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『ゴリオ爺さん』

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『ゴリオ爺さん』 
バルザック 平岡篤頼 訳 新潮文庫 昭和47年


 この小説には、主人公を名乗る資格を持つ人物が二人いる。
 一人は野心家の若い学生であるラスティニャック。彼の上流階級でのサクセス・ストーリーが本書の重要な柱となっている。
 もう一人は二人の娘に全財産をつぎ込んだあげく、貧民窟のような下宿屋で孤独のうちに死んでゆくゴリオ爺さんである。
 でも、バルザック自身の思想を最も強烈に体現してるのは、「不死身」という渾名を持つ悪党ヴォートラン、この男性の権化である脱走徒刑囚なのだと思う。
 彼はゴリオ爺さんを評してこう語る。

「…感情てのは、思考と化した世界そのものじゃないのかな?ゴリオ爺さんを見ろ。彼にとっては、ふたりの娘が宇宙のすべてであって、彼女たちこそ、被創造物の世界をすすんでゆく爺さんの導きの糸だ。…」

 これは、この小説全体の構造にもあてはまる話である。ゴリオ爺さんの崇高なる妄執は、多様な登場人物の多様な欲望が複雑に交錯するこの小説のアリアドネの糸なのである。
 本書のクライマックスは、下宿屋でヴォートランが警察に逮捕される瞬間である。
 バルザックは、その時の彼の倣岸不屈の態度をこう描写する。

「…そのぞっとすろような偉大さ、なれなれしさ、卑俗さが、不意に、そんな言葉によって、そしてまたこの男によって、あますところなく表現され、この男はもはやただのひとりの男ではなくて、堕落した一人種、野蛮で論理的で、獰猛でしなやかな一種族の典型となった。一瞬にしてコラン(引用者注:ヴォートランの本名)は、ただひとつの感情、すなわち悔恨の感情を除いて、あらゆる人間感情が描き出された地獄的な詩篇となった。…」

「あらゆる人間感情が描き出された地獄的な詩篇」とは、この小説そのものではないか。
 強靭で凶暴な言葉の夢そのものではないか。
 その夢に突き動かされて、言葉は一分の隙もなく、息せき切ったように溢れ出す。
 なにせ世界を、宇宙をまるごと記述しようというのだ。
 バルザックの何という傲岸不遜。言葉は支配であって、同時に反逆なのだ。貴族にして犯罪者なのである。そこに「平民」はいない。おそらくこの言葉の正負両方向の特権性こそ、バルザックの生きた時代と現代とを分かつ指標なのだ。
 
 などと理屈をこねたが、一言で言えばとにかく面白い。
 どうもドストエフスキーの「罪と罰」なんかは、この小説の影響を強く受けているような気がするのだけど(ラスティニャックとラスコリーニコフは兄弟のようによく似ている)、「罪と罰」に比べて「ゴリオ爺さん」があまりメジャーじゃないのは、題名が災いしてるのではないか。
「俺いま『罪と罰』読んでいるんだ」というのと「俺いま『ゴリオ爺さん』読んでるんだ」というのでは、何かが決定的に違うのである。
 この小説は題名で損している。もっと読まれるべきだと思う。

2005年9月28日
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