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映画における「作家主義」を巡る断章 黒澤明とバッド・ベティカーとの比較

※4年くらい前に書き散らしたままにしておいたものです。


三船敏郎対仲代達矢(黒澤明監督「椿三十郎」)
http://www.youtube.com/watch?v=tv9rhC2q8zs
ランドルフ・スコット対リー・マーヴィン(バッド・ベティカー監督「七人の無頼漢」)
http://www.youtube.com/watch?v=FjXiakq_-ys


両者共に「早抜き勝負」の場面であるが、ここには映画「作家」というものの二つの体制の違いが
露になっている。

黒澤明は、有限数の可視的および可聴的ユニットの完璧なコントロールを目指す、という点で、
古典的な意味での「作家」たりえていると言えよう。
1954年にトリュフォーやゴダールが「作家主義」を標榜して、既存の映画業界にケンカを売りまくる以前は、
ある映画監督が「作家」の名に値すると見なされるのは、ともあれ彼が、企画から映画の細部に至るまで、
完全に近いコントロールを行う権力と自由を所有する場合に限られたと言える。
エイゼンシュテイン=フェリーニ主義とはこうしたものだし、上記の黒澤も、正にこうした意味での
「作家」の一人に数えられる。

ところが、バッド・ベティカーの場合は事情は正反対となる。
「七人の無頼漢」は、主演ランドルフ・スコット、上映時間80分未満、低予算、短い撮影期間と、
どこを切っても堂々たる「B級映画」であり、古典的な意味での「作家」が「自由」に振る舞える余地はあまりない。
実際、ここに引用された場面の、どの細部を取っても、そこにベティカー「独自の」視覚的刻印は存在しない。
つまり、映像=音声を構成する、可視的ないし可聴的下位ユニット(役者の演技、カメラワークetc)
のどれを取っても、そこには当時の文化的、経済的なコードから逸脱するような「作家性」は存在しない。

にも関わらず、不動のままのリー・マーヴィンの腹部に、不可視のランドルフ・スコットが放った銃弾が打ち込まれ、
驚愕の表情と共にリー・マーヴィンがよろめく時、そこには、ある絶対的に厳粛な瞬間が生じるのだ。
この厳粛さは、あまりにも慎ましい装いをしているため、ややもすれば、「間に合わせ」の器用な技術と混同されかねないのだが、
これこそが、トリュフォーやゴダールが提唱し、蓮實重彦が受け継いでいる「作家性」なのだ。

黒澤は、対峙する二人を横から捉え続けることにより、「全て」を可視化する。
昔俺は、なぜ三船が仲代に勝ったのかを知りたくて、レーザーディスクをコマ送りで見たことがあるのだが、
驚嘆したのは、そこにはいささかのごまかしもなく、必勝の論理があったことだ。
普通、刀(腰の左に下げられている)は右手で抜き、まず頭上に振り上げてから振り下ろすものであり、
仲代は正にその定石通りの振る舞いをしているのだが、
三船は、まず刀を左手で抜き、振り上げる動作を経由せずに、直接仲代の首筋に切り付けつつ、
右手を刀身に添えて力を補っている。
これぞ完璧、これぞA級という堂々たる演出である。

しかし、バッド・ベティカーは、「どちらが早く抜くか」というプロセス自体には着目しない。
そこには「結果」しか存在しない。
まあ「ずるい」のだが、多少補足をすれば、上に引用された場面の以前に、リー・マーヴィンが
ホルスターから拳銃を抜く動作を捉えた場面が何度かあり、その素早さを観客は記憶している。
なので、上の場面だけを見れば、ただあっけない幕切れに見えるだけかもしれないが、
映画の全編を見ている者にとって、これはかなり衝撃的な場面なのだ。
バッド・ベティカーは、黒澤と異なり、「なぜ(またはいかに)ランドルフ・スコットが強いか」を示さない。
彼は、だた、「ランドルフ・スコットが強いから勝った」ことしか示さないのだ。
つまり、ランドルフ・スコットの強さは不可視の領域にあり、その強さは、
リー・マーヴィンに打ち込まれる弾丸、というか、その音と、彼が後方によろめく動作という
「痕跡」によって示されるに過ぎない。
しかし、銃声と、リー・マーヴィンの動作は、「ランドルフ・スコットは強い」という
「不可視の全体」の「隠喩」ではない。
可視的、可聴的ユニット(銃声と動作)は、むしろ不可視の全体(「ランドルフ・スコットが勝った」)を、
もはや見ることができず、誰にも見られたこともなく、取り返しがつかず、二度と再現できない「一回性」
として、永久に闇の彼方に押しやる。
再現性を持つフィルムに一回性はないという反論は無効である。
その「全体」は、一度もフィルムの上に現れたりはしていないのだから。
それは「非在の一回性」として、どこでもない場所に、見えない亀裂を走らせる。
我々は、その痕跡だけを、鈍い衝撃と共に受け止める。
というわけで、作家の条件は、ヌーヴェルヴァーグから蓮實重彦に連なる系統においては、
従来の「作家」なるものとはある意味逆さまになっている。

ここで、未解決の問題がある。
「では、黒澤とバッド・ベティカーのどっちが偉いの?」
ということなのだが、
ゴダールも蓮實重彦も、明らかにバッド・ベティカーを称揚する側にある。
そして私も実はそうした態度に連なる一人なのであるが、
これが「永遠の真実」なのか、それともある種の時代的、地域的なパラメーターに左右される
事項に過ぎないのかは一考に値する。
というか、それを考察することを通してのみ、作家主義を相対化することが可能となるだろう。
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