FC2ブログ

『「絶対」の探求』

CA260226.jpg

『「絶対」の探求』 
バルザック 水野亮 訳 岩波文庫 1978年改訳版


  19世紀の始め頃のフランドル地方を舞台に、万物の共通元素である「絶対」を求めて、錬金術めいた化学実験に没頭し、そのために、経済的にも、社会的にも、一家の家長としても破滅してゆく貴族を描いた小説である。主人公は、その名もバルタザールという。
 知性の書である。と言っても、バルタザールの探求が「知的」なものであるからではない。むしろ、バルタザールは娘に全財産をつぎ込んで没落してゆく、愚かしくも崇高なゴリオ爺さんの同類と言ってよい。ゴリオ爺さんにとっては娘の幸福が「絶対」であった。その意味で、この「絶対」という言葉は、極めてアイロニカルに使われている。「絶対」は究極の安定をもたらすどころか、決してたどり着けず、それを求める者に、際限もない精神と肉体の浪費を強いるものだからだ。
 そして、この「絶対」の様相は、おそらく19世紀から現在にいたるまで続く、何ものかを語っているのだ。終着点を持たず、絶えず強さと圧迫を増大させながら無限に継続されるもの。これは資本主義社会そのものだ、とまで言い切れば極論かも知れないが、バルタザールとゴリオ爺さんを苦しめるのは第一に金銭の問題なのだし、バルタザールの当面の目標は炭素からダイヤモンドを合成することであることは心に留めておいていいだろう。明らかに言えることは、屋根裏部屋で、当時でも既に時代遅れであった錬金術に没頭するこの世捨て人は、しかしバルザックのまぎれもない同時代人として存在していることである。
 本書が知的であると書いたのは、本書がこうした時代精神への強靭な批評になっているからだ。「強靭」と書いたのは、バルザックにおいては、知性がそのまま膂力の発露になっているように見えるからである。本書は様々な二項対立で占められている。高貴さと卑俗さ、男と女、誠実と打算、理想と現実、妻と母親、母親と娘、旧時代と新時代、秩序と破滅に至る混沌…。これらの対は、一組の人物として体現されることもあれば、一人の人物の中の相矛盾する要素として描かれることもある。感動的なのは、バルザックがそれらの対立を距離を置いて眺めているのではなく、正に彼自身がそれらの対立の中で引き裂かれそうになるのを、強烈な精神力で耐えているように思えることである。
 冒頭のフランドルの屋敷の丹念な描写を読めば、バルザックがいかにこの地方の旧時代の秩序立った風俗を愛惜していたのかがよくわかる(私はふとフェルメールの絵を思い出した)。一方、バルタザールの屋根裏の実験室は、「学者の専心没頭というものが惹き起こす乱脈ぶりが、いたるところ、整理一方のフランドルふうのしきたりをぶちこわしていた」(240頁)のである。
 私は歴史には暗いので、はっきりとは言えないのだが、多分バルザックの生きた19世紀の前半は、おそらく新旧の時代の境目だったのではないか。新時代の狂熱を体現するのがバルタザールなら、旧時代の秩序の体現者は、彼の妻ジョゼフィーヌである。この貞淑で高貴で従順で…とにかく昔風に言えば妻の鑑とでもいえそうな女性は、あるとき意を決して夫に抗議する。
 
「…そうですとも、私はほかの女をみんな寄せ集めたよりも、ただひとつの思想のほうをずっと嫉妬しますわ。愛は大きなものです。けれど無限というわけには行きませんものね。だのに学問には底の知れない深さがあります。あなただけがひとりでそこに入っていらっしゃるのを、だまって見ているわけにはまいりません。私は、私たち二人のあいだに入ってくるものは、どんなものでも憎みます。…」(112頁)

 そう、人間の生命は有限だから、愛は無限というわけには行かないのだ。それを身をもって証するように、ジョゼフィーヌは衰弱して死んでゆく。無限はただ人を喰らい潰し、不毛の荒野を広げるだけではないか。バルザックは、この有限と無限という相容れない二つの様相を、腕力にものを言わせて、最後にシンバルのように打ち鳴らす。
 その結節点が、バルタザールの死の瞬間でしかありえないことはもはや明らかだろう。
(余談ですが、トリュフォーの長編映画第一作「大人はわかってくれない」に、以下の部分が思いもかけない形で引用されています。興味のある方はぜひぜひ)

 息も絶えだえの病人は突然、握りしめたこぶしにからだを支えて起きあがった。ギョッとしたこどもたちに投げかける視線は、まるで稲妻のように彼らのすべてに突き入った。首筋にわずかばかり残っている髪の毛がそよいだ。しわがピクピクふるえた。顔は火のような精気をおび、そこを、ある霊感の息吹が通りすぎて、この顔を崇高なものとした。激怒のために引きつる片手を高く差し上げると、われるような声でアルキメデスの有名な言葉を叫んだ、――「EUREKA!(わかったぞ!)」思うように動かないからだは、重そうな音を立てて寝台に落ちこんだ。彼は恐ろしいうめき声をあげながら死んだ。(348頁)

 おそらくこの死には、ある小説の、ある特殊な登場人物の死以上の何かがある。我々もまた、バルタザールとは別の様相の元にではあるが、ある「絶対」に捕らわれているのだ。これを「死」と呼び変えてもよい。つまり我々も、有限である生を、ただあるがままのものとして享受できる時代には生きてはいないのだ。我々は、返す当てのない無限の負債を抱えているかのように、あるいは決して癒されることのない乾きに突き動かされているかのように、踊りながら死に向かってまっしぐらに行進して行く。
 バルタザールはそれでも個人として生き、そして死んだ。しかし我々の絶対なるものは、もはや高貴さの影も止めておらず、ハメルーンの笛吹きよろしくわけもわからずに馬鹿踊りを無理強いするのみなのだ。
 バルザックの小説の登場人物を捉える様々な狂熱と、我々の今生きる社会の持つ狂熱。その共通点と違いを同時に見究めなければならない。それにはバルザックそのひとの凶暴な知性が必要とされる。そしてそのために、もちろんバルザックは読み続けられなければならないのだ。

2005年11月25日
スポンサーサイト



COMMENT









 

TRACKBACK http://moocontinent.blog65.fc2.com/tb.php/33-d25fe396