2008年09月01日18時24分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年09月01日18時20分、新潟県長岡市寺泊町
イカ釣舟 
 
 
 
2008年09月01日18時38分、新潟県長岡市寺泊町、イカ釣り舟の灯り
イカ釣舟の灯り
 
 
 
2008年09月01日18時40分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年09月01日18時46分、新潟県長岡市寺泊町


本日臨時開店です。
実家のPCより更新。
ずいぶん間が空きましたが、寺泊シリーズはこれにて終了です。
新居にネットがつながるまで、もう少しかかりそうです。
それまで皆さま、当ブログをどうぞ忘れずにやって下さいまし。
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唐突ですが、本日引っ越すこととなりました(同じ市内ですが)。
新居にネットがつながるまでしばしお休みさせていただきます。
来週明けには再開したいと思いますので、それまで忘れないでやってくださいまし。

ムー大陸
 
 
2008年09月01日18時04分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日17時44分、新潟県長岡市寺泊町、寺泊港、イカ釣り舟
 
 
2008年09月01日17時16分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 小学校の初登校日、下校時間になると、私は担任の教師に近づき、おずおずとこう尋ねた。
「ここでも僕は叱られるの?」と。
 すると若い新任の女性教師は、何も言わずに初対面の私を突然抱きしめた。
 O先生は泣いていたそうである。
 そうである、と書いたのは、私にはその時の記憶がなく、それを見ていた母親から、後々何度もその話を聞かされたからだ。
 覚えてはいないが、多分私はその瞬間に救われたのだと思う。小学校への入学を境にして、私の記憶の中のイメージは、がらりとその色彩を変えるのである。保育園時代の記憶が単調で陰鬱な暗緑色のイメージで塗り固められているのに対して、引越しで転校するまで、そこで過ごした一年間の記憶には、概して色彩豊かで明るいものが多い。
 といっても、私のノロマぶりは以前と変わらぬままで、午後の授業が始まっても、私一人は給食を食べ終えることができず、半かけのコッペパンをいつまでもモジモジといじくり回していた。保育園時代なら、私はそんな時、便所に正座させられたまま、残りを無理やり平らげさせられたものだが、O先生の特別なはからいで、残りはビニール袋に入れて家に持って帰ってよいことになった。
 当時の私は見るも無残にイジけていたのだと思う。それに対してO先生が取った対策は、とにかく私をホメまくることだった。
 体育の授業で、「ころがしドッヂボール」なる種目があった。ルールはドッヂボールと一緒だが、玉を投げるのではなく、読んで字のごとく、アンダースローしてボールを地面に転がすという、大変のんびりした球技である。地面を転がっているボールになど、誰が当たるものかと思われるだろう。当時の私もそうだった。私はケラケラ笑いながらボールを取ろうと近づいては、うまくつかめずにはじいてしまい、真っ先に外野に追いやられた。そんな私をO先生は「勇気がある」とほめてくれたものである。
 豚もおだてりゃ木に登る、とはよく言ったもので、極度の不器用さと運動音痴こそ治らなかったが、私は国語や算数では徐々に頭角を現し出し、ついには神童に近い扱いを受けることになった。読書感想文が地区で表彰された。私は毎日図書館に出入りし、2キロの通学路を本を読み読み帰った。そういう様子が田舎の漁師町では珍しかったのだろう。男子にはやっかみを受けてよくいじめられたが、上級生の女の子からはチヤホヤともてはやされた。
 O先生には感謝しても感謝し切れないだろう。多分、O先生と出会わなければ、私は今とはかなり違った人生を歩んでいると思う。もっともこの時期がいい事づくめだったかと言えばそうも言えず、相変わらず私はクラスの中ではミソッカスでイジメられッ子で孤立していた。大きな変化は、そこに既に自意識の萌芽ともいえるものが生まれ始めていたことだろう。以前の私は、ある意味、草食動物的な大らかさで自分の境遇を受け入れていたが、いまや私は自他を別の眼差しで眺め始めていた。保育園時代の、物憂く悲しいが、どこか牧歌的でもある一本調子の世界から、私は光と影がはっきりと分かれた世界に踊り出た。得意の絶頂の後に、悲しみと孤独が襲ってきた。幼く脆い誇りと、幼いがそれだけ大きな恐れがぶつかった。その後には必ず幼いが苦い羞恥と後悔が残った。つまりは今の私と完全に地続きの私がそこにいる。
 しかし、その頃の思い出で一番私の印象に残っているのは、実はそうした事どもではない。私が入学して早々に、古くて暗い木造の旧校舎が壊され、建材の香りも高い鉄筋コンクリートの新校舎が建てられた。明るい図画工作室で、私たちは初めて絵の具と筆を使って雲の絵を書いた。呑みこみの悪い私は、なみなみと水が入った透明なビニール容器の意図がわからなかった。もちろんそれは、ある色を塗り終わった後、次の色を塗るために絵筆を洗う容器なのだが、私はその理屈がわからず、筆を洗わぬままどんどん色を塗り足して行ったので、ついに私の雲は何とも形容のつかぬ禍禍しい色彩を帯びるに至った。O先生は「地獄の雲のようね」と笑った。私も笑った。それでも私は、筆先からごわごわした真っ白い画用紙に、絵の具がじんわりと滲んで行くのを美しいと思った。
 私は時折、意味はさっぱりわからないながら、回りの同級生が筆を洗うのを真似して、絵筆を容器に突っ込んでみた。窓から差し込む横ざまの光を浴びて、白く輝く透明な水に、紫の絵の具が煙のようにゆっくりと広がって行った。私はそれも美しいと思った。私が光と色の美しさを初めて意識したのは、たぶんこの時だと思う。私はフェルメールの絵を見るたびに、その時図画工作室に満ち溢れ、くつくつと笑いながら、机で、壁で、踊り回っていた陽光を思い出す。
 三学期が終わり、二年に進級しようという時に、私たち家族は今の実家があるK県に引っ越した。引越しの日、家にO先生が来てくれた。先生はまた泣いた。私も泣いた。その時のことはよく覚えている。先生とはその後も何年かの間文通していたが、やがてそれも絶えた。
 さて、私はその思い出の地を、何十年かぶりに訪れた。「新校舎」はまだ健在で、プールも体育館も記憶のまま変わっていなかった。既に夕方だったので校内はがらんとしていて、児童の姿は一人も見えなかったが、そこだけ明かりの灯った職員室で、大勢の教師が忙しそうに働いているのが窓越しに見えた。ふとO先生の近況を尋ねてみようという気持ちが起こったが、怪訝な顔をされるだけだろうと思い直し、その場を去った。
 
 
2008年09月01日16時52分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年09月01日16時04分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日15時45分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年09月01日17時25分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年08月31日16時35分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日17時24分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日12時42分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 

2008年09月01日17時05分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日17時04分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
2008年09月01日16時42分、新潟県長岡市寺泊町
 
 
 
 
2008年09月01日16時45分、新潟県長岡市寺泊町