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悲しみよこんにちは

 
2006年9月23日午前6時、駅のホームから


 何やらにぎやかで、突拍子もない出来事に満ち溢れた夢から目覚めた時、なぜか私はしばしば強い悲しみに襲われる。今朝もそうだった。午前五時に目覚ましの電子音で目を開いた瞬間、悲しみが全身にどっと流れ込み、そのままバケツに満ちた水のように、体内でゆたり、ゆたりと波打つのである。私はじっと天井を見上げたまま、しばらく身じろぎもできないでいる。
 悲しみの正体は長らく謎のままだった。別に夢の中で悲しい思いをしたというのではない。むしろそういう時の夢は、楽しいものが多いのである。かといって、その楽しい夢と引き比べて、目覚めた現実を味気なく感じるということでもない。とにかく、それは幻想に属するにはあまりに生々しい、身を切るような、現実の悲しみなのである。確かにそこには何ものかに対する認識がある。悲しむとは、何かを知ることではないか。喜びや快楽よりも、悲しみや苦痛の方が、より認識の名に値するのではないか。
 最近私は、そういう朝を迎えたとき、できるだけ動作をゆっくりと保つことにしている。悲しみを振り払うのではなく、身体を悲しみのリズムに順応させ、悲しみが体内を経巡るままにするのである。そこに何かの真実があるなら、それは大事にせねばなるまい。それは間違いなく希少な時間なのだ。私は一日が終わろうとしている今、こう書きながら、実はもどかしい思いに捕らわれている。見た夢をすぐ忘れてしまうのと同様に、私はもはやその悲しみをよく思い出せないでいるのだ。
 しかし今朝、目を閉じながら、歯ブラシを殊更にゆっくりと上下させていたとき、私は世界と自己について、確かに何かを把握していた。夢の中で起こった出来事は、すでに記憶のほとんどが失われているが、およそありそうもないことの連続だったということだけは覚えている。だが、その中で右往左往していた私の喜怒哀楽は、あくまで現実のものなのだ。私は事実、夢の中でかくかくの感情を抱いたのであるから、夢は感情においては現実なのである。その夢の中のある瞬間、私は鼻も高々だった。めまぐるしく無責任に変化する状況の中で、私はそのときは消防隊員かレスキュー隊員のようなものだったらしく、職業に対する誇りや、信頼する仲間との一体感に他愛もなく酔っていた。火事や事故が起きたのではない。確か私は夢の中で、事務机に座り、同僚とただ雑談をしていただけである。
 そのおぼろげな記憶が、なぜ目覚めの瞬間に、こうも強烈な悲しみを惹き起こすのか?今朝私が達した結論はこうである。結局そこには、私の生存そのもの、魂そのものの他愛のなさが剥き出しになっているのだ。私は夢の中にある通りのものなのだ。私の喜び、誇り、満足、焦り、屈辱の念、恥ずかしさ、などというものは、高々この程度のものに過ぎないことを、夢はご親切にも教えてくれるのである。私はこの無限の宇宙の中で、笑ってしまうほど有限な存在に過ぎぬ。
 アパートから駅への道すがらもひたすら悲しかった。ホロホロと眠そうなコオロギの鳴声が悲しい。やはりまだ眠そうなヤマバトの鳴き声が悲しい。みのり始めたハナミズキの実の赤さが悲しい。すぐ前をうつむきがちに歩く女性の後姿が悲しい。そのポクポクいう靴音が悲しい。頭上に青黒く垂れこめた雲が、地平線に達する前に切りそろえたかのように途切れ、その彼方からぼんやりとした茜色がさしている。その光がやたらに悲しい。
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COMMENT

yonda? URL @
09/24 00:53
ぼくも. そんな気持ちで夢から覚めて、朝を迎えることがあります。
「朝からこんなの、やりきれないな」と思いながら、じっとしていたいのに、時間が足りずに起き出します。

そして忘却し、また同じことを繰り返します。
ムー大陸 URL @
09/24 10:05
ようこそ. 

>そして忘却し、また同じことを繰り返します。

何がやるせないって、これが一番やるせないですなw
だからこんなことを書き綴ったのかもしれない。
「書く」ことは忘却への一番の防御ではないか?
かといって、繰り返しがなくなるわけでもないのでしょうがw








 

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