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某掲示板にアップした駄文に手を加えたものでございます。


 オナニー係数とは何か。
 それは下品な冗談でも何でもなくて、東欧の神学者たちがほぼ二十世紀まるまるかけて洗練させてきた概念である。
 旧約聖書のオナンの逸話に始まって、キリスト教社会では自慰が罪とされて来たのは周知のごとくであるが、 東欧で共産革命が勃発したのと前後して、ギリシャ聖教の一部の神学者たちが、そのタブーについて真剣な考察を始めたのである。
 このラディカルな動きは、革命によって存亡の危機に晒された宗教界が、共産主義の「科学的」姿勢に迎合したためと考えられなくもないのだが、 1919年に「宗教的罪悪に対する実効的な解決策を呈示する神学者による国際学会」という長ったらしい名前の学会を立ち上げた神学者たちは、当局からほとんどアンダーグラウンドに近い扱いを受けながらも、毎年聖バレンタインの日に大会を開いて、なぜオナニーという罪が神に禁じられていながら、こうも人間界に日常的に蔓延しているのかという根本的な謎について、精力的に考察を重ねてきたわけだ 。

 さて、そこでオナニー係数なる概念が登場して来るわけだが、これは個々人のオナニーによる罪の軽重を数値化した指標だ。
 計算方法は極めて単純で、生まれてから今までに行ったオナニーの回数を、同じく生まれてから今までに行った性交の回数で割るというものだ。 つまり、今までにオナニーを千回、セックスを五百回行って来たとしたら、オナニー係数は「2.0」だということになる。 そして、対象の個人が死ぬまでに積算されたオナニー係数を最終係数と呼び、その数値いかんで罪の重さが決定されるとしたのである。

 学会はさらに、最終係数の数値をランク分けして、

 1.0以上5.0未満を基本的に神のお咎めなし
 5.0以上10.0未満を軽微な罪(煉獄相当)
 10.0以上を重大な罪(地獄行き)

とした。

 随分アバウトな仕分け方だと思うが、各々の数字に厳密な宗教上の意味があるらしい。 ところがこの学説は、発表当時から重大な欠陥が指摘されて来ている。 つまり、童貞と処女の場合、分母となる性交回数がゼロだから、オナニー係数は無限大になってしまうわけだ。 これでは罪の数値化という根本目標が達成できないばかりか、聖職者や聖処女マリアの罪が無限大になってしまう。 学会は第二次大戦をまたぎ四十年以上に亘って紛糾した。

 童貞と処女のオナニー係数が無限大になってしまうことに対する学会内の態度は大きく二分された。
 まず「保守派」にくくられるグループは、この「無限大解」をそのままで是とした。 彼らの解釈としては、無限大解は罪の大きさを表すのではなく、正しく聖母マリアの処女懐胎を行った神の「御業は計りがたし」ということの証明に他ならないとした。
 つまり、この理論は世俗に住む人間の罪を計測するためにあるのであって、神や神に近い存在である童貞や処女に適用するのはそもそも誤りだというのだ。この保守派はさらに細かい学派に枝わかれしながらも、学会構成員のほぼ七割を占めていたという。
 他方小数派の「行動派」は違う見解を持っていた。彼らは計算式そのものにどこか欠陥があると考え、地道なフィールドワークと理論的研究を精力的に続けた。
 彼らの研究は辛苦を極めた。行動派の学会員たちが都市部でいわれなき迫害を受けた結果、サンプルのほとんどは、辺境の寒村に住む、無知文盲な老若男女ということになった。学会員は僧侶としてこうした村の教会に赴いては、村民の懺悔を聞くという体裁で、せっせとサンプル収集に励んだわけだ。
 しかし、この方法は、時に極めて深刻な結果をもたらした。懺悔を行っているさなか、高潔であるはずの僧侶が突如として奇妙な誘導尋問を始めるものだから、純朴な善男善女はたいそう驚きいぶかしんだ。こうして、罪といえば奇妙な情熱に取り憑かれているというだけの、敬虔な神学者が、村中から袋だたきの目に合って追い出されることも、決してまれではなかったのである。
 さらに悲劇的なことは、この方法をとる学会員の中に「転向者」が相次いだことだ。若い学会員が、妙齢の女性にあられもない質問をしているうちに、双方ムラムラときて、結局その村で所帯を持ってしまう。という事態が相次いだからだ。こうした不届きものを、「行動派」は許しはしなかった。「転んだ」者たちは学会から永久追放となり、同時に学会員の永久の呪詛の対象となった。
 一方、殉教者として同胞の尊敬を一身に浴びる者もいた。彼らは自らをサンプルとした。つまり日に日に過酷な「行」をなした結果、衰弱死した者もいたのだ。彼らの墓碑銘には、かならず「悪魔の脇をかすめて神にいたりし者」という文言が添えられた。

 そして、1968年、その血のにじむような努力がついに花開くことになる。
 ヘルシンキで行われたその歴史的な大会で、トルクメニスタンの若手神学者グループが 「自然数解」という画期的な学説を発表した。これは以後「ヘルシンキ解」と呼ばれ、学会の標準学説となる。
 その学説によれば、本来宇宙に「ゼロ」なる数字は存在しない。ゼロはアラビアの異教徒がでっち上げた偽の概念に過ぎないから。よって数字は全なる「1」から始められなければならない。つまり、性交もオナニーも経験していない子供のオナニー係数はゼロ分のゼロではなく1分の1、すなわち聖なる全き「1」である。分子の1はキリストが背負った原罪の1、分母の1は生まれた際に母親が腹を痛めた際の1とされた。
その始原の数字に俗世の経験が積み重なることでオナニー係数が生じる。
 つまり、正しい公式は

(1プラス今までのオナニー回数)
割る
(1プラス今までのセックス回数)

となる。
 一部のひねくれものから、「それではオナニーとセックスを同数行えば 罪がチャラになってしまうではないか」との異論がなされたが、それは発表した研究グループもあらかじめ想定していた反応だった。
 彼らの返答は以下の通りである。
「有史以来、自らのオナニーの回数とセックスの回数を正確にカウントした人物は存在しない。それに、もし意図的にせよ偶然にせよ、生涯のオナニー回数とセックス回数が正確に同数になりそうになった時は、神が必ずなんらかの介入をしてそれを阻むはずである」
 その時、満場の聴衆から割れんばかりの拍手が沸き起こり、いつまでも止むことがなかったという。

 さて、学会はその瞬間をピークとして緩やかに終息を迎え、ベルリンの壁崩壊直前に行われたモスクワ大会を花道に解散した。
 最後の宣言は、「我々はオナニーを克服したのではない。しかし一つの真理にたどり着いたのだ」 というものである。