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2008年09月01日15時48分、新潟県長岡市寺泊町
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2008年09月01日12時59分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月02日09時01分、新潟県長岡市寺泊町


2008年09月02日08時58分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月02日08時50分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月02日08時49分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月02日08時36分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月02日08時42分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日115時17分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日15時42分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日15時26分、新潟県長岡市寺泊町

 
2008年09月01日15時37分、新潟県長岡市寺泊町

 
2008年09月01日15時20分、新潟県長岡市寺泊町

 
2008年09月01日12時41分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年09月01日12時41分、新潟県長岡市寺泊町
  
 
2008年09月01日12時19分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年09月01日12時40分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日11時45分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年09月01日11時05分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日11時35分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年09月01日10時51分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日12時08分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日11時50分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日10時53分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年09月01日10時49分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年09月01日11時33分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年09月01日09時48分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日10時09分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊水族博物館
 
 
 
 
2008年09月01日10時11分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊水族博物館
 
 
 
 
2008年09月01日10時14分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊水族博物館
 
 
 
 
2008年09月01日10時17分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊水族博物館
 
 
2008年09月01日09時35分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊水族博物館
 
 
 
 
2008年09月01日09時36分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊水族博物館
 
 
 
 
2008年09月01日09時44分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊水族博物館
 
 
 
 
2008年09月01日10時02分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊水族博物館
 
 
2008年09月01日09時15分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊水族博物館
 
 
 
 
2008年09月01日09時21分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊水族博物館、孵化間近の虎鮫の卵
孵化間近の虎鮫の卵
 
 
 
 
2008年09月01日09時25分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊水族博物館
 
 
 
 
2008年09月01日09時33分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊水族博物館
 
 
 
 
2008年09月01日09時34分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊水族博物館
 
 
2008年08月31日17時48分、新潟県長岡市寺泊町、かつての父の職場
 
 
 
 
2008年08月31日17時44分、新潟県長岡市寺泊町、広場の噴水
 
 
 
 
2008年08月31日18時07分、新潟県長岡市寺泊町、昔ここの2階に住んでいた
 
 
 
 
2008年08月31日18時00分、新潟県長岡市寺泊町、野積橋より
 
 
 何十年か前のある時、ひなびた漁師町の外れに、真新しい近代建築の福祉施設ができた。国道を隔てた向かいの丘の上には、鉄筋コンクリート3階建ての、真っ白な社宅が建てられた。私たち家族は、そこの一期生である。
 まだ若く、同じような年代の夫婦同士はすぐに打ち解けて、家族ぐるみの親密な付き合いが始まった。みな平等に新参者だったので、煩わしい上下関係もなかった。私たち家族は、東の端の2階に住んでいたが、よく隣の家族や、その下の家族と夕食を一緒に食べたのを思い出す。
 残業のない公務員で、おまけに通勤時間が1分だったから、遅番でないかぎり、父の帰宅は早かった。夕食後、暮れ方に、私たち家族はよく近所を散歩した。歩いている内に、とっぷりと日が落ちて暗くなる。すると夜空との境界線を失いつつある暗い海の彼方で、イカ釣舟の灯りが点々と瞬き出すのである。そんな時、父と母は、よく声を合わせて歌を歌った。近所迷惑にならぬよう、アルトとバスの低い声で唱歌を歌うのである。
 私はこの時間が大好きだったが、社宅の裏の坂道を下るコースだけはいやだった。なぜなら坂の下の国道にぶつかるあたりには、一匹の猫の死骸が横たわっていて、いつまでも放置されていたからだ。猫は日に日に平たくなって、やがて骨と皮だけになり、ついには骨だけになってしまった。冬が来て雪が積もり、春が来て雪が溶けると、もう跡形もなくなっていた。私は死ぬことは恐ろしいと初めて思った。
 さて、私は部外者立入禁止の表示をものともせず、かつての父の職場の前に立っていた(なにせ私は一期生の息子である)。当時新築だった建物はすっかり古び、歴史的建造物の風格さえ漂わせていた。広場の四角い噴水は干上がっていた。その四隅に現代彫刻風のオブジェが置かれている。そうだ、私はこの不思議な形状を覚えている。この噴水の回りで、毎日のように遊んだものだった。
 国道を渡り、坂を登ってかつての家を見に行った。カーテンのない、むき出しの窓の列が残照を受けてオレンジ色に燃えている。今は誰も住んでいない廃屋なのである。ショックはない。むしろまだ壊されずに残っていることが驚きだった。
 再び坂を下りて、野積橋を渡る。寺泊に越して来る前、信濃川の河口近くに住んでいたことを以前に書いたが、不思議なことに、ここもまた信濃川の河口である。それが大河津分水という人工の支流だということは、ずっと後に知った。幼い私は、信濃川が二つあることを、ごく自然に受け入れていたのである。
 橋の真中に佇み、海の向こうに沈んで行く太陽を眺めていると、初めて感傷らしきものに襲われた。遠くに来たな、と思った。
 
 
2008年08月31日16時32分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊保育園の鐘楼
 
 
 
 
2008年09月01日15時31分、新潟県長岡市寺泊町、保育園から公園に下る道
 
 
 
 
2008年09月01日15時35分、新潟県長岡市寺泊町、公園の古池
 
 
 かつて通っていた保育園に行く。山腹の寺の境内にある保育園である。旧道から伸びる古い石段を上り詰めると、正面に寺があり、左手は墓地に続いている。右手にはすぐ鐘楼があり、その奥に保育園がある。建物は新しくなっていたが、記憶の中のそれと造りは全く変わっていなかった。
 正面玄関を入るとまず広い講堂がある。休み時間ともなると、ここは洟垂れ小僧どもの仁義なき権力闘争の舞台と化したものだった。一段高い正面のステージは、選ばれた勝者しか登ることを許されない聖なる玉座だった。私はそれを、隅っこからいつも指を咥えて眺めていたものである。
 講堂の奥に廊下が一本伸びていて、そこに年中組と年長組の教室が連なっている。思い出すのは、さらにその奥にもう一つ小部屋があったことだ。そこは教材や遊戯の道具が雑然と置かれた物置になっていた。私はよく保育園にいるときに熱を出して寝込んだものだが、そんな時に連れてこられるのは、このほの暗い部屋の片隅に置かれた小さなベッドだった。私はそこが好きだった。皆から離れてひとりそこに横たわり、病気であることの孤独と特権を味わいながら、火照った頭で棚に並んでいる紙芝居を片っ端から取り出しては眺めたものだった。
 保育園の脇の細い道を入って行くと、その先はふもとの公園に続く下り道である。その公園も毎日の遊び場の一つだったが、あまり日の差さぬ陰気な場所だったことを思い出す。その一隅に、弁慶が掘ったとされる井戸の跡があり、そのいかにも眉唾な史跡の前に、淀んだ小さな池があった。私はこの公園のことも、池のことも殆ど忘れかけていた。ある日、その池の底で大きなオタマジャクシが何匹もじっと動かないでいるのを見かけたことだけを、今でもかすかに覚えている。
 さて、私は今更こんな場所を訪ねて、一体何をしているのだろうか。追憶に浸るということとは少し違うと思う。私の心の中で、幼い目で見た印象のまま極端に肥大していたり、逆に記憶の彼方に徐々に霞んで行き、今や脳髄の表面の小さな染みのようなものに過ぎなくなっていたりする光景を、現在の私の歩幅と視界で辿りなおすことには、懐かしさというよりも、神話破壊に似た覚醒の喜びがある。長らく記憶の底のおぼろな影に過ぎなかった古池が、今や嘘のようにあっけらかんと取り澄まして、私の眼前に横たわっている。不思議だなと思う。愉快だなと思う。
 
 
2008年08月31日16時03分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年08月31日15時41分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年08月31日16時30分、新潟県長岡市寺泊町
 

 8月31日午後、長岡駅に到着する。そこからバスに乗って、ただっ広い田んぼの中を揺られること1時間余り。最後に山一つ越えると海に出る。寺泊である。
 港の前のバス停に降りると、もう陽が傾きかけている。宿の予約などしていなかったので、まずは観光案内所を探して、適当な旅館を紹介してもらう。古くてもよいかと聞かれたのでいいと答えると、案内されたのはなるほど老舗というよりも、単に薄汚くて投げやりな感じの旅館だった。それがかえって旅情をそそって良い。
 宿に荷物を置いて身軽になると、町を横断して、自分がかつて住んでいた社宅へと向かう。海辺の町によくあるように、寺泊は、海と山に挟まれて、細長い単純な構造をしている。海沿いに走る幅広い国道と、それに平行して少し内陸に引っ込んだ、昔ながらの町並みを残す旧道。その2本の線で、この町は大抵記述されてしまうのである。
 かつての私の生活圏は、当時町外れの丘に新築されたばかりの社宅と、町の中ほどの山の上にある保育園を両端とする、この新旧2本の線分の上にあった。もっとも最後の1年は小学校に上がったが、その校舎も保育園のすぐ近くである。
 毎日通った道は2キロ弱程度だろう。その帰り道を辿りなおすようにして、ぶらぶらと以前の家に向かった。
 
 
2008年08月31日17時57分、新潟県長岡市寺泊町、野積橋より日本海を望む

 
 私の寺泊を巡る旅は、まずこの風景から始められなければならない。
 私は野積橋をすぐ足元に見下ろす高台に、5歳から7歳までの間住んでいた。
 
 
2008年08月30日17時00分、群馬県沼田市大原
 
 
 
 
2008年08月30日17時04分、群馬県沼田市大原
 
 
 
 
2008年08月30日16時48分、群馬県沼田市大原
 
 
2008年08月30日14時38分、群馬県沼田市大原
 
 
 
 
2008年08月30日14時42分、群馬県沼田市大原
 
 
 
 
2008年08月30日10時41分、群馬県沼田市大原


 先月の29日から、2泊3日で群馬の山奥にある母方の実家に泊まった。友人のY氏も一緒である。
 実家とはいえ、祖母も祖父もとうの昔に亡くなっており、母の妹も嫁いで行ってしまったので、長らく空家のままである。そこを私の家族が、時々別荘のように使っているのである。上越線のN駅を下車してバスに揺られること1時間弱。国道のバス停から村落を通り抜け、谷間に広がる畑の中を数分歩けば、そこはもう山々を目の前に控えた村外れである。私たちの「別荘」は、そこにぽつんと建っている。
 私はじっくりと読書をしようと本を持参していた。もとより最寄のコンビニまで歩けば1時間かかるような場所である。当然ネットなどはない。テレビはあるが、電波状態が悪く、ほとんど何が映っているかわからない。私もY氏も車を持たぬので、陸の孤島同然の環境である。Y氏は何やらここで人生を見つめ直すつもりらしかった。
 さて結果であるが、私は目当ての本を5ページも読み進められなかった。では何をやってたかといえば、私たちは二日二晩ひたすら飲んだくれていたのである。その間飲んだビールと発泡酒はロング缶で20本を軽く越え、その他に焼酎とウイスキーの瓶をそれぞれ1本ずつ空にした。夕方いい気分で散歩に出ては、踊ったり、叫んだり、すれ違う車を睨みつけて中指を立てたり、農家の庭先で吠えかかる犬に襲撃をかけたりした(私たち二人の内、どちらがリーダー格だったのかは想像にお任せする)。
 私たちは31日の朝、ぐったりとして荷物をまとめ、バスに乗った。Y氏と私はN駅で別れた。彼はそのまま家に帰り、私はさらに上越線を下って新潟に向かったのである。Y氏とはそれきりなのだが、一つ聞き忘れたことがある。果たしてこの3日間で、Y氏は人生について何か悟ることはあったのだろうか。