のそれと寸分たがわない。細波の具合で、実際の流れと逆に流れているように見えるのも、昔と同じである。
 
 
2008年07月30日15時43分、足立区千住仲町
 
 
2008年07月30日15時42分、足立区千住仲町
 
 
2008年07月30日15時35分、足立区千住仲町