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 わたくしは、驚いて思わず立ち上がりました。おにいさまは、なおも、おねえさまや丹七さんをひどい言葉で罵りながら、雨戸を叩き続けました。
「おい!俺はな、いずれは木村家の当主になる男なんだぞ。その俺が、わざわざ出向いてやったのだ。綿打屋ふぜいがもったいつけるな。こら、あさ子!あばずれ!猿親父はどうした!丹七!」
 それは、およそ聞くに堪えない言葉でございました。たとえお酒に酔っているとはいえ、わたくしのおにいさまが、こうまで浅ましい人間になり果てるとは!恐ろしさと、たとえようもない寂しさで、わたくしは、わたくしの周りの景色がぐるぐると、胸の悪くなるような早さで回り始めるような心地がいたしました。
 すると、いま一人の男の方の声がしました。
「まあまあまあまあ、若旦那様。ここは落ち着いて。落ち着いて」
 おにいさまを大仰に諌めるその声も、やはり大分お酒を召しているようでした。その間の手が、かえっておにいさまの乱暴に火をつけて、罵り声と、雨戸を叩く拳の音は、ますます大きくなりました。
 わたくしは、ただおろおろと、おねえさまと丹七さんをかわるがわる見やることしかできませんでしたが、二人とも、まるで時が止まってしまったかのように、押し黙ったままでした。おねえさまは、顔を天井に向けて、口をつぐんでおりました。こころもち青白く見えるその顔は、静かに、しかしきっぱりと、その世の全てを拒み、遠ざけているようでした。丹七さんも、先ほどから眼を落としたまま、しばらく黙っていましたが、外で、今度はおにいさまが無理矢理雨戸を開けようとしているらしい音が響きますと、わたくしに振り向いてささやきました。
「さあ、裏からそっと出てお帰りなさい」
「でも」
 私がためらっておりますと、丹七さんは、私の両腕をやさしく揺すって言いました。
「これからのことを、お嬢様に見せるのは忍びません。それに、お嬢様がここにいることを知られては、これにも私にも具合が悪いのです」
 そう言われてしまえば、席を立つしかありません。わたくしはもう一度おねえさまの手を握ってお別れをしました。するとおねえさまは、表情を変えずに、口だけ動かして言いました。
「約束、きっとね」
「わかったわ」
 こう言って、わたくしは、土間から勝手口の方に回りましたが、引き戸を一度そっと開け閉てしただけで表には出ず、戸口の脇に置いてある、大きな洗い桶の陰に屈んで隠れました。おにいさまたちに自分の姿を見られるのは避けなければなりませんでしたが、おねえさまと丹七さんを置いて、わたくしだけ逃げ出すことは、どうにもできなかったのです。その桶は、昔から置いてあって、わたくしはまだ小さな時分に、かくれんぼの時よくそこに隠れたものでございます。桶からそっと顔を出すと、質素でよく片付いた廚ごしに、ちょうど戸口のあたりが見通せるのでした。
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ずいぶん間が空いてしまいましたが、以前書きかけだった駄文の続きです。
なるべく早くに完結させたいです。

これまでの話

血盃異聞 その1 http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-935.html
血盃異聞 その2 http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-936.html
血盃異聞 その3 http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-937.html
血盃異聞 その4 http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-938.html
血盃異聞 その5 http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-939.html
血盃異聞 その6 http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-940.html


 わたくしは、おねえさまの願いごとが、思いもよらないものでしたから、吃驚して尋ねました。
「なぜ?」
 おねえさまは、
「なぜでも」
とだけ答えると、私の手を握り直しました。おねえさまの口元は微笑んでおりましたけれど、閉じられた瞼の奥で、おねえさまが、わたくしにどんな眼差しを向けているのか、わたくしには計りかねました。わたくしが、なおも答えあぐねておりますと、おねえさまは、静かに、優しく、
「だめ?」
と言いました。おねえさまに、そのようにお願いされてしまって、一体わたくしに断ることができましょうか。
「いいわ。わたしやるわ」
 なにもわからないままに、わたくしはそう答えたのでございます。 
 その時、今までじっと黙っていた丹七さんが声をかけてきました。
「お嬢様」
 それはいつになく強い調子でした。驚いて振り向きますと、丹七さんはいつの間にか正座をして、わたくしをじっと見つめておりました。丹七さんは、頭を下げますと、そのまま低く、静かに言いました。
「これが最後のお願いでございます。今のことは全部忘れて、どうぞこのままお帰りになってください」
 わたくしは、思わずおねえさまの顔を見ました。おねえさまは黙って天井を向いていました。その顔は彫像のようで、そこにはどんな感情も読み取れませんでした。でも、そんなおねえさまを見て、わたくしの決心はかえって固まったのです。わたくしは、また丹七さんに向き直りました。そうして頭を下げて言いました。
「ごめんなさい。わたし、おねえさまといます」
 丹七さんは、しばらく黙って下を向いていましたが、
「もう、後戻りはできませんぞ」
とだけ言って、またわたくしたちから背を向けてしまいました。
 その時です。表がにわかに騒がしくなり、雨戸が乱暴にドンドンと叩かれました。そしてすぐ外で、呂律の回らない叫び声が、荒々しく響きました。
「そこにいるんだろう、出てこい!」
 その声は、まぎれもなく、おにいさまのものだったのです。