FC2ブログ

『谷間の百合』

04273389.jpg

『谷間の百合』
バルザック 石井一 訳 昭和48年


 相容れぬ二者の相克を描く、というバルザックお得意の手法は、本書でも肉体対精神という対立の中に余すことなく示される。
 一言でいって、本書は「エロい純愛小説」である。きわどい描写があるのではない。
 不幸な結婚生活に苦しんでいる美貌の伯爵夫人と、やはり不幸な出生の影を背負う純粋な若者が落ちて行く道ならぬ恋は、夫人の堅固な貞操観念に守られ、最後まで精神的なものに止まる。しかし、神ならぬ人間が、地上で無理なくそんな恋を貫徹できようはずもなく、青年は別の人妻と肉体の恋に溺れて行き、それを知った伯爵夫人は嫉妬と抑圧された欲望に身も心も苛まれて、ついには命を奪われてしまうのである。
 バルザック的悲喜劇を体現する人物とテーマは数あれど、対立や矛盾の、死に至るまでの相克を描くのに、この「貞操」というテーマは特権的な位置を占めているように思われる。興味深いのは、バルザックが結局は、この観念に対して、価値判断を放棄しているように思えることだ。バルザックの小説において、貞操を最後までつらぬく女性は、必ずといっていいほど悲劇的な結末を迎えることになる(例えば『従妹ベット』のユロ夫人がそれである)。しかしバルザックは、貞操は不健康な偽善であるなどとは決して唱えはしない。もちろん貞操万歳とも言わない。それは良し悪しを超えて、とにかく「そこにある」ものである。それは、バルザックの小説世界を作動させる情け容赦もない歯車であって、高貴な魂を(それが高貴であればあるほどなお残酷に)バリバリと噛み砕いてゆくのである。バルザックはそれを、一応はキリスト教的な受難の過程として描き出している。伯爵夫人は臨終の場になって信仰と己の尊厳を取り戻し、神々しく死んで行く。しかし、私にはこの結末は、時代がバルザックに強いたアリバイ作りのように思われる。おそらく、バルザックの本音は、伯爵夫人が青年にあてた手紙の中に見られる、以下の部分に集約されているのではないか。

「…私は社会が神さまから由来するものか、人間がつくりだしたものかは知りません。それがどちらの方にむかって動いているのかもわかりません。ただ私の目にたしかなことは、社会が存在しているという事実です。社会からひとりはなれて暮すのをやめ、社会をうけ入れようとおきめになったら、その日からあなたは社会のよって立つ種々の条件を、すべてそのままよきものとお考えになることが必要です。…」(p195)

 この身も蓋もない認識こそ、バルザックの人間喜劇の底流を成しているのではないか。神とは社会である。しかしこの新しい神は精神を持たず、自分がどこにたどり着くかも知らぬまま、ただひたすら自らの王国の民に暴虐を強いるのである。
 もちろん、ここにはまぎれもない愉悦が、快楽がある。バルザックもその読者も、自らの宗教的=社会的信条と欲望の間に立って煩悶する伯爵夫人を、青年の欲望の目を借りて、ムラムラしながら見守ることになるからだ。夢見るような風景描写をはじめとして、この書物全体のかもしだす雰囲気は、どこまでも清烈でありながら、とにかく激しく色情的である。
 この「善悪の彼岸」にある快楽と悲劇をあまさず楽しむ我々は、では神の視座にいるのか?「見えざる手」を持たず、ただ「目」と化した神に?
 バルザックの小説においては、「人間的努力」によって、事態が解決することがない。悲劇や葛藤は、登場人物の死によってしか解決(ないし中断)されないのである。
 これはバルザックの「宗教」なのだろうか。悲劇が救済の対象ではなく、悦楽の対象であり、その悦楽こそが救済であるような世界。これはあんまりキリスト教的な世界観ではないように思える。さらに人間喜劇を読まねばならない。

2006年3月14日
スポンサーサイト



COMMENT









 

TRACKBACK http://moocontinent.blog65.fc2.com/tb.php/35-269c12c1